テラーノベル
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第25話「夜の音楽会」
ナギは今夜、耳をすましていた。
風が音を連れてくる。けれど、それは“音楽”とは呼べないほど静かだった。
誰かが遠くで箒を引きずる音。
夜虫が羽をふるわせる音。
水がどこかでにじむ音。
その全部が、ひとつに重なって──ふと、音楽に変わる瞬間があった。
ユキコがナギの手を引いた。
「音楽会、はじまってるよ」
ナギは白いシャツに紺色のベストを羽織っていた。
前髪は少しだけ濡れている。たぶん夜露に触れたのだろう。
スカートは灰緑、裾に一筋だけ銀の刺しゅう。
それが月明かりにときどき光る。
ユキコは、水色に近い浴衣を着ていた。
帯は細く、もう解けそうに結ばれている。
足元は裸足で、けれど草の上に足跡はなかった。
案内された場所には、椅子もステージもなかった。
ただ、森の奥のひらけた空間。
苔に覆われた倒木、草の間に光る石、そして宙に浮かぶ灯り。
そこに──奏者はいなかった。
でも、音があった。
笛のような、鐘のような、草をゆする風のような。
それらが、ときどきメロディのような輪郭をつくって、すぐにほどけていく。
「聞こえる?」
ユキコがたずねた。
ナギは、小さくうなずいた。
「これ、だれが弾いてるの?」
「“いたかもしれないひと”」
「……もういないの?」
ユキコは少し考えてから答えた。
「わたしもわかんない。でも、だれかが『ここにいたことがある』ってだけで音は鳴るのかも」
ナギは目を閉じた。
すると音が少しだけ近くなった。
風の向こう、草の間、空の高いところ。
どれもが音楽だった。
誰かの声みたいに、名前を呼んでいるようだった。
でも、ナギが目を開けると、何もいなかった。
ただ、ユキコがそこにいた。
少しだけ、輪郭がにじんでいた。
演奏が終わったのかどうか、わからないまま時間が過ぎた。
ユキコがぽつりと口にした。
「ナギちゃん、いま、なにか弾いた気がしなかった?」
ナギは自分の手を見た。
指先が、ほんの少し震えていた。
なにかに触れた記憶が、そこに残っていた。
「……うん、弾いた気がする。でも、なにをかはわかんない」
ユキコはその答えを聞いて、微笑んだ。
「それで、たぶんいいんだと思う」
スタンプ帳に、音符の形をした印が押されていた。
その印はにじんでいて、まるで風にゆれた音の残像みたいだった。
でも、確かにそこに「音楽があった」という証だった。
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