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#ワンナイトラブ
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鏡の中に立っているのは、一体誰だろう。
いつも私の顔の一部として鎮座していたシルバーフレームの眼鏡はなく
瞳には不慣れなカラーコンタクトが収まっている。
精緻に巻かれた髪は、私が動くたびに肩の上で軽やかに踊り
デコルテを大胆に晒したロイヤルブルーのドレスが
今まで隠し続けてきた私の体のラインを容赦なく強調していた。
「……これが、私?」
思わず溢れた呟きが、情けないほどに震える。
今日は契約を結んでから、初めての公式行事。
業界の重鎮たちが一堂に会する、大手グループの記念パーティーへの出席だ。
「……やはり、お前は元がいいようだな」
背後からかけられた低い声に、私の肩がびくりと跳ねた。
振り返ると、そこには完璧なタキシードを纏った京介様───
いいや、京介が、満足げに目を細めて立っていた。
「眼鏡がないと、そんなに落ち着かない顔をするのか。もっと自信を持て。お前は今日、俺が選んだ最高の『妻』としてそこに立つんだ」
京介の大きな手が、迷いなく私の腰に回される。
ぐいと引き寄せられた衝撃で、薄いドレスの生地越しに彼の体温がダイレクトに伝わってきた。
心臓がうるさいほどに脈打ち、その鼓動が彼に伝わってしまうのではないかと気が気ではない。
「仕事ですから……完璧にこなしてみせます。青桐不動産の、そしてあなたのイメージを壊さないよう、精一杯……」
「仕事、か」
京介がふっと鼻で笑い、私の耳元に熱い唇を寄せた。
「志乃。外ではその通りだが……俺の腕の中にいる時くらい、可愛げのある反応をしたらどうだ?」
吐息が耳をくすぐり、全身にゾクりとした鳥肌が立つ。
翻弄されてはいけない。
これはあくまで「業務」の一環。
私は今、最高のパフォーマンスを求められている秘書なのだ。
自分にそう言い聞かせて、私は震える指先を隠した。
会場に足を踏み入れると、刺すような視線が一斉に私たちに集まった。
冷徹で知られる若きCEOが、正体不明の美女を連れている。
その衝撃は凄まじく、周囲からは溜息とも羨望ともとれる囁き声が波のように押し寄せる。
「青桐社長、おめでとうございます。まさかこんな綺麗な女性を隣に置くとは、素晴らしい奥様だ」
「いえ、俺には勿体ないくらいの女性ですよ」
京介は淀みのない笑顔で応対し、私の肩を抱く手にさらに力を込める。
その完璧な「愛妻家」としての振る舞いに
私はただ圧倒され、隣で微笑みを張り付かせることしかできなかった。
けれど、パーティーが中盤に差し掛かった頃。
京介が重鎮との挨拶にわずかな隙を見せた瞬間
取引先の若い役員が、計算高い笑みを浮かべて私に近づいてきた。
「氷室さん……でしたっけ。青桐社長には勿体ない。今度、個人的にお食事でもいかがですか?」
差し出された一枚の名刺。
長年の仕事の癖で、反射的にそれを受け取ろうとした私の手は、空中で強い力によって遮られた。
「……悪いが、俺の妻にあまり気安く触れないでもらえるか」
いつの間にか戻っていた京介の声は、低く、そして氷のように冷え切っていた。
彼は私の手から名刺を奪い取ると、文字を追いもせずに乱暴に胸ポケットへねじ込む。
その横顔には、これまでの余裕など微塵もなかった。
「京介、……?」
「帰るぞ、志乃。……『妻』としての教育が、まだ足りていないようだな」
強引に腕を引かれ、私は周囲の視線も構わずに会場を後にした。
車に押し込まれた瞬間
彼は私の眼鏡を奪った時と同じ、あの獲物を逃さない獣のような瞳で私を組み伏せるように見下ろした。
「……夫以外の男に、あんな顔を見せるな」
契約違反だと言わんばかりの、剥き出しの独占欲。
冷徹なビジネスとしての契約と、熱を帯びた私情。
その境界線が、今、音を立てて崩れ去っていくのを、私はただ震えながら感じていた。