拓郎が彼女、大沼藍 (おおぬま あい)と出会ったのは昨年の十一月。
無性に「朝の港の風景」が撮りたかった拓郎は、神奈川県の「港が見えるヶ丘公園」に来ていた。
その名称通り、横浜港を一望できる小高い丘に造られた公園で、日没から夜にかけての景色の素晴らしさは、言葉に出来ないほど美しい。
山下公園、マリンタワーと並ぶ定番の観光&デートスポットなので、昼間は観光客、夜はカップルで賑わっている。
が季節はもう冬。
それもまだ、日の出前の薄暗い時間帯と言うこともあり、さすがに散歩をする人影すらいない。
拓郎は結構な底冷えの中、日の出を撮るべく一番見晴らしの良い場所に陣取った。
吐く息が白い。
夜が明ける前のシンと染み込むような冷気が、むき出しの頬に突き刺さるが、子供と一緒で、そう言う時の早起きも寒さも気にならなかった。
日の出の瞬間、拓郎はシャッターチャンスにカメラを構える。
と、不意に覗くファインダーの中に、人影が入った。
年の頃は、十六、七才だろうか。淡いブラウンのコート姿の華奢なシルエット。
人目を引く程の、腰まで伸びた自然なウェーブの掛かった、柔らかそうな長い髪。
その髪が、海風に吹かれてサラサラと、軽やかに舞う。
髪の色が金色に輝いて見えるのは、朝日に照らされているからばかりではないようだった。
「ハーフか何かかな?」
少女がゆっくりと、拓郎の方へ振り返る。
瞬間、拓郎は思わず息をのんだ。
まだ眠りから目覚めない、薄紫に霞む港の風景。
冬の凍えるような、ぴんと張りつめた空気を切り裂くように、雲の切れ間から漏れるの神々しいまでの朝日が、儚げに佇む少女を染め上げる。
今にもその光に溶けて行ってしまいそうな、目を離したら、もう次の瞬間には消えていなくなってしまいそうな危うさ。
決して、絶世の美女という訳ではなかった。でも、目が離せない。
それはまるで、鮮烈なイメージを放つ一枚の絵のようだった――。
一瞬拓郎は、今見ている物が、現実ではないような気がした。
「冬の妖精とか言うんじゃないだろうな……」
そんなことを呟きつつ、感動。そう、感動するとはこ言うことなのだと、どこかでぼんやり考えながら、拓郎は夢中でシャッターを切り続けていた。
カシャカシャカシャ。カシャカシャカシャ――。
朝の静寂を縫うように響くシャッター音。
その音に気付いて、少女が拓郎の方を見た。
二人の視線が、カメラのファィンダー越しに合う。
まさか人がいるとは思わなかったのだろう、少女の大きな色素の薄い明るい茶色の瞳が、驚きに見開かれる。
「あっ、すみません! 勝手に撮ってしまって!」
結構な重さのカメラを抱えて、ペコリと頭を下げながら拓郎は少女の元に走り寄った。
訝しげに、と言うより『恐怖』の表情を浮かべて見つめ返す大きな瞳。
綺麗だな――。
拓郎は、素直にそう思った。
『邪気のない』と言えば一番ぴったり来るだろう、澄んだ瞳の色。
目は心の窓と言うが、その澄んだ瞳の色は、少女の純粋さをそのまま現しているような、そんな気がした。
「あ、俺、私は、こう言うもので……あれ?」
拓郎は、いつもの仕事の癖で、名刺を渡そうと胸ポケットやジーンズのポケットをまさぐって、はたと気が付いた。
「今日は、仕事じゃなかったんだっけ」
納得したように呟くと、くしゃっと笑顔になる。
元々童顔で人好きのする顔なので、笑うとますます少年めいて見える。
「俺、芝崎拓郎しばさきたくろうって言います。フリーのカメラマンをしているんですが。突然ですが、モデルになって貰えませんか?」
我ながら、在り来たりなナンパにきこえるな、と思いつつ
「是非撮らせて下さい。宜しくお願いします!」と、頭を勢いよく九十度に下げる。
「ごめんなさい。私、出来ません!」
動揺したような、幾分震えたトーンの高い澄んだ声が返って来て、拓郎は頭を上げた。
ペコリ。
その視線の先で少女は頭を下げると、無言のままクルっときびすを返した。
「あ、待って!」
拓郎は思わず反射的に、少女の手を掴んだ。
ビクリ!
少女の体は絵に描いたように固まり、驚きに見開かれた瞳が拓郎を見つめ返した。
「あ、ご、ごめん!」
反射的にしてしまった行動が、少女を酷く怯えさせたことを感じて、拓郎は慌てて手を放した。
「それじゃ、話だけでも聞いて貰えませんか? 確か、すぐそこにファミレスがあった筈だから……」
しどろもどろになりつつ、何とか説得を試みる。
「お願いしますっ! この通り!」
こう言う時は、押して押して押し切るに限る。それが必要な物ならば、恥や外聞を気にするのは二の次だ。
どうしても、この少女の写真が撮りたい。
最早それは、『被写体に対する一目惚れ』のような物で、拓郎の『カメラマンとしての勘』としか言いようがない。
理屈ではないのだ。
拓郎は再度、深く頭を下げた。
「あの……」
困ったように呟く少女の声には、明らかに迷いの成分が含まれている。
「お願いします!」
だめ押しとばかりに、拓郎は頭を下げたまま声を重ねた。
じりじりと、沈黙の時が流れていく。
「――分かりました。お話しを聞きます」
根負けしたような小さい声が、頭を下げたままの耳に届いて、拓郎はばっと顔を上げた。
「でも、モデルは出来ません。それでもいいなら……」
拓郎は、小さいがはっきりとしたその声に、少女の意志の強さのようなものを感じ取った。
じっと、少女の茶色の瞳を覗き込む。
まずは第一歩。
話を聞いて貰えれば、説得する自信はある。
「ありがとう」
拓郎はそう言って、緊張気味に自分を見返す少女に、こぼれ落ちそうな笑みを向けた。
※ ※ ※
拓郎は今まで、風景写真が専門で人物は撮らなかった。
いや、「撮れなかった」と言った方が正しい。
どんなに美しいモデルでも、その内にあるドロドロした醜い感情が、写真に表れて来るようで、どうしても人物を撮る気にはなれなかったのだ。
その自分が初めて、心底「撮りたい」と思える被写体が目の前に現れたのだ。
一度や二度断られた位で、「はい、そうですか」と、簡単に諦める訳にはいかない――。
拓郎は、必死だった。
「こういう写真を撮っているんだ」
公園の近くにある二十四時間営業のファミリー・レストランは、朝早いこともあってか、客が一人もいなかった。
拓郎は店の入り口近く、窓際の四人掛けのテーブルに少女と向かい合って座ると、二人分のコーヒーを頼み、おもむろに、テーブル上に持ち合わせていた写真を広げ始めた。
ちょっと照れつつ、説明をしながら、一枚一枚少女に見せて行く。
「うわぁ、綺麗――」
少女が感嘆の声を上げる。
その写真には美しい、どこか懐かしい風景が写し出されていた。
道ばたの小さな野の花。
海に沈む夕陽。
薄紫に浮かぶ街並。
綺麗なだけの写真ではない、温かい優しい風景――。その写真を撮った者の人間性を伺わせるような、そんな写真だった。
その中の一枚に、少女の目が止まる。
それは、一面の向日葵畑の写真――。
抜けるような夏の青空の下に揺れる、何処までも続く大輪の黄色い花の群れ。
真っ直ぐ「凛」として太陽を見詰めている、強い強い夏の花。
少女は食い入るように、その写真を見つめている。
「それで、モデルの事なんだけど……」
――どうやら、興味を持ってくれたようだ。
拓郎は、意を決して話を切り出した。
「別に、雑誌に載せようとか、そう言うんじゃないんだ。見ての通り、俺は風景写真が専門なんだけど……。でも君を見た時、初めて人物を撮りたいって思った。今、もし撮らなかったら、一生後悔するような気がする……。いや、違うな。単に君が撮りたいんだ。変な意味じゃ無い。この風景を撮りたかったように、君の写真が撮りたいんだ」
拓郎は、真っ直ぐと少女の目を見て話す。その心の内にやましさは微塵も無い。その言葉通り、ただこの少女の写真を取りたかった。
少女がやはり、邪気のない真っ直ぐな視線を拓郎に向ける。
「一日だけでもいいのなら……、お引き受けします。でも、公の場に写真が公表されるのは困ります。それだけ約束して下さい」
まだ迷いが有るように、揺れる少女の視線。
それでも、目をそらさずに話す真摯な態度に、拓郎は少なからず感銘を受けた。
――今時の若い子には珍しい、礼儀正しい娘だな。
「ありがとう!」
拓郎が、満面の笑みを浮かべる。
その笑顔を見て、少女が初めて微笑みを見せた。
「じゃ、改めて自己紹介を。俺は、芝崎 拓郎。フリーのカメラマンをしています」
「私は……大沼藍おおぬまあいです」
ペコリと頭を下げる。
「あ、俺、こう見えても、二十七なんです。良く学生に見られるけど。ほら、見ての通り童顔だから」
はははと、拓郎が頭をかいた。
「私は、十七歳です」
「へぇ。高校生? でも、今日は朝早くからあそこで何してたの? 観光には早すぎる時間だよね」
何気ない問いに、少女、藍の表情がすっと硬くなる。
「……高校生じゃないです。学校には行っていません」
――まずい質問だったかな? 拓郎は内心、焦った。気を悪くさせては、元も子も無い。
「あ、これ、俺の連絡先です」
荷物の中にあった名刺を、藍に渡しながら問いかける。
「あの。連絡先を聞いてもいいかな?」
「すみません……」
すまなそうに、藍がうつむく。
「携帯の番号か、メルアドでもいいんだけど。後で出来た写真を送りたいしね」
「すみません……」
だんだんと『補導するお巡りさん』の様相を呈して来る。
――家出? だったらまずいかな。
良く考えてみれば、妙な話だった。若い女の子が、日の出前の公園に一人。いったい、何の目的があったのか?
導き出される答えは、そんなに多くはない。
「そんなに言いたくないなら、無理には聞かないけど……」
「すみません……」
やはり、家出娘で、家に連絡されると困るのか、それともまだ、警戒されているのか。
拓郎は、「すみません」とすまなそうに呟く藍を見ていると、自分が悪者になったような気がして、軽く溜息を付いた。
と、その途端、キュルルルッ!! どこかで腹の虫が威勢良くなった。
――俺じゃないぞ。拓郎は思わず、周りを見回す。
「ごっ、こめんなさい!」
頭のてっぺんまで赤くして、藍がさらにうつむく。
――笑っちゃダメだ。ここで笑ってみろ、彼女ポストになっちまうぞ。
拓郎は、思わず声を出さずに笑った。
藍に気を遣っているのだが、如何せん肩が小刻みに震えているので、丸分かりである。
「ごめんよ、もしかして、今まで元気がなかったのって、腹、空いてたせい?」
そう言う声も、笑いを含んでしまう。
「すみません。私、昨夜から何も食べてなくて……」
昨夜から、と言うことは、やはり家出をしてきているのか。
「俺も丁度、腹ぺこだったんだ。何か食べようか」
「あの、でも私、お金が……」
「ああ。心配しないで、俺のおごり。しがない売れないカメラマンだから、モデル代はそんなに弾めないけどね」
来たばかりの、和風朝食セットを実に美味しそうに食べる藍に、楽しげに拓郎が言う。
「お腹が空いてたなら、言ってくれればよかったのに」
「でも芝崎さん、噛みつきそうな感じで熱弁していらしたので……あの、怒られそうで……」
遠慮がちな答えが返ってくる。
拓郎が微妙な表情をした。
本人は、「こんな十七才が今時いるんだな」と、改めて感心していたのだが、藍は藍で自分が、「彼を怖がってると思われたかしら?」と変な心配をしていた。
結局、「港が見えるヶ丘公園」で写真を撮り終えた後、泊まる所の無い藍を連れて拓郎は、愛車、十年物の中古のカローラで、東京の自分のアパートへ向かったのだった。
金を持ってない藍に、貸してやるだけの持ち合わせがなかったのと、何よりこのまま、帰るところが無いのを分かっていて、「それじゃ、さよなら」と突き放してしまえるだけのドライさを、拓郎は持ち合わせていなかったのである。
こうして、大沼藍と芝崎拓郎は出会った。
それは、全くの偶然だったかも知れない。
でもそれは、二人にとっては「運命の偶然」だった――。
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