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Side 桃
玄関に置いてある携帯用酸素ボンベを吸って大きく息をしたあと、ガチャリとドアを開く。
見上げた空は、厚い雲に覆われていた。梅雨特有のじめじめとした重苦しい空気に、早速呼吸が苦しくなってくる。俺の障がい持ちの肺は、こういう天気が苦手だ。
「傘持ってきたほうがよかったかな」
自宅を振り返る。まあ降ったら買えばいいや、といつもの面倒くさがりが首をもたげて、俺はそのまま歩き出した。
最寄り駅に着く。
しばらくスマホゲームで時間をつぶしていると、定刻通りに電車は来てくれた。
普段使っている優先座席に座ろうと思ったら、先客がいた。よく見ると、同年代っぽい人のかばんにはヘルプマークがついていて、もう一人の女性のには「おなかに赤ちゃんがいます」マークが見える。
あとの人はふつうそうに見えるが、仕方なくその前に立ち、吊り革を握った。
またスマホに目を落とす。仕事場の最寄り駅までは少し距離があるから、もう一度ゲームに集中する。
少し経ってふと顔を上げると、車窓に雨粒が打ちつけていた。
ゲームを閉じ、代わりに天気予報アプリを開く。雨雲レーダーを起動してみると、見事に現在地のピンの上に雲が居座っていた。
すぐには止みそうにないな。酸素の残量はあとどんくらいあったっけ。
そんなことを考えていると、吸った息が喉でくっと止まる感覚があった。
締めていたネクタイを緩める。
ここで酸素のスプレーを使うのも億劫だから、目を閉じてとりあえず深呼吸する。何度か繰り返していると、気管支がだんだんクリアになってきた。
再び目を開けると、目の前に座るスーツを着た男性が自分と同じように胸に手を当てているのに気づいた。それはヘルプマークをつけている人だ。
もしかして自分と同じだろうか。それか、心臓かもしれない。
念のためスマホの電源を切り、ポケットに入れた。
その男性はうつむいていて、けっこう苦しそうだ。そして自身のかばんをまさぐる。何かを探しているらしい。
少し驚いた顔で「ない」とつぶやき、ため息をつく。恐らく薬だろうと思った。
だんだん乗り込む人が増えて混んできたから、きっとこのままでいても息は苦しくなる。いや、座ってるなら大丈夫か。
心配と遠慮との間で彷徨っていたけど、やっぱり俺はいてもたってもいられなくなった。
目の前の男性に向かって、勇気を出しておずおずと口を開く。
「あの…大丈夫ですか」