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つまり最後の子は何も知らずに3ヶ月分伸ばしてしまうと…恐ろし。
「すべてなんにも無い」 という心の状態は
私たちにとっても 最大の不安ないし恐怖を
引き起こすものなのだ ということは
疑うことができない
——遠丸立「恐怖からの脱出としての人間史」より
男
男はテーブルに拳を叩きつけた
煎茶の入った湯呑みから 飛沫が散る
怒りと不快感をあらわにした顔の右眉が 痙攣しているように小刻みに震えた
満田
満田
男
男
男
男は右足で テーブルを蹴り上げる
男
男
男
満田
男
男
男
男
男は机の縁を掴むと 資料が乗ったテーブルを勢いよく ひっくり返した
テーブルの足が甲高い金属音を上げて折れ A4サイズのプリントが床に落ち散乱した
男
男
満田は脂汗を顔じゅうに浮かせて 横一文字に結んだ唇を 小さく震わせていた
そのとき応接室のドアが開き 満田の上司が部屋に入ってきた その顔は意外なほど落ち着いている
満田の緊張がゆるんで こわばっていた体から力が抜ける
蓮池
部屋の惨状を見るなり 蓮池は満田に問う
満田
男
蓮池は男に目を向け 両手を突き出して見せ
深々と礼をした
蓮池
蓮池
満田もただ頭を下げるばかりである
男はもううんざりだとでも言うように ひとつ大きなため息をついた
男
男
男
男
男
男
男
男
男は苛立ちをあらわにするように 腕を組んで足を揺する
蓮池は心底申し訳なさそうに 大変失礼しました、と一礼した
蓮池
蓮池
蓮池
蓮池
蓮池
蓮池は小さいながらも 情熱的な声でそう諭す
男
男
男
男
満田は震えながら 顔を持ち上げる
蓮池はそれを制すように 右手を満田にかざした
蓮池
蓮池
蓮池
蓮池
男
男
男
蓮池
蓮池
蓮池
蓮池
蓮池
蓮池
男は怪訝な表情を崩さないまま
男
蓮池は「もちろんです」と頷き一礼する 満田もそれに倣うように 深々と頭を下げた
男
男
男
男
男
男は 店員が慌ただしく店内を行き来する ファミレスにいた
エアコンは効いているはずなのに ランチを求める客でごったがえした店内は 暑苦しく感じられた
男は舌打ちをしながら スマートフォンを取り出して スケジュールをチェックする
男
男
ついでに 画面左上に表示されている時間を睨む
ちょうど 大学生ぐらいの店員が 男のテーブルのそばを通りがかった
男
店員はきょとんとして あたりをキョロキョロと見回す
男
男
店員
店員
男
店員は小刻みに足を揺らしている男を見るなり 一瞬固まってから声を絞り出す
店員
男
店員
男
怒鳴り声を上げた男に 店の中にいる全員の視線があつまる
男
店員
男
男
男
店員
男
男
男
一方的にまくし立てる男の声が キッチンにも届いたらしく
蒸気の上がる鉄板を持ってきた別の店員が 男の前に現れた
店員
店員
ステーキを運んできた店員は 男に一礼する
男
男
店員
ふたりの店員はもう一度男に頭を下げ その場を後にした
客たちもそれを確認するなり なにも見なかったかのように
銘々もとの かたちに戻った
男
男
男
男
男はひとりごちながら サイコロステーキにフォークを突き立てた
ステーキを口に運びながら
ふと 最近気になり出した
膨れ上がった下腹部を見る
男
男
ステーキを口に運び くちゃくちゃと音を立てながら咀嚼する
男
窓際に目をやると いくつかポスターが目に入る
「夏休み明け直前! 新学期に友達と差をつけたいならこの塾!」
「夏だ!野球だ!冷えたビールだ! 磨き抜かれたこののどごしを体感せよ!」
「夏休みの思い出はできた? 大切な人と一緒に映画館に観にいこう! 『日本終了まであと一週間』」
男
男
男
男は再びステーキにフォークを突き刺し 口に運んで
もう一度ポスターを見遣る
男
するとそこに
先ほど見たとき気づかなかった 黒塗りのポスターがあった
それを背景にして 白い明朝体が浮かび上がっている
男
男
男
男
男はそのポスターの下部に 小さな文字で詳細が書かれているのを見る
「当社の『時間拡張機』は 文字どおり時間の進み方を遅めることができる
独自の最新技術です
なにかをするのに時間が足りない方
日常生活にもう少し時間がほしい方
さまざまなニーズにお応えします お気軽に当社までご連絡ください」
男
男
男
男はコップの水をあおる
男
男
ふとそんな考えが頭に浮かんで
男はもう一度 黒いポスターをまじまじと見た
男
男
男
男
「どいつもこいつも 話にならねえ」
そう思いながら ステーキとライスを 交互に口に運ぶ
男
その時 カメラのフラッシュのような光が
男の目を射抜いた
男
男
どうやら光源は ポスターの方にあったらしい
男
男はもう一度 それを睨む
男
あなたの時間、 伸ばしませんか?
社員
簡素な「面談室」の中で 「時間拡張機センター」の社員が男に一礼した
男はいま一度室内を眺めまわし この部屋が一種異様な質感を醸していることを したためた
汚れひとつない明々としたLED灯
小さな穴が規則正しく並んでいる壁
やけに体にフィットしている 黒いソファ
男は用意されたアイスティーを ストローですすり
澄み切った表情をしている社員を ぎろっと睨んだ
男
男
社員
社員はあらかじめテーブルに置いてあった クリアファイルから
一枚の書類を取り出し 男の手元にゆっくり差し出した
社員
社員
社員
社員
社員
社員
社員
社員
社員
社員
社員
男はソファーにふんぞって カラカラと笑った
男
男
男
男
男
男は再び社員に なかば睨むような目をやった
だが社員はにこやかな表情を 崩さないままだった
男は眉間に皺を寄せる
社員は落ち着き払った声で 男に語りかけた
社員
社員
社員
社員
社員
社員
男は目線を テーブルに置かれた観葉植物の方に逸らす
男
社員
社員
男
男は少し顎を突き出すような形で 社員を見た
目を細めて微笑んでいる社員
そこにはどこか神聖なものが 宿されているようだった
男
男
男
男
男
男
男
社員はゆっくりと首を縦に動かし
社員
社員
社員
社員
男
社員
男
男
男
社員
社員
男
男
社員は 先ほどの書類に人差し指を当てた
社員
社員
社員
社員
男
男
男
男
男
男は頭を右手でガリガリ掻きながら ペンを手に取った
男
男
男
社員
男
男は指定された箇所に 自らの名前を走り書きすると
紙をまとめて 社員に突き出した
男
社員
社員
男
男
社員
社員
そう言って社員は いくつか線グラフの書かれた書類を取り出し
男に渡した
男
男
社員
社員
男
男
男は「引き延ばす日数」の欄に 素早く「24」と書き込み
次いで下の「デュレーション」の 「拡張率」を見て 全て「最長」にマークした
男はペンを転がして 社員の表情を見た
男
社員
社員
社員
男
男は勢いをつけて ソファから立ち上がった
男
社員
社員は笑みをたたえたまま ゆっくりと頷いた
社員
エレベーターで最上階に上がると
眼下にビルの乱立する都心部が 見渡せる窓があった
男
男
社員は微笑を崩すことなく 男に黒いアタッシュケースを差し出した
社員
社員
社員
社員
男は気だるいため息を吐きながら ケースを受け取った
男
男
社員
社員
社員
社員
社員
男
男
男
社員
社員
男
社員
社員
社員
社員
男
社員
社員
男
男
社員
男
社員
男
社員
男
男
男
社員
社員
社員
男はつかつかと部屋に入り
内部を眺め回した
男
男
男
鍵がかけられるような音がした
呼び鈴を鳴らすような音が響き 「第1日目の開始をお告げします」と
先ほどの社員らしき声で アナウンスがあった
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
そう喚き散らしながら部屋中をよく見渡すと コンセント横に設られたデスクの横に
「食品取り出し口」と書かれた 四角形の穴があった
男
男は穴の中に オブラートのような薄い袋に包まれた
長方形の食物を 発見した
男
男
男はそれを 特段怪しむこともせず
右手に取った
男
包みを破いて 無遠慮に中身を口に運ぶ
男
男
男
男
男
男
パンを咀嚼していると 穴に敷かれたトレイに
何かが落下してくる音がした
男
男
男
そのとき 男の意識に唐突な考えがよぎる
男
男
男
男
男
男
男
男
男は部屋に入ってきたドアに詰め寄る
思い切りドアを蹴りつける
しかし黒い塗料でコーティングされた そのドアは
巨大な要塞の城壁のように固く 壊れるどころかびくともしない
男は両の拳で 殴るようにドアを叩いた
男
男
男
どうやっても動かないドアを しきりに叩き続け
身体中にじっとりと汗をかいた男は 諦念してしゃがみこんだ
男
男
男
ぜえぜえと苦しげな息継ぎをしながら 男は上部を仰ぎ見た
入った時には気づかなかったが そこには数字の列が表示されていた
男
男
男
男
男はふうっとため息をついた
男
男
男
男は 捨てるように床に放ったバッグと アタッシュケースを見つめる
男
男
男
男
男
男
男はバッグから ノートパソコンを取り出し
デスクの上に乗せて コードをコンセントに繋ぐ
ワープロのアプリを起動し 書きかけの原稿を呼ぶ
男
先ほどまでの胸焼けがするような怒りは どこかに消え失せ
その代わりに執筆に対する 集中力が高まってくる
キーボードを叩く音だけが 無機的な室内に響いた
男
男
男は一旦 キーボードから両手を離す
書くことだけに集中していた両目が重い
男
男
男
男
男は凝った肩と首を 軽く回してほぐす
男
男
大きなあくびをしてから 扉の上に表示されている時間を見た
男
男
男
男
男
男
男はパンの入っている 取り出し口に首を突っ込んで 叫んだ
男
男
男
男の声がやむと 研ぎ澄まされた静寂が訪れた
男
男
男
男
男はやけに広い ダブルベッドに身を投げ出す
男
男
蓄積された疲労が すぐさま男を眠りに押しやった
男
男
男
男
男
男
男は食品取り出し口に手を突っ込む
男
男
男
男はパンを乱暴に掴み 床に叩きつけた
するとまた次のパンが 送られてきた
男
男
男
男
男
男
そのとき 男の腹がグググ、と鳴った
男
男
落ちてきたパンを持つと また次のパンが現れる
男は渋々 包みごとパンに齧り付く
男
男
男は振り返り 赤い数字の列を見やる
男
男
男
男はスマートフォンを取り出し 日付と時刻をまじまじと見た
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
むしゃくしゃしながら パンをすべて呑み込むと
男は再び文字盤を睨んだ
男
男
男
男は再びスマートフォンを掲げ ストップウォッチを起動する
男
男
右端の「09」の数字が「08」に 変わったところで
「スタート」をタップする
男
5秒
30秒
1分
一分一秒が やけに間延びして感じられる
2分が経つ
男は時折頭をガリガリと掻いて 苛立ったようにため息をついた
男
3分
4分
男
男
男
毒づくような呟きを 繰り返していると
ようやく文字盤の 右端の数字が「07」に変化した
男
男
男
男
男
男
男は画面を計算機に切り替え 「5」と入力した
男
男
男
男
男
男
男
男のこめかみを 冷や汗がすべる
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
全身が水をかぶったように 急激に冷え
男はスマートフォンを床に落とした
しかし次第に 恐怖はそれに打ち勝とうとする 怒りの火種になった
男はけだもののように 咆哮して
固く閉されたドアに飛びついた
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
吠え散らす男を見下ろすように 文字盤の右端の数字がまたひとつ減った
男
男
男
男
男
男
男
男の瞳孔が大きく開いた とある考えが浮かんだのだ
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男は文字盤をギロリと睨んだ
男
男
男
男
男
男はパソコンに向き直り 自ら書いた文章をスクロールした
男
男
男
男
男
男
男は再び ドアの前につかつかと詰め寄る
男
男
男
男
男の声は 壁に吸い込まれるだけだった
男
男
男
ここに来る前でっぷりと肥えていた 男の腹部が
見違えるほどすぼんでいた
男
男
いつの間にかため息のような怒声が 口癖になっていた
男
男
男
男
男
男
男
男
男
スマートフォンのストップウォッチに 表示された
数字を目に焼き付けるかのように 凝視していた
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
随分と痩せ細った足を がっくりと折って
男はドアの前に うずくまった
その様を憐れむように あるいは嘲笑うように
文字盤の数字が 男を見おろしていた
その時 ついぞ抱くことのなかった感情が
はじめて意識に宿った
それは 耐え難いほどの悲しみだった
どうすることもできないということは かつて男の人生にはなかった
なにかを失っても 決してそれに苦しむことはなかった
しかし いま男の身に降りかかった災いは あまりにも大きな悲劇である
男
「おれはこれから どうすればいい?」
男の目の前にある黒いドア
そのドアが
「あと228年だ」と 落ち着き払った声調で
男に語りかけていた
男
男
男は弱々しく ドアを拳で叩いた
男
男
男
男
男
男はパンを咀嚼しながら すっかり痩せた腕で
なにかを殴るように 宙に拳をかざした
男
男
男
そう言いながら数字の列の 右端の数字が減るのを
黙って見ていた
男
男
男
男
男
弱々しい言葉が 口から漏れる
男は丸裸になって
ベッドの上に仰向けになっていた
右手で男根を強く握り その手を上下に揺する
男
男はかつて性交したことのある デリヘル嬢のことを思い浮かべていた
男
男
手の動きは少しずつ早まる
男
男
男
しかし 肉体はとりたてて性的な刺激に 反応することもなく
無味乾燥なデイリールーティンを こなしているだけだと
感じるようになった
男
男
男
残念ながら 男が部屋に持って入ったパソコンには その類のメディアはなかった
パソコンはあくまでも 仕事用であったからだ
男
男
男
もはやその「作業」に 慣れきってしまっていた
絶頂を迎えた男に残ったのは 孤独感だけだった
男
男
男
男
男
男
ベッドに横たわっていた男は 慌てて飛び起きた
男
男
近頃同じ夢を何度も見る
灼熱の砂漠を一人で彷徨い歩いて
夜になるとあたりが真っ暗になる
すると足元の砂に脚がうずまり
蟻地獄のように もがけばもがくほど 全身が砂に埋もれていく
息ができない そう思ったところで
目が醒める
男
男
男の両目には 大きなくまができていた
男
男
弱々しい足取りで パンを取りに行く
男
男
男
男
男
男
男
男はスリープ状態の ノートパソコンを起動した
男
男
男
男
男
キーボードを叩きだす 驚くほど筆が進んだ
びっしり文字で埋められたページが 何枚もできた
男
男
男は
部屋の端から端まで 歩いて往復していた
男
男
男
行ったり来たり 同じ動きで同じ軌道をなぞる
男
男
男
男
男
男
男は頭を両手で抱えて 行ったり来たりする
男
目を大きく広げて 反復運動を続ける
男
男
ひた、ひた、ひた と
裸足が床に触れ離れる音が 間断なく発せられる
男
男
男
男
男
男の顔は痩せこけ
眼球のまわりだけ やけに強調されて見える
まるで出目金のように その部分が浮き立っている
男
男
男
男
男はパソコンの 電源ボタンを
ギザギザになった 爪で押した
男
男
男
男
ただでさえ大きな眼窩が さらに見開かれる
人差し指で 電源ボタンを何度も押し直す
男
男
その時ふと 昔パソコンを買い替えたときのことを 思い出して
心臓を鷲掴みにされたような 恐ろしさに震えた
男
男
だがこの狭い部屋には 交換するパソコンもなければ
修理する手立てすらない
男
男
男
男
男は反応しなくなったキーボードの上に 額をこすりつけると
愛する人を失ったように 声をあげて泣いた
幾分と白髪が増えた男は パンを咀嚼していた
パソコンが動かなくなって以来 短期間のうちに老け込んでしまっていた
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男
男はそういいながら 随分と血色の悪い瞼から
一筋の涙を流した
男
男
男
男
男
男
男
男
男は特になにをするでもなく 部屋の隅の一点をじっと見ていた
男
するとそこから 黒い物体が現れたことに気づいた
男
男
もぞもぞと触角と足を動かしながら 一匹のムカデが現れる
男
男
震える手を ムカデの方に差し伸べる
男
男
男
しかしムカデは ぷいと身を翻して
天井の方にのぼって行った
男
男
男
下腹部に かゆいような くすぐったいような
腫瘍のようなものが生まれるのが シャツ越しにわかった
男
裾をたくし上げる
するとそこに
3匹のムカデがついていた
男
ムカデが臍から腹の方まで 這ってくる
絶え間なく 次から次へと 臍の穴からムカデが現れる
臀部を黒く染めたムカデは 次第に胸部に、首に、顔に
行動範囲を広げていく
男
男
男
男は白目を剥いて わめき散らした
男
男
数分後 金切り声が途絶え
失神した彼は 床にばったり倒れ落ちた
男が再び目覚めたとき あのムカデは実際にいたわけではないことを したためた
ムカデは幻覚であったのだ
男
男
男の時間は ここに来てもう37年以上になった
男
唯一の楽しみであった自慰行為も 精力が失われた男性器では
することができなかった
男はどうすれば死ねるのか 考えに考えを重ねた
「万年筆で首をつけば 出血多量で死ねる」
そんな希望が生まれた
だが もし失敗したら、という念が
簡単に死ねるという考えを拒絶した
男
男
男
男
ならばと 男は「拒食」という方法で 死のうと思った
パンを一切食べないことにしたのだ
しかし どれだけ固い信念も
「食べたい」という 欲望に打ち勝つことはできなかった
男は80時間耐えたが 結局パンを食べてしまった
手は皺だらけになり ボサボサの白髪頭の抜け毛が
随分と増えた
男
そしてその頃から 文字盤の数字が
全てゼロになる日が早く来るよう 絶え間なく祈りを捧げるようになった
特別信仰しているものがあるわけではない ゆえに自らを信仰した
信仰に値する人間になろうと つとめた
これまでは社会を嫌悪していた だが今やもうしなかった
これまで関わっていたすべての人間に 憤怒ではなく感謝を
心から捧げると誓った
ここから出られたら あらゆるものに慈愛を与えると決めた
そうすることによって これまで間延びしたように重たかった時間が
規則正しく減少していくのが わかった
5分に1回 数字が減っていく
それを見ているのは 狂ってしまうほど辛かったが
文字盤の数字がすべてゼロになったら ここから出られるのだという
固い信念のもとに 考えを巡らせた
疎遠になった両親のことを思った
出版社でかつて世話になった 社員たちのことを思った
まだ見ぬ伴侶のことを思った
ここから出たら どのような人間として生きるか
考えて考えて考えて考えて 考えた
「愛」だ
おれはきっと愛に溢れた 人間になるのだ
ただ そうなるためには
まだ何十年も 待たなければならない
男
男は喉の奥で 声を鳴らした
どれだけ急いでも 意味がなかった
ただ信仰することだけは
自らの宿命と心得た
ふとこんなことを思った
「あと191年待っている間に おれは老衰して死ぬのではないか」
「しかしやはり 意識は霊魂として残存するのかもしれない」
「そうであれば」
「せめて1分、いや1秒でも 解放までの時間を早めてくれないか」と 強く心の中で唱えた
祈りは 結実することはなかった
5分に1つずつ 等速度で「残り時間」が減った
どれだけ時間が過ぎるのに慣れても
その長さの体感は変わらなかった
男は骨と皮だけになって まだ生きていた
肉体年齢が100歳を超えても 確固たる意識を持っていた
男
男
男
男
男
ベッドに腰掛けた男は 老衰で曲がりきった背中を軋ませながら
よろよろ立ち上がり
部屋の端から端を歩く 運動を始めた
男
自らに なにも望むなと 言いかけた
すべてを乗り越えた先に あたらしい世界が広がっているのだと
かつてよこしまだった心に説いた
邪念もやがて 時間の経過にしたがって取り払われ
精神は 澄み渡った湖のように 一切の濁りもなくなった
男
男
男
男は待った
待って待って待ち続けた
永遠ともつかない時間が流れた
おかしくなりそうな理性を 死に物狂いで正常の域に抑え込んだ
「もし時間になっても 扉が故障で開かなかったら?」
「そんなことはない 実際の24日が経過すれば
間違いなく扉は開く」
「文字盤は決して嘘をつかない」
彼は自らの存在と 時間とをあつく信仰していた
毎日祈るように その時を待った
左端の2桁の数字が
長い時間をかけて07になり
また9年6か月かけて06になり
さらに9年6か月で05になり
04になり
03
02
01になり
気絶するほど待った末 00になった
そして 最後の9年間がはじまった
男
ミイラのように硬化した手足で ドアの前に這っていく
「解放の時が あと5分で訪れるのだ」
男
数十年まともに動かしていなかった口から 官能の欲望が満たされた時のような
絶頂感によるうめきが かろうじて機能している声帯から溢れる
男
「ここから出たらなにを食べよう? 焼肉?ローストチキン?寿司?ラーメン?」
男
「誰に会おう? 誰だっていい、誰かに会いたい」
「この部屋の外の空気で 胸を満たしたい」
男
男は愛する者に縋るように 扉に両手をつき
愛撫するようにさすった
男
これまでの人生で これほどまでに嬉しいことがあったろうか
228年間待ち望んでいた瞬間が とうとう訪れるのだ
男は目を閉じて その時が訪れるのを待った
長い自問の旅は終わるのだ
男の頭の中に 豪華絢爛な想像が呼び起こされた
この世に生きとし生けるもの その全てを
自らの命の灯火が まだ輝いていることを
うやまい謹んだ
「今日この瞬間にたどり着くことができたのは やはりおれの大切な人たちのおかげだ
おれを産み 育ててくれた両親
いつもおれを励ましてくれた友達
大学時代の恩師
おれが作家になるのを 支援してくれた人びと
これからは その全ての人間に感謝しながら生きよう
おれはどんな姿になっても 敬虔な精神を忘れずにいるだろう
たくさんの人が おれを待っているように
おれもまた たくさんの人に会うことを
心待ちにしている
いよいよだ」
男
男は勝鬨を上げるように 叫び散らした
するとふいに
チーン、と音が鳴った
ロックが外れた!
そう確信した男は
文字盤を見上げた
男
男は大きな目をしばたたいた
「どういうことだ?」
「たしかにおれは228年待った」
男の頭の中の絵画が どろどろに溶けて闇に沈んでいく
それから数秒後 声があった
「第2日目の開始をお告げします」
男
男
男は記憶を辿る
この放送は最初にもあった
文字盤にははじめ 24:00:00:00と 表示されていた
それは 日数:時間:分:秒 を示していたのではなく
時間:分:秒:1/100秒 を意味していた
つまり 24日間を228年間に伸ばしたのではない
228年間はさらに24回に伸ばされていた
男
男
男
男
男
つまり
この設定では228×24年間の時間 ここにいることになる
暗算が得意になった頭で それを計算する
男
男
男
男
男
男
男
男
男は金切り声に近い 絶叫を腹の底から出した
自らの信仰の薄さに対しての嘆きではなく 純然たる「あと5244年」の重みに対する
恐怖を知ってしまったゆえの
叫びだった
しかしもはや男には 悲しみに暮れているような余裕はなかった
このままでは ほんとうにおかしくなってしまう
打ち砕かれた信念と 吹き飛んだ理性
男
男
男
うわ言のような声を 間断なく呟きながら
万年筆を手に取ろうと 勢いよく立ち上がる
すると男の足が捻れ
鈍い音がして 足首が強い痛みを発した
男
男はついぞ味わったことのない 強烈な痛みによって
上体のバランスを崩した
思わず両手を 床についた
細まった腕の骨も 簡単に折れ
男の四肢は 動きを剥奪された
男は激痛に悶えた だが
いまの男にとっては 痛みがあることより
手足の自由を失ったことのほうが 重大な損失であった
男はうつ伏せ状態になったまま 赤子のように泣き叫んだ
男
男
男の脳の中に 「信仰」することによって生まれた
「未来」の演算が 瞬時に開始され
「答え」を導き出した
男
「あと5244年経てば ここから出ることができる」
「それまでは こうしておくしかできない」
「肉体が老衰しても それを構成する分子が風化しても」
「あと5244年経たない限りは 意識はここにとどまりつづける」
男
男
「第1日目」を終えた男は
この部屋のすべての論理を 諒解していた
だが結論はひとつ
どうあがいても 時間は等量に減るのだ
その男を 憐れむように
あるいは嘲笑うように
文字盤が見下ろしていた
男
男
男
彩華
ねね
ねね
彩華
ねね
ねね
ねね
彩華
彩華
彩華
彩華
ねね
ねね
彩華
彩華
ねね
ねね
ねね
彩華
ねね
あなたの時間 伸ばしませんか?
彩華
ねね
ねね
彩華
彩華
彩華
彩華
彩華
彩華
ねね
彩華
彩華
彩華
彩華
彩華
彩華
ねね
彩華
彩華
Fin.
最後までお読みくださり ありがとうございました
この物語は フィクションです