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水瀬葵
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「猫屋敷さん、全然来ない……」
PCをカタカタしながら、香夜はそう言った。
その言葉に、碧生は「うーん」と曖昧な返事を返す。
──八月、真夏の日。
外の気温は三十五度、人は皆、太陽から逃れようと、日傘をさしたり、木陰に隠れたりしている。
その様子を碧生は、窓から勝ち誇った顔で、頬杖をついて眺めていた。
自分がいる部屋があまりに快適すぎる。
部屋は冷房の冷たい風が充満していて、汗なんてちっともかいていない。
人によれば寒いと思ってしまうだろう。それに加えてキンキンに冷えた麦茶もあるし、手持ち扇風機だってある。
贅沢な空間だな、と碧生は少しそう思った。
一人、窓の傍で、椅子をくるくる回転させて遊ぶ。
「いやぁ〜快適だなぁ、外の人かわいそーだなぁ」
外にいる人々が聞いたら、碧生を嫌うであろう台詞。
「そりゃ。暑がりの誰かさんのために、冷房ガンガンにしてやってるからな」
感情の籠っていない香夜の指摘。
香夜はPCとひたすら向き合っている。さっきから外を眺めるだけの碧生とは大違い。
香夜は仕事しろよ、という思いをため息に変えた。
「というか、あと三十分くらいで予約の時間なんですけど」
時計の針が指すのは午前十一時。依頼者の予約時間は十一時半なので、もうあまり時間はない。
ここは、朝間探偵事務所。
ビルの二階に事務所を構えている、碧生が代表を務める探偵事務所である。
構成員は三名と小規模だが、それなりに依頼は舞い込んでくる。
代表の朝間碧生と、その義妹の朝間香夜。
そして、あと一人。
個性豊かな女性探偵がいるのだが、今ここに姿はない。
「依頼人来るまであと三十分なのに、まだ出社して来ないとかある?」
マイペースにも程がある、と呆れたように言う香夜。
だが、来ないことには慣れきっていた。彼女が時間通りに来るなんてことがあったら、空から魚が降ってくるだろう。それくらい、珍しいことなのだ。
「まぁさ。あの子、いい子じゃん。たしかに出社遅いけど」
へらへらした様子で、デスクにある小型扇風機を手に取る碧生。
掲げて、カチッと扇風機の電源を入れた。
その時、ドアが開いた。
電源を入れるのとまったく同じタイミング。
「おはよーございまーす!」
豪快なドアの開閉音。
寝ぼけた耳を起こす声量。
どでかい声量の女は、外見からして特徴的だった。
まっすぐ切り揃えられた前髪と、頬を縁取るような短い横髪。その整った髪型が、幼い顔立ちをいっそう引き立てていた。
抹茶色の瞳を縁取る長いまつ毛と、くっきりとした二重まぶた。
そして、一番に目に入ったのは首元のチョーカーだった。
まるで、犬や猫が付ける首輪のような黒いチョーカー。
その女を見て、香夜は「やっと来た」という思いと、「また遅刻してきやがった」という思いが混ざって、下まぶたがブルブル痙攣する。
女は、いつも定刻より二時間遅れてやって来る。それなのに謝罪する気配もないので、 香夜は深くため息をついて、頭を抱えた。
「あの、もうちょっとで依頼人来ちゃうんですけど。もう少し時間大切にしてくれません? 猫屋敷さん」
すかさず碧生がフォローをする。
「いや、自由なのが詩夕ちゃんのいいところだよ」
香夜の言葉にどれだけの苦労が滲んでいるのか、まったく理解していない詩夕は、にかっと笑い、碧生に同調する。
「そうですよ、わたし猫だもん。自由なくらいがちょうどいいよ」
「……はいはい、自認猫さん。可愛いですね」
馬鹿にした態度でそう言う香夜。
詩夕は、自称・猫である。
事情は知らないが、言動が気まぐれで、どこか掴めない。
出社時に何故かキャットフードを頬張っていたり、事務所内に置いてある空のダンボールの中に入り込んだり、高い本棚の上で仮眠を取ったり。
時間は守らない。独断で勝手な行動はする。依頼人にも失礼な態度を取る。
とにかく、猫なのだ。
そんな詩夕に、香夜はうんざりして、何度も真剣に「あの子クビにするべき」と、代表の碧生に申し込んだ。
それでも碧生は、何も気にしない様子で、むしろそんな自由奔放な詩夕を可愛がっている。
それが、香夜には到底理解できなかった。
「んにゃあ……あ。てか依頼人そろそろ来るの?マジ?わたし、今日働きたくない」
大きくあくびをして、詩夕はのんきに言う。
「じゃあもういっそのこと、帰ってくださいよ。そんな気持ちで依頼者のプライベートな情報預かるのは、無責任なんで。」
突っ込むのも面倒くさくなって、本心をそのまま吐き出した。刺々しい声のトーンに、詩夕は目を丸くした。
「え、何、香夜ちゃん。ちょっと冗談だって。わたしなりのジョークだから安心して」
詩夕はデスクの方に足を向けながら、相変わらず椅子で遊ぶ碧生に「おはようございます」と会釈する。
碧生は遅刻してきた詩夕に一切不満の表情を見せず、にこやかに笑った。
「おはよぉ」
詩夕と同じタイミングで時計の方を見やる。
「依頼人、もう来るのかぁ」
苦そうな顔をしてつぶやく詩夕。
碧生は、「そうだね」と言って片手で目を覆い隠した。
目の下には心配になるほどの酷い隈、充血して赤くなった眼球を見ながら、
「寝不足?」
と、詩夕は尋ねた。
「うん、やっぱり寝れなくてね」
「ご愁傷さまにゃん」
香夜は語尾に「にゃん」を付ける詩夕を軽蔑の的にする。
二十四歳で自分より年上なくせに、常識がない。
その上、代表の前で「にゃん」とか、ため息つくのも疲れた。
「時間のやばさに気づいたんなら、さっさと準備するかマジで帰ってください」
香夜は半ば本気でそう言ったが、詩夕はそれを完全なジョークと認識して、苦笑い。
「帰らないよ。それより、先にご飯食べさせて。ちょっと食べるの忘れててさ」
「忘れるとかあるの?」
電源のついた小型扇風機を、ペン回しみたく指で振り回しながら、碧生は言った。彼は、とにかく物を回すのが好きらしい。
「いやぁ、探偵事務所に来る前に猫の集団と出会って、可愛いから一緒にお話してたら、いつの間にか遅刻して。ご飯も食べずに来たよ。 本当はコンビニのおにぎりでも買って歩きながら食おうかと思ってたけど、買う時間もないから……だから今ここで……。」
がさごそとカバンから、詩夕は何かを取りだした。
そして、それを事務所内の二人に見せびらかす。
「猫のご飯食べる!」
反応するまでにかかった時間は、たった一秒ほど。
「……そう」
香夜はなんだぁいつものことだぁ、と思考を放棄する。
詩夕が掲げたのは、キャットフードだった。小袋に入った、茶色いかたまり。当然、人間が食べるものではない。
香夜は「依頼人が来るまでに食べておいてくださいね」とだけ伝える。
でも、碧生は違った。扇風機を指先で回すのをやめて、身体を前のめりにして目を鋭く光らせた。
「ねぇ。キャットフード食べたら腹壊すって、やめておこうよ」
本棚の上で寝たり、ダンボールの中に入り込むのは甘々に許すくせに、キャットフードは何故か許さない。
それが、詩夕にも香夜にも少し不思議だった。
碧生からしたら、「腹壊して病院送りになったら大変」という考えなだけなのだが。
その謎の心配に対して、詩夕は
「だいじょぶ!わたし猫だし、胃液最強!」とグッとポーズ。
「そういうことじゃなくて……」
苦笑いし、立ち上がって小袋を奪い取ろうとする。詩夕は後ずさりし、背伸びをする。
「わたしの胃液を甘く見てもらっちゃ困るにゃ。例えるなら、ラノベの最強系主人公くらいすごいよ」
「ラ、ラノベ?」
詩夕が一生懸命考えた例えの意味が、碧生にはよく分からなかったようで、軽く首を傾げた後、スルーした。
「うん、教えてくれてありがとう。でもダーメ!これは社長命令です!」
「やだぁ!碧生さんが食の自由を奪おうとしてくるー!」
詩夕は大袈裟に叫んで、室内をドタドタと走り始める。驚くほど身軽に、あっという間に距離を取った。
負けじと、碧生も走ろうと構えを取ったが、そこで香夜が口を開く。
バンッ──!
香夜が机を叩き、乾いた音が鳴り響く。一瞬、碧生の動きが鈍る。
「……仕事してよ」
静かな怒りの爆発。
漫画だったら、おでこに血管のマークが浮かび上がっているくらいの怒りっぷり。
だが、二人の喧騒にかき消される。
「食べものなんて、口に入ればなんでもいいのさ!」
「それで苦しい思いするの詩夕ちゃんなんだよ!猫でもなんでもいいけど、とにかくダメ!」
「……え、ホントの猫にもそれ言うの?」
詩夕は勝手にそう解釈し、青ざめる。演技でもなんでもない、純粋なドン引き。
「動物愛護団体の出番だ」
その顔についに苛立ち始めたのか、碧生は「もう!」と乾いた笑いを漏らした。 そして、一歩踏み込んだ。
「いいから早く、こっちにそれ渡しな──」
キャットフードを奪い取ろうとした時、詩夕はいきなり動きを止めた。
ピタリと、なんの予告もなく。
視線も、碧生を見ていない。
止まるなんて予想だにしない碧生は、そのまま詩夕の足に引っかかって、床に顔面ごとダイブ。
「うわあああっ!」
盛大にずっこける。
ちょっといきなり止まるのはなしだよ、と口を開きかけて、止まる。
キィ……と、あまりに小さな開閉音。
扉の隙間からは、申し訳なさそうな顔でこちらを見つめる二人組が見えた。
それだけで、碧生は状況を理解する。
咄嗟に、時計の方に首だけ動かすと、予約の時間まで残り二十分だった。
扉の隙間から、小さな声が聞こえる。
「すみません、予約時間よりだいぶ早めに来ちゃったんですけど」
その言葉を聞いて、碧生はすぐさま立ち上がる。
手櫛で軽く髪を整えると、ピシッと姿勢を正した。
「いえいえ、大丈夫ですよ」
爽やかな探偵としての笑顔を向ける。
だが、既に依頼人は、先刻のやり取りを聞いているので、ただ単に不安だけが募るようだった。
視線があちこち飛び回っている。
詩夕はキャットフード持って走り回っているし、碧生は寝不足だとわかるくらいに、目が充血して隈もできているし。
香夜は唯一まともなのもあって、二人への怒りがミシミシ伝わってくる。
こんな探偵たちを見た依頼人は、困惑するに決まっている。
香夜も続けて立ち上がり、「おはようございます」と挨拶をする。
「あ、えっと。おはようございます。」
依頼者は、夫婦。
ゆっくりとドアを閉めると、三人の探偵の顔をジロジロ見ながら、妻の方が控えめな声量でこう言った。
「えっと、初めまして。予約をしていた佐々木優奈と…… 」
隣に立っている男性の方を、優奈は横目で見る。
「佐々木優斗です」 軽く会釈をする優斗。
二人の気まずさが視線や言葉の震えで伝わってきて、碧生はつとめて柔らかい笑みを作る。
「僕は代表の朝間碧生です。こっちのさっきブチ切れてた女の子が朝間香夜、キャットフード持ってる女の子が猫屋敷詩夕です」
さらりと自分以外の探偵のことも説明したら、香夜から非難の視線を浴びせられた。が、今はそういうのはどうでもいい。
「どうぞ、お掛けください」
ソファを示すと、夫婦の視線は、詩夕に釘付けになっていた。
青ざめた顔で、口が半開きのまま「えぇ……」と困惑の音を流している。
嫌な予感が、する。
おそるおそる、後ろの詩夕を見た。
「……ん?」
彼女は、不思議そうに首を傾げた。こちらの困惑を汲み取っていないらしい。
あれほど「食べたら腹壊す」と言われていたにも関わらず、詩夕は。
キャットフードを、食べていた。
何も気にする様子もなく、依頼人の顔も見ずに、ただ無心で頬張っている。茶色いかたまりを。
一瞬だけ、動きが止まる。思考が止まる。
気づけば、碧生はキャットフードを奪い取って、そのままゴミ箱に投げ入れていた。
「あっ」
急いでゴミ箱の方に行こうとする詩夕を強引に引き止めて、耳打ちをした。
「あとで回転寿司、行こうね」
誰にも聞こえぬように詩夕に言うと、「おおー」と言ってゴミ箱に行くのはやめてくれた。
──単純でよかった。
ほっと、一息安心して夫婦の方に身体を戻すと、
「どうする、この探偵事務所大丈夫?」
「もう少し様子みてからにしよう」
と、真剣に話し合っていた。
碧生の肌から冷や汗がダラダラ溢れ出る。こんなところ見られたら、信用を失っていくだけである。
助けを求めて香夜と目を合わせたが、すぐ逸らされた。もう香夜は何もかも諦めたらしい。
碧生は、内心焦っていることを悟られぬよう、 小さく微笑んだ。
「……お気になさらず。いつものことですので」
「それは安心していいんですか……?」
途中。本気で帰ろうとしていたが、何とか夫婦には、ソファに腰掛けてもらったのだった。
次回。
第一章/二話「夫婦と猫」
コメント
2件
猫娘キャラを愛する者として、ヒロインの詩夕さんは猫感たっぷりで可愛いです🥰どんな依頼か楽しみですね😄