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ページが、静かにめくられる。
菜々花はじっと男──八倉建一の指先を見つめていた。
そこには、小さな字で、丁寧に書かれた文字があった。
彼の声が響く。
抑揚はなく、まるで“誰かに読まされている”ような、平坦な口調で。
2009年 10月 12日
バス停のベンチで、君は僕に傘を差し出した。
何も言わずに、ただ「濡れないように」って、それだけだった。
多川 菜々花
菜々花の眉がわずかにひそむ。
そんな記憶は、ない。
いや、“傘を誰かに貸したこと”があった気もする。
でも、それが彼だとは思えなかった。
君は僕を覚えていないだろう。
でも、僕にとっては、それが人生で初めて、誰かに“名前で呼ばれた”瞬間だった。
建一の視線はノートに落とされたまま。
そこには、ぎっしりと書き込まれた菜々花との“思い出”が並んでいた。
それらのほとんどに、菜々花の記憶はない。
多川 菜々花
多川 菜々花
違わない。君は、確かに僕に笑いかけた。
そして、僕はその笑顔に、名前に、声に、ずっと囚われてきた。
ノートのページがめくられるたび、菜々花の中に冷たい何かが流れていく。
この男は、自分を“記憶”の中で育て、保存し、歪めてきた。
けれど、どこかに引っかかる感覚もあった。
多川 菜々花
思い出そうとすると、視界がぐらりと揺れた。
多川 菜々花
八倉 建一
建一は穏やかに言った。
八倉 建一
菜々花は、言葉を失った。
“時間はある”──それはつまり、“ここから出られない”という意味だ。
多川 菜々花
八倉 建一
八倉 建一
八倉 建一
彼の目は真っ直ぐだった。
狂気とも違う。熱情とも違う。ただただ、執着。
そのとき、菜々花の心に、ひとつの問いが浮かんだ。
多川 菜々花
その頃、都内某所──
関本 泰一
刑事・関本泰一は、菜々花の親友・平重沙紀から事情を聞いていた。
沙紀は涙を堪えながら、力強く言った。
平重 沙紀
関本は頷いた。
すでに、彼の目には職業的な勘が働いていた。
これはただの失踪ではない。
関本 泰一
平重 沙紀
平重 沙紀
関本 泰一
関本は、捜査メモにその言葉を書き込んだ。
“記憶の空白”──それが、事件の鍵になるかもしれない。