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#ワンナイトラブ
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深夜のオフィスでの一件以来、 京介との間には
契約という冷たい言葉だけでは到底説明のつかない、濃密で熱を帯びた空気が流れるようになっていた。
週末、彼は「少し付き合え」とだけ言い、私を助手席に乗せて車を走らせた。
向かったのは、きらびやかな都心の喧騒とは対照的な、静かな海沿いの高台にある古い公園だった。
「……ここ、ですか? 社長が来られるような場所には見えませんが」
「ああ。ガキの頃、親父に反抗してはここに来ていた。……青桐の名を継ぐだけの『道具』として育てられた俺にとって、唯一、自分として息ができる場所だったんだ」
ガードレールに身を預け、暮れなずむ海を見つめる京介の横顔。
そこには、CEOとしての鋭利な刺々しさは消え、どこか遠い日の記憶を追いかける少年の面影があった。
「俺は、誰も信じてこなかった。近づいてくるのは青桐の金か地位、あるいはその裏にある権力が目当ての奴らばかりだ。……だが、志乃。お前だけは違った」
彼はゆっくりと私の方を振り返り、強い潮風に乱れた私の髪を、指先で優しく耳にかけた。
「お前は、俺がどんなに冷酷に振る舞っても、仕事でどれほど追い詰めても、真っ直ぐに俺という人間を見ていた」
「えっ、社長、そんなことを思われていたんですか…っ?」
「あぁ……契約を盾に、半分脅すような形で無理やり傍に置いたのは、そうでもしないと、お前が俺の手の届かないどこかへ行ってしまう気がしたからだ」
京介の独白に、心臓が痛いほど締め付けられる。
彼が私を選んだのは、単なる利害の一致やビジネスの合理性だけではなかった。
彼自身がずっと抱え続けてきた、深く暗い孤独の穴を埋める存在を、無意識に求めていたのかもしれない。
「……私は、仕事のパートナーとして、あなたを心から尊敬していました。でも、今は……」
私は、彼の大きな手を、迷いを断ち切るようにそっと握り返した。
「今は、よく分からないんです。あなたの孤独も、その冷たい仮面の裏にある熱も……その全部を、私が受け止めたいと思っているんです、おかしい、ですよね」
初めて、契約上の「義務」としてではなく、私自身の意思で彼の名を呼んだ。
京介は一瞬、驚いたように目を見開いた後
壊れ物を扱うような、けれど二度と離さないと言わんばかりの強さで私を抱きしめた。
「……志乃。お前を離さないと言ったのは、単なる所有宣言じゃない。……俺の、本音だ」
潮騒の音に混じって、背中に回された彼の手の温もりが、私の冷えていた心に深く染み渡っていく。
けれど、そんな穏やかで幸福な時間は、あまりにも短すぎた。
私のコートのポケットの中で、平穏を切り裂くように携帯が激しく震え始めた。
画面に表示されたのは、実家の母からの着信。
最悪の予感が背筋を駆け抜け、私は震える指で通話ボタンを押した。
『……志乃? 志乃なの!? おばあちゃんの病室に、変な人が来たのよ。「この結婚は真っ赤な嘘だ」って、そんな縁起でもないことを……!』
母の震える声を聞いた瞬間、全身の血の気が引いていくのが分かった。
麗奈さんか、あるいは彼女に唆された誰かか。
私たちの「契約」という名の脆い綻びが
私が何よりも、命に代えても守りたかった場所から、音を立てて崩れ始めようとしていた。