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🐾第13章「泡司書の猫、記憶の始まり」
泡図書館には、司書の猫がいる。
名前は「ねむる」――灰色の毛並みに、時の匂いが混ざった小さな存在。
文字を管理し、記憶が割れないよう守っている。
ねむるは、時折人間界に来る。
それは泡の頁を調律するため。
でも、現実世界には“時間の境界”がある。
泡司書は滞在できる時間が限られている――帰還のタイムリミット。
その日、ねむるは泡文字の具合を確認するために人間界に来ていた。
午後の光。道端のページのような舗道。
残された時間は少なかった。
風が強く吹き、ねむるの帰還ルートが泡膜で揺らぐ。
彼は慌てて角を曲がろうとした――
その瞬間、小さな影が道に出ようとしていた。
それが、12歳の聖名(みな)だった。
驚いたねむるは泡音を鳴らし、車道にふれてしまう。
聖名(みな)は、その音に気づいて一歩踏み出した。
車が近づいてくる。
瞬間、泡のような静けさのなかで誰かが飛び込んだ。
それが、律だった。
律は聖名(みな)を引き寄せ、ねむるを腕に抱えた――
そして泡の衝突音が、時を止めた。
病院の白。静けさの中、律は眠っていた。
彼の意識は現実に戻らなかった。
泡図書館の奥で、ねむると並んで記憶を整理する夢の中にいた。
その夢で、律は誰かに出会った。
泡の指先でピアノを弾く少女。
それが聖名(みな)だった――でも、彼女自身もそのことを忘れていた。
泡が記憶を守るため、ねむるが聖名(みな)の記憶を封じた。
──そして、律は目覚めた。
放課後の音楽室。
譜面の前に座る彼の指は、鍵盤の上で静かに震えていた。
音は鳴る。技術はある。
でも、心が鳴らない。
隣の部室から、吹奏楽部の音が漏れてくる。
誰かが笑っている。誰かが音を交わしている。
律は足を止めた。
その音は譜面には書かれていない。
でも、確かに“鳴って”いた。
彼は鍵のかかった練習室へ向かいながら、胸の奥で問いかける。
「僕の音は、誰かに届いてるんだろうか」
顧問の先生の言葉が、ふと蘇る。
「君の演奏は完璧だ。でも、感情が足りない」
律はその言葉に、少しだけ傷ついた。
感情は、譜面に書けない。
それは、誰かの記憶に触れたときにしか、鳴らないものだ。
彼は、譜面の“余白”に耳を澄ませていた。
音符と音符の間。鍵盤と鍵盤の隙間。
そこに、何かがある気がしていた。
泡司書の猫は、静かにその音を聴いていた。
ねむるの耳には、律の音が泡のように届いていた。
それは、まだ名前のない旋律だった。