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家に帰ると、マホガニーのテーブルには温くなった赤ワインとリングケースが残っていた。私はそれを片付けず、工房代わりにダイニングを占拠した。スケッチブックを開き、サファイアをルーペで覗き込む。
亜美のデザインは完璧だった。永遠を象徴する輪郭は美しく、誰もが納得する絆を描いていた。でも、それは傷を知らない偽りの絆だ。
私は輪を破壊した。
メビウスの輪を一度ねじり、ペンチで切断し、再び繋ぐ。断面に細かな亀裂を刻み、そこに光を通す。サファイアはセンターに据えたまま、メレダイヤを星屑ではなく、傷から零れる涙のように配置する。
光が当たれば、輪は壊れたはずなのに、より複雑で深い青を放つ。タイトルは『Reborn Eternal――永遠の再生』。壊れた輪が、新たな形で永遠を紡ぐ。失われた絆が、傷を負ったからこそ生まれる輝き。
徹夜が続き、3日目の夜、指先は震え、目は充血していた。それでも、私は完成させた。パソコンにデータを入れ直し、フリップを準備する。田川亜美には絶対に負けたくない。ポルコロッソの朱色のトートバックを肩に担ぎ、私は会議室のドアを開けた。
会議室の円卓には、主任をはじめとする数名の審査員とデザイナーが、緊張感が漂う中、固唾を飲んで見守っていた。
私はゆっくりと息を吐き、円卓を回って前に出た。USBを差し込み、パソコンを起動させる。審査員たちの視線が集まる中、亜美の瞳が一瞬、怯えたように揺れた。画面に私の本当のデザインが映し出される。
タイトルは同じ『Eternal Bond』でも、モチーフは違う。
メビウスの輪を基調にしながら、内側に細かな亀裂を刻み、傷が光を屈折させてより深い青を生む。サファイアは同じ石を使い、星屑のようなメレダイヤは、壊れかけた絆が再び輝く瞬間を象徴している。
「永遠の絆は、完璧なものだけではない」
私は静かに語り始めた。
「時には亀裂が入り、壊れそうになる。でも、そこから漏れる光が、本当の輝きになることもある。私は、それを形にしました」
審査員の一人が身を乗り出す。亜美の表情が、初めて強張った。私は画面を指差し、続けた。
「このリングは、失われかけたものを、もう一度繋ぎ止めるためのデザインです」
会議室が静まり返る。サファイアの青が、スクリーンに大きく映り、傷跡が光を散らす。私の心臓はまだ激しく脈打っていた。でも、今はもう怖くない。主任審査員が眼鏡を外し、ゆっくりと口を開いた。
「佐々川さん……これは、斬新ですね……」
他の審査員たちも頷き、メモをめくる手が止まらない。
「テーマである永遠の絆を、傷と再生という視点で表現した点が、非常に新鮮です。技術的にも、メレダイヤの配置が光の屈折を最大限に活かしていて素晴らしい!」
主任審査員の言葉が続くたび、胸の奥が熱くなる。3日間、徹夜で削り直した石、震える指で描いた線ーーすべてが報われた瞬間だった。けれどそこで、一人の女性審査員が銀縁眼鏡を上下させ、訝しげに目を光らせた。
「9番の田川さんのデザインと、非常に似ていますね」
その呟きに私は静かに微笑み、マイクを握った。
「いいえ。似ているのではなく、同じです」
会議室がざわめく。亜美の顔が青ざめる。
「私のデザインは、メビウスの輪を基調に、内側に意図的な亀裂を入れています。それは壊れかけた絆の傷跡を表し、光の屈折でより深い青を生む――田川さんの発表と、ほぼ同じです」
会議室が静まり返る。視線が田川亜美へと集まった。
「なぜなら、私がオリジナルだからです。田川さんは、私のデータを盗んで発表したのです」
審査員たちが息を呑む。主任が鋭く亜美を見た。
「田川さん、これは本当ですか?」
亜美は立ち上がり、声を震わせた。
「違います! 佐々川さんが嫉妬して……」
私は机に手をつき、狼狽える彼女を一瞥し言葉を続けた。
「ファイルを消された痕跡が、工房のパソコンに残っているはずです」
主任が頷き、スタッフに指示を出した。会議室の空気が一変する。亜美は立ち上がろうとして、椅子に座り直した。唇が震えている。
「私のデザインは、傷ついた絆が新たな光を生むことを表現したもの。田川さんは、それをただコピーしただけです」
私はフリップをめくり、自分のスケッチ過程を見せた。日付入りのラフ画、試作の写真、すべてが揃っている。会議室が静まり返る。審査員が顔を見合わせ、主任が静かに言った。
「これは……重大な問題です。田川亜美さん、説明をお願いします」
田川亜美は言葉を失い、肩を震わせテーブルに視線を落とした。審査員の一人が静かに言った。
「田川さんの作品は……保留としましょう」
亜美は唇を噛み、俯いたまま答えなかった。私はパソコンからUSBを抜き、静かに席に戻った。彼女の背後で足を止める。
「田川さん……私の全てを奪えたかしら?」
「……くっ」
田川亜美は悔しさの表情を浮かべ、スカートの裾を、指先が白くなるまで強く握っていた。
「それでは審査に入ります」
緊張の中、審査が始まる。審査員の議論が長引き、会議室の空気がさらに重くなった。やがて主任審査員が立ち上がり、結果を発表する。
「最優秀賞は……10番、佐々川瑞穂さんの『Reborn Eternal――永遠の再生』です」
一瞬の静寂の後、拍手が沸き起こった。私は息を止めたまま、信じられない思いで立ち尽くす。亜美は机の上で組んだ手を呆然と見つめていた。
「……失礼します」
そこでスタッフが主任審査員に耳打ちをした。彼は深く頷くと「お通しして」と答えた。会議室のドアが静かに開き、会場がざわめいた。
入ってきたのは、昨夜のワインバーRencontreで隣に座っていた倉橋だった。ダークグレーのスーツに焦茶のネクタイをきちんと締め、穏やかな笑みを浮かべている。昨夜の少し緩んだ雰囲気とは違い、堂々とした佇まいだ。
「失礼いたします」
彼は円卓の端に歩み寄り、主任審査員に軽く頭を下げた。スタッフが持ってきた椅子に腰を下ろす。審査員たちが顔を見合わせ、興味深そうに彼を見つめる。主任が眼鏡を直しながら口を開いた。
「倉橋様、本日はお越しいただきありがとうございます。倉橋様には、弊社の外部アドバイザーとして、新たなジュエリーブランドの立ち上げに携わって頂きます」
外部アドバイザー……?私は息を呑んだ。倉橋が私を見て、昨夜と同じ凪のような笑みを浮かべた。目が合った瞬間、彼は小さく頷いた。
「佐々川瑞穂さんの『Reborn Eternal』、拝見しました」
彼の声は落ち着いていた。
「傷を負った絆が、新たな光を生む――非常に心を打たれました。私個人の意見ですが、この作品は単なるジュエリーを超えて、人の生き方を象徴していると思います」
審査員たちが深く頷く。私の胸が熱くなる。
「永遠とは、完璧なものではなく、壊れても再生するもの。佐々川さんのデザインは、それを美しく形にしています」
倉橋はゆっくりと私を見た。
「あの夜、君から聞いた話が、この作品に繋がっているんですね」
会議室が静まり返る。私は頷いた。言葉が出ない。主任が微笑み、結論を述べた。
「倉橋様のご意見も参考にさせていただき、新たなジュエリーブランドのチーフは佐々川さんに決定いたしました」
拍手が沸き起こる。私は立ち上がり、深く頭を下げた。涙がこぼれそうになるのを、必死に堪える。倉橋が立ち上がり、私に近づいてきた。静かに右手を差し出す。
「おめでとう、佐々川さん」
私はその手を握った。温かかった。
「ありがとうございます……倉橋さん」
「君のデザインをブランドの目玉にしたい」
彼は小さく笑った。
「出会いって、不思議だね」
私は頷いた。Rencontre――偶然の出会いが、私の人生を、ここまで変えた。会議室を出るとき、倉橋がそっと名刺を差し出した。倉橋智久、肩書きは……倉橋コーポレーションCEO。
「また、ワインでも飲みに行こう。君の新しいデザイン、楽しみにしているよ」
私は名刺を受け取り、微笑んだ。名刺の裏には携帯電話番号が、軽やかに走り書きされている。サファイアの青が、心の中で静かに輝き始めていた。
◇◇◇
帰宅後、リングケースを開けた。5周年用のペアリングが、まだ青く輝いている。私は自分の指に嵌め、もう一方をテーブルに置いた。拓也が帰ってくるか、帰ってこないか――――それはもう、関係ない。私は自分の手で、絆を新しく生み出したのだから。
その時、グループLINEの通知音が鳴った。画面を開くと、田川亜美からの投稿。「私が手に入れられなかったものよ」。逆光の夕日を背景に、手を繋ぐ男女のシルエット写真。影が長く伸び、親密さが痛いほど伝わる。キャプションは短い。
――もう一度ここから――
既読がつき、すぐに他のメンバーから『え?』『どういうこと?』『綺麗な写真!』と反応が続く。私はスマホを握りしめたまま、息を止めた。
――もう一度ここから――
……どういう意味?写真の男性の背丈、肩のライン、手の形……すべてが拓也に似ている。私は写真を拡大した。
繋いだ手の女性……細い指、爪の形、髪の長さ。亜美のものじゃない。亜美はいつも赤いマニキュアで、髪は肩まで。山崎美咲の髪型とも違う。彼女はストレートで、もっと短めだった。この女性は、爪がナチュラルで、髪が少し長くウェーブ掛かっている。
亜美が投稿したのに、彼女自身じゃない。
――つまり、拓也の本当の浮気相手は亜美じゃなかった。
もう一人、別の女性がいる。胸の奥が冷たく沈む。私はスマートフォンを握ったまま、画面を拡大した。亜美がわざわざスクリーンショットを撮って投げてきた。挑発か、警告か、それとも自分も傷ついた証拠の共有か。
私はスマートフォンを置いた。怒りより、虚しさが広がる。
5年間の結婚は、こんなに脆かったのか。私は作業台に戻り、サファイアをルーペで覗いた。『Reborn Eternal』の試作が、静かに輝いている。山崎美咲も、田川亜美も、私も、手に入れられなかったもの。
――それは、拓也の心。
私は鉛筆を握り、次のデザインを描き始めた。
「……拓也、あなたが愛したのは……一体、誰?」
紅茶のシミがついた離婚届はまだ私の手の中にある。拓也がこの女性と結婚することは許さない。真実を知るまでは。
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