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視線の先の人は、声に反応してこちらを向いた。
『湊』
まだ遠くても若菜がそう言ったのがわかる。
残る力を振り絞って足を速める俺に対し、若菜は慌てた様子で近づいてくる。
「湊! ごめん、急がせたみたいで」
「いや、お前、ちょっと……」
若菜の前に立つと、両ひざに両手を置いて息を整えた。
今すぐ話したいのに、息が切れすぎて掠れた声しかでない。
「び、っくり、しただろ」
「そうだよね、私もびっくり」
「そうだよね、じゃねー……」
息を整え続ける俺の背に、若菜の手が触れる。
「!」
服越しに触れた手の温度なんて、ほとんど感じない。
それなのに若菜の手の感触に意識が集まって、そこに血が集まるみたいに熱くなる。
……なんだよ、もう。
俺、こんなに若菜を意識してたか?
動揺を悟られないよう、大きく息をついて顔をあげる。
若菜の困ったような笑い顔を見て、心が「若菜だ」と認識して―――落ち着かせたはずの心臓がまた音を立てた。
「ごめん、ほんと。湊に連絡しようかと思ったんだけど、なんか……。原田くんとの話の邪魔になるかもしれないと思ったし、言えば「来るな」って言われるのわかってたし」
「そりゃ来るなとは言うだろ。若菜、明日仕事じゃねーの?」
「半休とった。ちょうど今ならとれそうだなーってタイミングだったから。有給もめちゃ残ってるし、大丈夫!」
「大丈夫って……」
謎のガッツポーズをとる若菜を、俺はぽかんと見つめ、それからふっと笑ってしまう。
あぁ、こういうところ、若菜だ。
慎重そうに見えて時々大胆で。
俺を驚かせた時、いい顔するところもそう。
そして、笑顔を見るとこっちまで胸が温かくなる。
若菜を好きだという気持ちが、自然とあふれてくる。
俺たちの真後ろで電車が通り過ぎる。
今いる場所と時間を思い出し、無意識にまわりを見てから若菜に目を戻した。
「とりあえず俺の家くる? 夜中に外で立ち話もなんだし」
「あっ、うん」
「じゃあ、行こ」
なんでもないように言ったけど、その言葉が持つ響きを意識してしまうなんて、10代の若造みたいだ。
平静を装って歩く俺に一歩遅れて、若菜がついてくる。
手をつなぎたい衝動にかられたけど、実際にそうはしなかった。
まだ“幼馴染み”の感覚のほうが強くて、手をつなぐなんて気恥ずかしい。
でも、つなぎたい。
つないだら、若菜はどう思うだろう。
「湊の住んでる街、こんなとこなんだね」
ふいに声がして、手にばかり意識がいっていた俺ははっとした。
思わず指先をぎゅっとにぎりながら、あいまいな返事をする。
「あー、うん」
「ちょっとは慣れた?」
「仕事との往復くらいだしな。あとスーパーとかくらいしかまだ行ってない」
「そっかー」
若菜は珍しそうにきょろきょろしながら歩いている。
若菜も若菜で、声にすこしの緊張がまざっているのを感じた。
そりゃそうだよな。
家に行くっていったら、緊張するか。
下心がまったくないと言えばウソになるけど、でも若菜を無理に押し倒してどうこうしようなんて思っていない。
大切だから。
「若菜は明日、何時から仕事?」
「13時。湊は?明日は仕事、朝から?」
「俺も昼から。11:30に家出れば間に合う」
「そうなんだ。湊が明日朝からかもしれないって思ってたから、ちょっとほっとした」
「連絡なしで突撃した身分だし」と笑う若菜に、「ほんとだよ」と呆れた声をつくって俺も笑う。
とりとめない話を続けるうち、すこしずつ緊張がほぐれるのがわかった。
まだ恋人としては浅いけど、幼馴染みとしては長い俺たちは、このあたりは緊張がほどけるのも早い。
駅から15分ほどでアパートに着いた。
鍵をあけ、玄関の電気をつけてはっとする。
―――部屋散らかったままじゃねーの?
さっき着ていた部屋着は間違いなく放ったままだ。
「ち、ちょっと待ってて」
人ひとりが立つのがやっとの玄関に若菜を待たせ、急いで部屋にあがる。
慌てて片付け始めたが、間を置かず「おじゃましまーす」と声が聞こえた。
「ちょ、若菜!片付けるからちょっと待って」
「いいよ、突然来たんだし」
ワンルームの部屋をぐるりと見渡し、若菜がすとんとラグの上に座る。
「湊も座りなよ」
「いやそれ、俺のセリフだから!俺の家だろ」
「そうだね、あはは」
「はー……。もう」
半ばやけのように座ると、若菜は笑ってカバンからペットボトルの水を取り出して飲んだ。
俺だけ焦ってるの?
なんか余裕そうなんだけど。
若菜の座った後ろにはベッドがある。
ワンルームだからあって当たり前だけど、意識しないでいたいのに、意識するところも中学生みたいで嫌になる。
(いや、若菜は話をしにきたんだろ)
俺と原田の話が気になってきたんだから、ベッドとか気にしてる場合じゃないし。
気を取り直して原田と話した内容を伝えていくと、若菜の顔から笑みが消え、真剣な表情になる。
「あいつと話をして、自分のことと、若菜のこと考えた。さっき電話で言ったのと同じことだけど、大事にする。マジで」
めちゃくちゃ恥ずかしかったけど、若菜を見て、目を見て言わなければと思った。
これまで俺の鈍感で若菜に気を遣わせたこともあるだろう。
だけど原田の言うとおり、なるべく若菜の気持ちに応える形で“大事”にしたい。
そんな俺の必死さが伝わったのか、若菜の顔が赤くなる。
「う、うん。私も湊のこと、大事にする。……ていうか、ずっと好きだったし」
言って若菜は照れたように目を逸らす。
その仕草と最後の一言に、心をもっていかれた。
……あー-、なにそれ、やばいだろ。
若菜、そんな顔するんだ。
若菜のことならなんでも知ってると思っていたのに、知らない一面がこの破壊力とかやばすぎる。
「なんだよ、それ」
なにか言わなければ間がもたなくて、でも気の利いたことなんて言えなくて、照れ隠しのように言った。
「も、もう、流してよ!だって湊が珍しくまじめに言ってくれたから」
「いや、だってそりゃ、俺も、ちゃんとしないとって思ったから」
「そうだよ、ちゃんとするのが湊は遅すぎ。私のことどう思ってるのかわからなくて、やきもきし続けてたんだから」
まだ赤い顔で若菜が頬を膨らませる。
「でも、それが湊だしね」
「まぁ、それは……」
痛いところを突かれて口ごもる俺に、若菜がふっと笑う。
「真面目な話に戻ると、原田くんのことは話してくれてよかった。そんなふうにして、湊と話し合って前に進んでいきたい」
「……うん、そうだな」
とりとめない話は数えきれないほどしてきたし、若菜に嘘を言ったことはないけど、はぐらかすことはあった。
これからはそういうことをやめて、向き合っていきたい。
大学生の時にした約束を前提に、この年で“付き合う”という選択をしたのだから、結婚は視野に入れた付き合いだ。
……若菜と結婚したい。
そのためにできることをしないと。
「あと、若菜に言わないとと思ってたんだけど、おじさんとおばさんにも、俺たちが付き合ったって報告しなきゃと思って」
「あ、それ私も思ってた。……湊には言いづらいんだけど、たぶんお父さんたちは、私と原田くんの仲を疑ってるから」
「そうだよな……」
それは俺もおじさんの見舞いに行った時に感じたし、気の重い事実でもある。
「でも、湊と付き合ってるって言えば、喜ぶところは想像つくんだ」
「そうだといいけど」
昔からの付き合いだし、好かれているほうだとは思うが、原田のほうが若菜の家のためになっていると思うと素直には受け取れない。
「大丈夫。今度お父さんのお見舞いに一緒に行ってくれる?」
「もちろん」
「よかった」
にっこり笑う若菜に、俺もいくぶんか心が休まって笑みが浮かんだ。
原田と比べていてもしかたないと、気持ちを切り替える。