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風香は我に返ったような声を発した。
慌ててキョロキョロと周囲を見回す風香。 あおいも隣で、ぽかんと立ち尽くしている。
そこにあったのはいつもの通学路。 電柱や街路樹が並び、少し遠くに校門が見える、なんの変哲もない光景だった。
目の前にあったはずの皿も、カップも、ルミの姿も──跡形もなくなっていた。
風香の頭にふわっと浮かんだその言葉。
花の香りも、お菓子の味もしっかり身体に染み付いているはずなのに、どうも夢から覚めたような、ぼやけた感覚がぬぐえない。
二人の間に一瞬の沈黙が流れる。 その時。
突然、周りの視線を感じて、二人は同時に顔を上げる。
そこには、自分たちと同じ制服姿の少女の姿が二人。
しかし、その表情はどこか怯えていた。 一人は真っ青な顔で風香たちを見つめ、もう一人は慌てて口をふさごうとしている。
風香が健気にとぼけかけたところで、あおいは黙ってその手を取った。
そのまま、二人は学校へと駆け出した。
しかし、二人は知らなかった。
街路樹の茂みから覗く、真紅の瞳。
見つめていたのは、何も彼女らだけではないということを。
町外れの廃ビルの屋上。
黒いリボンが盛り込まれたゴスロリ姿の少女がフェンスに腰掛け、恍惚とした表情を浮かべていた。
手元のハードカバー型モニターには、急いで学校に向かう風香とあおいの姿が、はっきりと映し出されている。
少女の声と共に、ずんぐりむっくりした体躯のコウモリに似た生き物が姿を現した。
少女は自慢げに鼻を鳴らす。
わしわしと掴むように“リリス”が”ピピ“と呼んだそいつを撫でてやると、彼女はにんまりと思わせぶりに口元を歪ませた。
愛らしくも、どこか不気味な少女の笑い声が、春の空に溶け込んでいった。
桜が舞い散る校門。 二人は思わず目を丸くした。
校舎の時計の針は7時20分を指し、昇降口の靴箱には、上履きがずらりと並び始めていた。 その間を縫うように、いくつかのローファーがぽつぽつと差し込まれている。
とてもカフェでのんびりお茶をした後とは思えない状況だった。
真剣な顔で答えるあおいに、風香が声を荒げる。
見るからに心を躍らせる風香を見て、あおいは小さく肩をすくめた。
AMETRINEを出た直後に居合わせた、怯える生徒に、遅刻どころかむしろ早く着いてしまった二人。
それらが、“時間が止まっていた”ことの何よりの証だった。
──ここに“時の流れ”というものはないの。 ずっと、ずっと変わらない。
店主──ルミの言葉が、じんわりと胸の奥で響き渡っていく。
魔法。
でも、あの人にとっては、呪いのようなものなのかもしれない。
少しだけ顔を強張らせながら、あおいは風香と並んで、新しいクラスの一歩を踏み出した。
あおいは思わず口元を押さえた。
始業式。
生徒で寿司詰めになった体育館の床で、体育座りで並んでいた風香とあおい。
ぽかぽかとした春の陽気と校長先生の冗長な話し声が重しに変わり、瞼にのしかかってくる。
風香も、頬杖をつきながらため息を吐いていた。
中には耐えきれず、そのまま居眠りや会話をする生徒も出始めていたが、二人はなんとかして意識を保っていたのだ。
しかし、風香のまぶたがついに落ちそうになった、その瞬間。
───ねぇ。
ぼんやりとした意識の奥に、誰かの声が差し込んだ。
少女のような声からして、『彼女が起こしてくれたのだろう』と風香は思ったが、眠気が取れた時、それは間違いだと気づいた。
あおいの瞼は、既に限界を迎えていたからだ。
何より声が明らかに別人のものだ。
エフェクトをかけたような、揺らぎを孕んだその声。
木霊するたび、恐怖心がどんどん膨れ上がっていくのを覚えた。 生暖かいものが背中をなぞり、ただでさえ淀んでいた空気が、更に重みを増すように感じる。
声を出そうにも、喉が凍りついている。 言葉一つすらも出ない。
──助けて?
風香が心の奥で願いを呟いた瞬間。
あの声が、もう一度囁いた。
…へえ、あなたがそう願うなら、ね。
どこか意味深な物言いに引っかかるところがあったが、恐る恐る耳を傾ける。
──その代わり、“別のもの”を差し出してもらうよ。
淡々とした、今にも消え入りそうな声で囁いた刹那。
ジュッ。
あおいの影が一瞬にして消えた。 まるで、煮えたぎった湯に薄氷を落としたかのように。
──目の前で、親友が消えた。 怪物に追いかけられるよりも、はるかに恐ろしかった。
声も出ない。 風香の喉から漏れたのは、空気が弾けるような微かな音だけ。
ただ、校長の退屈な声だけが、体育館に響いていた──いや、二人を除いては。
深紅と勝色の鋭い視線が、共に揺れ動いた
───が、その時には、もう消えていた。
深紅の瞳の少女──花多山が低く呟いた。 真っ直ぐ前を向いたまま、膝に置いた手が微かに震えている。
隣で、勝色の瞳の少年──赤月は静かにうなだれ、その手は、膝の上でゆっくりと拳を握り締めていた。
抑えた声が、すっと舞台袖に立つ教師へと向かった。