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〜インパール作戦(ウ号作戦)〜
この史上最悪の作戦とも呈されるインパール作戦がどのように発生し、どのような終焉を迎えたのかを解説します。
1941年12月8日未明、日本軍の真珠湾攻撃により日米は太平洋戦争(大東亜戦争)に突入します。
当初日本軍は破竹の進撃を続けます。
が、日本軍には懸念がありました、それは
終わりの見えない泥沼、日中戦争でした。
当初、陸軍上層部は「中華民国国民政府は日本軍による強力な一撃を加えるだけで屈服し、早期講和に持ち込める」と考えていました。(どちらかと言うと結論の出ないまま"対支一撃論"に従って日中戦争に突入した感じです)
そして、実際に日本軍は上海、首都南京も攻略し、国民政府に強力な一撃を加える事に成功します。
しかし、国民政府は屈服せず、結果、日本はそれ以後、中国全土を相手にする泥沼戦争に足を引きずり込まれていくことになります。(日中戦争は太平洋戦争による日本降伏まで続きます。)
そして時は移り
1941年12月8日、日中戦争、アメリカによるABCD包囲網による石油問題解決等のため、日本軍による南方作戦(フィリピン作戦、マレー作戦、蘭領印度作戦、グアム作戦、英領ボルネオ作戦、香港作戦、ビスマルク作戦等)が発動されました。
(そして、先程紹介したように、真珠湾攻撃によって対米戦も始まります。)
そしてこの南方作戦が、大本営の想定以上の快進撃であり時間も兵力にも余裕があった日本軍は"援蒋ルート"遮断も兼ねて1941年12月14日に英領ビルマ(現在のミャンマー)に侵攻、そして占領します。しかし、インドへの侵攻については保留といった感じでした。(当時このビルマ方面についての大本営の方針はハッキリとは決まっていませんでした。)
しかし...
1942年6月7日、ミッドウェー海戦において帝国海軍はアメリカ海軍に大敗北を喫します。
そして
1943年2月9日、海軍に相次ぎ陸軍もガダルカナル島の戦いで米軍に敗北、ガダルカナル島から撤退します。
この戦い以降日本軍の進撃は停止します。(ガダルカナル島の戦いはミッドウェー海戦と共に太平洋戦争における攻守の転換点になったと言われています。)
この後ジリジリと日本は連合国に追い詰められていきます。
1943年9月30日に設定された絶対国防圏の図
ここでやっと本題の インパール作戦についての解説
当時援蒋ルート(ビルマから中国雲南省に通じる物資補給ルート)を遮断するためにビルマを占領していた日本軍でしたが...
1944年頃より連合国軍の反攻が激しくなり、このままではジリ貧であるからもういっその事攻勢に転じて英軍のビルマ反攻拠点インパールを奪取し、英軍の補給路を断つべく企画立案されたのがインパール作戦です。
が、しかしインパールに辿り着くまでには標高2000mのアラカン山脈と大河チンドウィン川を渡らねばなりません。
そこを大和魂で進軍せよと命じたのがこの男
牟田口廉也中将です。
この男こそがこのインパール作戦の立案者でありました。
この無謀な作戦に対し、部下の小畑信良参謀長等は兵站の観点からこの作戦を実施すべきではないと牟田口司令官に進言しましたが、牟田口に「消極的だ」と叱責され、更迭させられました。
が、しかし、兵站上問題があるのは事実
そこで牟田口中将は牛やヤギ等に荷物載せて動けなくなったら食っちまえというジンギスカン作戦を考案します。
そして、未だに不安が残る中1944年3月8日インパール作戦が発動しました。
ジンギスカン作戦のために現地で集められた家畜達は最初のチンドウィン川渡りで半数以上が流されてしまいます。
その後も長距離の行軍だけに牛がついていけなくなり、牛連れてノロノロしてるもんですから英軍爆撃機の格好の的になって...
ジンギスカン作戦は早くも破綻
戦況は泥沼の様相を呈しながらインパールは雨季に突入します。
司令部はビルマの雨季の影響が出る前に戦闘を終わらせる予定であったため現地の兵士は3週間分の食糧しか持たされておりません。
現場が苛烈を極める状況の中、前線司令部では...
司令官達は酒を嗜みながら芸者遊び
前線司令部が芸者遊びの最中でも前線では弾薬及び食糧も残り少ない中、兵士達が大和魂で戦っています。
コヒマで奮闘する31師団の佐藤師団長は司令部に対し補給の要求をする必死の打電をしますが...
牟田口中将はこれにブチ切れ
話にならんと思ったのか佐藤師団長は独断で撤退を開始(命令に背くのは帝国陸軍始まって以来はじめての事)
軍法会議覚悟で法廷で牟田口司令の暴挙を問うつもりだったようです。
が、しかしこれは佐藤の錯乱という事でうやむやに...
あまりの惨状に牟田口の上司、河辺ビルマ方面軍司令官が牟田口の元へ訪問します。
が、作戦中止を促すどころか「かねてより牟田口が熱意をもって推進してきた作戦なので是非やらせてやりたい」と作戦を認可
した手前中止が言い出せずそのまま帰ってしまいます。
(インパール作戦は3個師団を投入する大作戦でしたが、上層部の人情論によって大本営でも作戦が認可されていました。)
上層部がぐだぐだしている中
前線では既に飢餓と疫病が蔓延し
もはや戦闘どころではなく、もはや敵は1に牟田口2にヒョウやハゲタカなどの野生動物、英軍と戦うのはその後という有様
7月に入って、さしもの東京の大本営も作戦中止を決定しました。
ですが兵隊さん達にとって本当の地獄はここからです。
なんたって食糧も何もない中今まで通ってきたアラカン山脈やらチンドウィン川やらを逆戻りしないといけないんですから。
そして地獄の撤退戦が始まります。
これに対し英軍も徹底的な追撃にでますが
日本軍の撤退路には無数の日本兵の死体が散乱し...
いつしかその道は白骨街道とよばれるようになったのです。
そして、当の牟田口は、英軍反攻の情報が入ると一目散に逃げ出し、戦後まで生き延び、天寿を全うしました。
でめたし、でめたし