船室で、一人の男がノートに何かを書きつけている。
太田豊太郎
石炭はもう積み終った。
太田豊太郎
船室の机の周りはとても静かで、電燈が無駄に明るい。
太田豊太郎
毎晩ここに集まってカードゲームをやっている連中も、
太田豊太郎
今夜はホテルに泊まって、残っているのは俺一人だけ。
太田豊太郎
だから、こんな明るさなんて必要ないんだ……
男は何かを思い出すように、遠くを見つめる。
太田豊太郎
もう五年前のことになるか。
太田豊太郎
俺は、日頃の望みがかなって、ドイツ出張の指令を受けた。
太田豊太郎
このサイゴンの港まで来たころは、目に見るもの、耳に聞くもの、すべてが新しく感じて、思うままに書いた旅行記が一日数千文字にもなったものだ。
太田豊太郎
海外のことは珍しかったから、そんなものでも当時の新聞にのって、世の中でもてはやされたもんだ。
太田豊太郎
だけど、今になって思えば、幼い思想、身の程知らずの放言、ごく当たり前の動植物や人々の生活なんかをさも珍しいもののように書いたっけ。
太田豊太郎
あれ、ちゃんとした人はどんなふうに読んでいたんだろうなぁ。
太田豊太郎
今は、日記を書く気にもなれなくて、ノートは白紙のままだ。
太田豊太郎
俺は、ドイツですっかり無感動(ニル・アドミラリイ)な人間になってしまったのか?
太田豊太郎
そうじゃないんだ。これは別に理由があるんだよ。
男の思いは、さらに遠い過去にさかのぼる。(続く)






