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夜の街は、まるで息を潜めていた。
イルダの空に浮かぶ三つの月が、石造りの路地を白く照らす。
その光は冷たく、牢を抜け出したばかりのハレルの頬を差した。
風の中に湿った血と古い紙の臭いが混じっている。
セラの白い服が暗闇の中に淡く揺れた。
「こっちよ。追手は来ないわ。」
その声には、不思議な確信があった。
二人がたどり着いたのは、王都の北端――
古い修道院の跡地だった。
苔むした壁、崩れかけた尖塔。
長年閉ざされた門扉には「禁域」と刻まれた鉄板がぶら下がっている。
「ここは……?」
「“記録の書庫”。かつて、この国の王が作らせた観測者の保管所。」
セラが静かに扉へ手を伸ばす。
金属が鳴り、空気が震えた。
封印の鎖が光となって消える。
中に入ると、世界が一変した。
石の床の上に、無数の立方体の光が浮かんでいる。
それらはゆっくりと回転しながら、淡い青や金の光を放っていた。
風はないのに、髪がわずかに逆立つ。
「……これ、何だ?」
「観測の記録(ログ)。この世界の“出来事”は、すべて誰かに“見られ”、保存されているの。」
セラの声が光の中に溶けた。
ハレルは一歩近づき、指先で立方体に触れた。
表面は冷たいが、奥から微かな鼓動のようなものが伝わってくる。
光が反応し、視界に映像が流れ込んだ。
――暗い廊下。血に濡れた床。
大臣アルディアの部屋。
リオ――いや、一ノ瀬涼によく似た青年が立っている。
だが、その手には武器はない。
彼の前で、大臣が崩れ落ちる。
そして、背後から“何か”が閃く。
刃のような光。人の形をした影。
「……違う。リオが刺したんじゃない。」
ハレルの声に、セラが頷く。
「これは塔に上書きされた“再現データ”よ。
“本当の現場”は、もっと下――記録庁の本棟、地下保管層にある」
ハレルは喉を鳴らす。
「やっぱり、ここ(塔)は偽装……」
セラは壁面のノイズを指差した。
「切断痕がある。犯行直前と直後だけを“見せる場面”に編集されてる。
背後の影の輪郭マスク……“誰か”の姿が意図的に消されてる」
(犯人を隠すための編集……誰が、何のために)
ハレルの喉がひりついた。
「誰かって……?」
「……この世界を“観測”してきた者たち。
あなたの家系の――ある人物も、その記録を追っていた。」
ハレルの心臓が跳ねる。
「……それ、まさか……父のことを知ってるのか?」
セラは少しだけ目を伏せた。
「今は話せない。けれど、いずれあなたが“見る”時が来るわ。」
その一言に、ハレルの胸の奥がざらついた。
何かを知っている。だが今は、まだその“扉”を開けられない――
そう言われているようだった。
光の立方体の一つがふわりと浮かび上がる。
セラがそれに触れると、空気がひび割れた。
「見て――」
その瞬間、ハレルの視界が弾けた。
重力が消え、世界が反転する。
光の粒が形を変え、床も空も見えなくなった。
次の瞬間――
そこは「教室」だった。
午前の光。窓際の席。
黒板に書かれた数式、遠くで聞こえるチャイム。
机に頬を伏せて眠る、一ノ瀬涼。
同じ教室で、別の生徒たちが静かにノートを取っている。
(……これは、過去の映像?)
だが違う。
目の前の涼が、突然ゆっくりと顔を上げた。
そして、まっすぐハレルの方を――
いや、“視ている者”の方を見た。
ぞくりと、背筋が冷えた。
視線が交わる。
(俺が……見えている?)
セラの声が耳の奥に響く。
「これは、“数日前”の現実の記録。
あなたが眠っていた間の出来事。
あなたの視界は、今、涼の記録を通して世界を見ているの。」
涼の目の奥に、何かがあった。
恐れでも、罪悪感でもない。
それは“知っている者の目”。
真実を、すでに見た者の目だった。
「セラ……これは、夢なのか?」
「夢ではない。あなたの意識が、“観測の層”を越えたの。」
涼が立ち上がる。
その瞬間、映像がノイズを走らせ、画面が波打つように歪んだ。
背後の窓の外―― そこに、異世界イルダの塔が一瞬、重なって見えた。
現実と異世界の境界が、崩れかけている。
ハレルは息を呑み、唇をかすかに動かした。
「セラ……俺は、確かめる。
この“二つの世界”で起きたことの真実を。」
少年の灰色の瞳に、光が宿る。
恐怖ではない。
観測者としての覚醒の光。
セラがわずかに微笑んだ。
「ようやく、あなたの“視界”が開いたのね。」
その言葉を最後に、世界がふたたび光に包まれた。
教室の景色が溶け、静寂が訪れる。
――観測とは、記録された真実を見ること。
だが、真実が誰かに書き換えられたのなら。
その“影”を暴く者こそ、観測者。
ハレルは目を開いた。
手の中には、いつの間にか“青く光る立方体”があった。
そこには、“リオ”の視界がまだかすかに脈打っていた。
「リオ……君は、何を見た?」
問いは夜に溶け、イルダの塔の鐘が静かに鳴った。