幻の一品を食した後だからなのか、妙に彼女の所作がいつもより細やかに見えた。
斑目
(甘い物ひとつで、対応がこんなに変わるなんて、案外と単――可愛らしいところもあるんですねぇ)

心の中での声なのだから、わざわざ言い直す必要もないのに、あえて言い直す斑目。
この情報を知っていたら、生活を圧迫している支払いを回避できたかもしれないと思うと悔やまれる。
もっとも、一里之のような特殊なコネは持っていないが――。
千早
手提げ金庫はごくごく一般的なものですね。

一里之
そこのテンキーに4桁の数字を打ち込むと金庫が開くんだ。

一里之
今は朝に店長がリセットしてあるだろうから【0000】で開くはず。

千早
テンキーの裏側には、これまたテンキーですか。

千早
なるほど、裏側のテンキーに暗証番号を打ち込んで設定するタイプですね。

一里之
うん、設定した暗証番号は、そこのセグメントに表示されるようになってる。

一里之
間違えないように、店長はそこの画像を撮影して、メールに貼り付けて送ってくるんだ。

千早
では、これと同様のものを写したメールが、一里之君の元に届いていたわけですね?

一里之
うん、そうだよ。

千早
ちなみに確認ですが、昨日――そのメールが送られてきてから、今朝お金がなくなるまでの間、メールを誰かに見られた可能性は?

一里之
ないと思うよ。昨日は寝るまでずっとスマホいじってたし、寝る時は枕元に置いてた――今朝は店からの呼び出しで起きたくらいだから。

斑目
寝ている間に家族に見られるおそれはあったということですね。

一里之
いや、一応ロックかけてあるし――。

千早
それに、万が一にも一里之君のご家族がメールを盗み見ることができても、まずそもそもそれが何の暗証番号か分からないでしょう。

千早
お金を盗るためにはお店に行く必要がありますし、そもそも綾茂さんという方が事務所の鍵を閉め忘れたのもたまたまだと思われます。

千早
ゆえに、ご家族様は容疑から外しても問題ないかと。

千早
それと確認しておきたいのですが、関係者であれば誰でも自由に店内に出入りすることは可能ですか?

一里之
まぁ、締めの人間と翌日の開店作業の人間は鍵を持たされるから、その人達は可能かな。

千早
ちなみに、それが可能だったのは?

一里之
僕と締めが一緒だった綾茂さんと、翌日早番だった凛子さんかな。後、当たり前だけど店長は常に鍵を持ってるし。

千早
なるほど……。

千早は金庫の中を眺めつつ、一里之の方へと視線をやる。
千早
話を戻しますが、こちらの暗証番号はどのようにして設定するのですか?

一里之
えっと、それこそ世の中に結構な数が流通してるやつだから、型番とメーカーで検索すれば説明書が――うん、出てきた。

スマホを巧みに操作すると、その画面を千早の方に見せる一里之。
一里之
テンキーの下部にある【C】キーを3秒くらい長押しして、セグメントが点滅したら設定したい暗証番号を入力するみたいだね。

千早
なるほど、このキーを長押しして――セグメントの点滅を確認したら、設定したい暗証番号を入力。

千早
これでいいみたいですね。

暗証番号を設定したであろう千早は、小さく頷いてから、金庫を閉めてしまう。
千早
それでは、実際に変更できているか確認してみましょう。

千早
一里之君【2222】と入力してみてください。

一里之
えっと――【2222】と。

千早
暗証番号の設定変更は簡単。これなら、毎日暗証番号を変えたくなる気持ちも分からなくはありませんね。

斑目
まぁ、少なくとも【2222】に設定する人はいないと思いますが。

千早
なぜ?

千早
にゃーにゃーにゃーにゃー

千早
で【2222】ですので、自然かと。

小柄にしては声が低いから、それもまたギャップ萌えというやつなのかもしれない。
千早
それはともかく、他に何かございませんか?

千早
これだけだと、あまりにも情報が少なすぎます。

一里之
そんなことを言われてもなぁ……ん?

金庫に目をやった一里之が、ふと金庫の角へと顔を近づける。
店が薄暗いせいか、わざわざスマホのライト機能を使って、金庫を隅から隅まで照らしていく。
斑目
どうしたんですか?

一里之
あ、いや――少し前のことなんだけど、一度金庫を床に落としたことがあって、角に小さな傷ができたんだよね。

一里之
その時は目立たない傷だし、いちいち店長に報告していたら面倒だからってことで、口裏合わせて黙っていることにしたんだ。

千早
それはいつの出来事ですか?

一里之
うーん、正確な日付までは――。

千早
日付ではなく、時間です。

千早
金庫を落としたのは、どのタイミングでした?

千早
開店の時ですか?

千早
それとも閉店の時?

千早
誰と口裏を合わせることにしたんですか?

一里之
確か、あれは凛子さんとペアになって締めをしていた時のことだから、閉店の時だね。

一里之
「いざとなったら私がやったってことにしとくから」って、凛子さんが言ってくれて、それで口裏を合わせることにしたんだ。

千早
その事実、店長はまだ知らないんですよね?

一里之
多分――。

一里之
あの人細かいから、俺が金庫を落として傷がついたなんて知ったら、絶対に説教してくるから。

一里之
それとも、あの時はひどい傷に見えたけど、実際はそこまでじゃなかったのかな。

千早は改めて金庫を閉め、テンキーで暗証番号を入力する。
先ほど千早が設定した暗証番号だから、当然ながら金庫は開く。
千早
金庫は暗証番号によってロックの開閉ができ、くわえて簡単に暗証番号の変更ができた。

千早
そして、金庫を無理矢理こじ開けた形跡はなく、しかもあったはずの傷が消えていた――。

千早
なるほど、そういうことですか。

千早
査定が終了しました。

一里之
え、誰が犯人なのか分かったってこと?

千早
とりあえず、お金を盗ることが可能だった人物は、どうやら存在したようですね。

千早
これより、査定の結果をお伝えします。

ひょんなことから事件に巻き込まれることになってしまった一里之。
いつも通りの千早に、安堵の溜め息を落としたのであった。