テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
22
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
朝の商店街は、まだ眠たげだった。街灯が消え始めて、薄い朝霧が路地に残ってる。スーツケースの車輪が、アスファルトをコロコロと転がる音が、自分の足音より大きく聞こえる。
昨夜はネットカフェの個室で、ほとんど眠れなかった。頰の腫れは少し引いて、触るとまだ熱を持ってるけど、鏡で見たら、薄い青あざが浮かんでた。でも、痛みはもう、ただの印みたい。「ここから出た」って証拠。
『喫茶うさぎ』の看板が、ようやく見えてきた。うさぎのイラストが、朝の柔らかい光に照らされて、なんだか優しく微笑んでるみたい。
ドアの前に立つと、チリンと小さなベルが鳴る前に、中からかずちゃんの声が聞こえた。
「弥生ちゃんか?入っておいで」
ドアを開けると、焙煎した豆の香りが、ふわっと包み込んでくれる。昨日と同じ橙色の灯り。木目のカウンターが、朝の陽光に照らされて、年輪がより深く見える。かずちゃんはエプロンを着て、豆を挽く手を止めて、私の方を見る。スーツケースに視線を落として、小さく息を吐く。
「……来たね」
私はスーツケースを店の隅に置いて、カウンターの前に立つ。頰の腫れを隠すように、髪を少し下ろして、でも視線は逸らさない。
「かずちゃん……お願いします。この店、継がせてください!」
言葉が出た瞬間、胸の奥が熱くなった。涙が出そうになるのを、ぐっと堪えて、続けて言う。
「資金は、もうすぐ貯まります。あと少しで450万円に届きますから……それまで、修行させてください。コーヒーの淹れ方、全部教えてほしいんです。2階に住まわせてもらえませんか?ここで、ちゃんと自分で立ってみたいんです」
かずちゃんは、ゆっくり頷く。白髪の束が、朝の光に透けて、優しいシルエットになる。
「わかってるよ。昨日、一帆から話は聞いた。……頰、どうしたんだい?」
私は指で軽く触れて、
「昨夜……別れました。殴られて、でも、もう大丈夫です。これで、自由になれました」
かずちゃんは黙って、新しいカップにコーヒーを淹れ始める。ドリップの音が、静かに店内に響く。カップを私の前に置いて、
「まずは、これ飲みな。今日から、君の朝のコーヒーだよ」
一口飲むと、苦みが舌に広がって、後味にほのかな甘さが残る。本物の味。インスタントの焦げた匂いじゃない。自分の手で淹れる日が、すぐそこにある味。その時、奥の階段から足音がして、宇佐美一帆が降りてきた。
今日はスーツじゃなくて、シンプルなシャツとチノパン。髪は少し乱れてて、朝の寝癖が残ってる。でも、目が合うと、静かに微笑む。
「おはよう、弥生さん。……決めたんだね」
私はカップを置いて、
「はい。お願いします。コンサルも、修行も、全部」
宇佐美さんはカウンターに肘をついて、
「もちろん。無償で、全部やるよ。でも、まずは2階を見てもらおうか。荷物置いて、落ち着いてから話そう」
かずちゃんが、鍵を渡してくれる。小さな木の鍵。2階への階段を上ると、狭いけど、木の温もりが満ちた部屋。向かいは宇佐美さんの部屋だ。窓から商店街が見えて、朝の光が床に差し込んでる。スーツケースを置いて、ベッドに腰を下ろす。頰の痛みが、もうほとんど感じない。代わりに、胸の奥が、温かくて、軽い。ここが、私の新しい朝。
「おまえ」って呼ばれない。「弥生」って、ちゃんと呼ばれる。
本物のコーヒーを、自分の手で淹れる朝が今日から始まる。私は窓を開けて、外の空気を吸う。商店街の朝の音が、遠くから聞こえてくる。
自由の味は苦くてでも優しくて、これから、私が決める味になる。
修行の初日。
朝の光が木枠の窓から差し込んで、『喫茶うさぎ』のカウンターを優しく照らしていた。私はエプロンを着て、かずちゃんの隣に立っていた。メイド服を着て「お帰りなさいませ♡」って言っていた自分が、今はシンプルなチェックのエプロンで、コーヒー豆の袋を抱えている。なんだか、夢の中にいるみたい。
「まずは豆を知ることからだよ、弥生ちゃん」
かずちゃんはそう言って、カウンターの上に三種類の豆を並べた。ブラジル、コロンビア、エチオピア。それぞれの袋を開けて、香りを嗅がせてくれる。
ブラジルはナッツみたいに深くて落ち着いた香り。
コロンビアは少し酸味があって、爽やか。
エチオピアは花みたいな、フルーティな甘さ。
私は1つずつ、鼻を近づけて、目を閉じて嗅ぐ。
「豆の種類で、味が変わる。焙煎の度合いでも変わる。でも、一番大事なのは、淹れる人の気持ちだよ」
かずちゃんの言葉が、静かに落ちる。私は頷いて、
「はい……頑張ります」
最初に教わったのは、ハンドドリップの基本。ペーパーフィルターをセットして、お湯を沸かす。温度は92度。かずちゃんが温度計を渡して、「ここまで冷ましてからね」って言う。
私はお湯を注ぐ手を、少し震えながら練習する。最初は、ドリッパーの真ん中に集中して注いで、円を描くように広げて、また中心に戻す。
「ゆっくり、優しく。豆が踊るように」
豆が膨らんで、プクプクと泡立つ。その様子が、なんだか可愛くて、思わず笑みがこぼれる。かずちゃんも、目を細めて見てる。
「いいよ、弥生ちゃん。その笑顔が、コーヒーの味を良くする」
最初のコーヒーができあがった。カップに注いで、かずちゃんに差し出す。彼は一口飲んで、ゆっくり息を吐く。
「……悪くない。でも、まだ優しさが足りないな。もう一度」
私は頷いて、また豆を挽き始める。ハンドミルの音が、店内に優しく響く。コロコロ、コロコロ。この音が、好き。メイド喫茶のBGMや「おかえりなさいませ♡」の声じゃなくて、静かで、穏やかで、自分のリズムで回せる音。
午前中はずっと、同じ豆で繰り返し練習。十杯目くらいで、ようやくかずちゃんが「これなら、飲める」って言ってくれた。私はホッとして、自分の分も淹れる。カップに口をつけた瞬間、苦みが舌に広がって、でも後味に、ほのかな甘さが残る。
メイドカフェのインスタントの焦げた匂いじゃない。自分の手で淹れた、本物の味。宇佐美さんが階段を降りてきて、カウンターに座る。
「どう? 初日」
私はカップを置いて、
「まだまだですけど……楽しいです。ここにいると、自分が『弥生』だって、ちゃんと実感できます」
宇佐美さんは小さく微笑んで、
「それが、一番大事だよ。コーヒーは、淹れる人の人生を映すから」
午後は、豆の保存方法や、器具の洗い方、掃除の仕方を教わった。カウンターを拭く布の使い方まで、一つ一つ丁寧に。かずちゃんは、
「急がなくていい。焦ると、味が出ないよ」
って、何度も言う。その言葉が、胸に染みる。夕方近く、初めてのお客様が来た。常連のおじいさん。
「かずちゃん、いつものブラックで」
って言う。かずちゃんは私を見て、
「弥生ちゃん、やってみな」
私は緊張しながら、豆を挽いて、ドリップする。お湯を注ぐ手が、少し震えるけど、ゆっくり、優しく。カップをテーブルに運んで、「どうぞ、お待たせしました」緊張する。
おじいさんは一口飲んで、「ん……いい味だねぇ。かずちゃんより、優しいかも」かずちゃんが笑って、「ほら、言ったろ」私は頰が熱くなって、でも嬉しくて小さく頭を下げる。
頰の青あざは、もうほとんど消えていた。代わりに、ここで生まれた温かさが顔に広がってる。修行の初日。まだまだ下手くそで、失敗もたくさんしたけど、このカウンターに立ってる自分が好きだ。
ここが、私の新しい居場所。
本物のコーヒーを淹れる朝が、今日から、毎日続く。夕陽が窓から差し込んで、木目のカウンターを橙色に染める。私は布で拭きながら、心の中で呟く。ありがとう、かずちゃん。ありがとう、宇佐美さん。これから、私の味をちゃんと出していけるように。
頑張ります。