熱狂と言っていいほどの大歓声の中を、岩崎は顔色ひとつ変えることなく舞台から下がった。
その後を戸田が追うようにして着いていく。
舞台裾に戻って来た岩崎を学生達が、きらきら目を輝かせながら大きな拍手と共に迎えた。
「戸田君、お疲れ様。助かったよ」
岩崎の労いに、
「いえ!岩崎先生!勉強になりましたっ!ありがとうございました!」
戸田は、深々と頭を下げた。
「あ、あの、あのですね、美しい師弟愛は結構なのですが、私どもは、どうすれば……」
支配人が、泣きそうになりながら、観客の声を気にしている。
「だよなぁー!そうだよっ!京さんっ!こんだけ、あんこ売れって言われてんだぜ!なんで、演奏したら、あんこ売らなきゃいけねぇんだい?!西洋じゃあー、そんな習慣なのかよ!」
「田口屋さん!あんこって言われましても、うちは、劇場ですよー!和菓子店じゃないんですからー」
支配人は、ますます弱り果てている。
「そうだ支配人!あんパン、どれだけ余ってる?!すぐに、売り子に升席回れって伝えろっ!ここにゃー、あんパンしかねぇーだろ?!」
腕組みしながら、苦肉の策を考え出した二代目は支配人に命じた。
それを受けて、支配人も、名案だと頷いたが、それを邪魔する者が現れる。
「あんパンか。しかし、支配人。義姉上とお咲へ、まだあんパンを渡していないでしょう?」
岩崎が、意地悪く笑っていた。
支配人は忘れていたのか、ひっと声をあげる。
そのやり取りに、学生達は、肩を揺らし笑いをこらえていた。
「まあ、お困りのようだ。私がなんとかしましょう」
「おお!岩崎様!!助かります!!」
両手を合わせ岩崎を拝む支配人の姿に、さすがにこらえきれぬと、学生達は吹き出した。
「え?!なんだい?なんかちがうのかい?!中村のにいさん?」
周囲の反応に二代目も、なにかおかしいと勘づいたのか、中村へ問いただしている。
「まあ、見てろよ、二代目!岩崎が舞台へ出ていったら、収まるさ。あんパンの用意もいらねぇよ」
へっ?!と裏返った声をだし驚く二代目の側から戸田が口を出してきた。
「岩崎先生。今度は何を?私で良ければ、伴奏のお手伝いを致します!」
「あっ!岩崎!おれも!バイオリン弾くぞ!」
戸田と中村の申し出を、岩崎は、軽くいなして、舞台へ向かう。
「え?……ということは、中村さん?独奏でしょうか?」
「そうゆうことだろうけど……?」
その場に集まっている学生も、どこか、いつもと違う雰囲気というべきか、含みを持たせているというべきか、岩崎の様子に皆、首をかしげた。
裏腹に、再びの演奏者の登場に観客は沸いた。
黙って舞台から観客を見回した岩崎は、チラリと桟敷席を望むと、すっと、息を吸い込み、一言。
「それでは!」
発せられた大声に、観客は、何がおこるのかと固唾を飲んでいる。
「私をいつも側で支えてくれている妻に……妻の月子へ捧げます!!徹夜で作曲に取りかかっていたのですが、あいにく間に合わなかった。月子、すまん」
言って、岩崎は一礼するとチェロを構える。
「岩崎京介作曲、未完成無伴奏チェロ組曲、麗しの君に」
気迫のこもった声が、演劇場に響き渡った。
「……だ、旦那様……?!」
月子は、突然のことに驚きを隠せない。
てっきり、今日の準備のために、岩崎は毎夜、遅くまで起きていたのだと思っていた。
それが……。
それが……。
──妻の月子へ捧げます──
岩崎の言葉が、月子の中でこだまする。
「あ、あぁ……」
胸が締め付けられ、言葉にならない。
ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ出る。
「月子?よかったね。素敵な旦那様だね」
涙する月子の背中を、母がそっと撫でてくれた。
「か、母さん!」
母の胸に飛び込んで、月子は涙した。
「泣いてちゃだめだよ?せっかくの演奏なのに。月子のための演奏だよ?」
母の言葉に、月子は、うん、うんと、何度も何度も頷いた。
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