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第24話「古いカメラの1枚」
空が、紙のように薄かった。
湿った風のなか、ユキコが小さなカメラを持っていた。
それは黒い革のケースに包まれた、折りたたみ式の古いフィルムカメラ。
「写るけど、残らないよ」と、ユキコは言った。
「じゃあ、なんのために?」
「“撮ったこと”が、残るから」
ナギは首をかしげながらも、受け取った。
リュックの肩紐をゆるめ、カメラの重みを確かめる。
今日は青灰のワンピースに、裾だけうすく汚れたレギンスをはいていた。
靴は昨日より少し大きい。
たぶん誰かのを借りたのだろう。
ユキコはいつもと同じ浴衣姿だった。
でも今日は、模様がなかった。
無地の、白に近い灰色。
歩くたびにすそがふわふわと宙をなぞる。
そのたび、彼女の存在が薄れていくようにも見えた。
「どこを撮るの?」
「なんでも。見て、撮りたいと思ったら」
ナギはカメラを構える。
ファインダーをのぞくと、視界がほんのりとにじんで見えた。
木々の葉がふるえ、風が横からカメラを押す。
シャッターをきる。
カシャ。
けれど、音が遠くで鳴った気がした。
「……今、撮れた?」
「うん。写ったよ」
でもナギの手のなかには、写真はなかった。
カメラにも、フィルムが入っているようには思えなかった。
ふたりは歩いた。
ときどきナギは立ち止まり、カメラを構えた。
雲。
水面。
鳥居の影。
そのたびに、シャッターは小さく鳴った。
でも、その音を聞いたのはナギだけだった。
やがて、ユキコが立ち止まる。
「最後に、わたしを撮ってくれる?」
ナギはうなずいた。
レンズを向ける。
ファインダー越しに、ユキコの姿がにじんでいた。
「今のわたし、ちゃんと見える?」
「……うん。でも、すこしだけ、透けてる」
ユキコは笑った。
「じゃあ、今がいちばん本当のわたしなんだと思う」
ナギはゆっくり、シャッターを押した。
ユキコが笑っていた。
でもその口元だけ、少しだけ寂しそうだった。
音は聞こえなかった。
ただ、カメラが軽くなった気がした。
覗いていたレンズの奥には、誰もいなかった。
目の前にはユキコが立っていたのに、そこにはもう“写るもの”がなかった。
ナギは静かにカメラを閉じた。
スタンプ帳には、“撮った”の印が押されていた。
その印は、ほかのどれよりも薄かった。
まるで「残せなかったこと」の証明のように。