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教室に入る。一斉に僕に向けられる視線。けれど誰も話しかけてくることなんてなくて。
そんな中、一人だけ窓際の席で外を眺める女の子の姿があった。
楸さんである。
僕はちらりと楸さんの後ろ頭に目をやり、それから彼女の斜め後ろに位置する自分の席へ向かった。
鞄から教科書やノートを出して机の中に収め、右側面のフックに鞄を掛ける。
二時限目の授業は数学。僕の大の苦手な教科だった。
受ける前からすでにやる気を失っている僕は、けれど何とか形だけでも頑張っているふりをしようと机の上に教科書とノート、それからついでにペンケースを並べる。
チャイムよりやや遅れて教室に入ってくる前田先生を前に、日直の声によって号令がかけられる。
あとはいつもと同じ。つまらない授業の始まりだ。
僕は眠たい目をこすりつつ、何とか黒板に記された文字と数字を書き写していく。
けれど、どれもこれも全く以って意味が解らない。
先生の声も最早心地よい子守唄の如く、僕はうつらうつらと舟をこぎ始めた。
ダメだ、起きなきゃ。でも、眠い。頭がくらくらする。
先生が何を言っているのかわからない。理解以前に、それが言葉であるということそのものを脳が判断できていないような感覚だ。
もう、いいか――ちょっとくらい、寝ちゃっても――
僕が意識を手放そうとした、その時だった。
――ガタリッ
突然、斜め前の楸さんが、椅子から立ち上がったのである。
そのおかげだろうか、一瞬だけ僕を襲っていた睡魔がどこかへ飛び去っていったのだ。
楸さんは先ほどまでそうしていたように窓の外に顔を向けており、
「おい、どうした楸」
前田先生が声を掛ける。
クラスのほぼ全員の視線が楸さんに注がれる中、当の本人はゆっくりと前を向くと、
「――お腹が痛いので、保健室に行ってきます」
言うが早いか、先生の返事も待たずしてすたすたと教室から出ていった。
「……またか」
そんな前田先生の嘆息も慣れたもの。
まるで何事もなかったかのように、授業は再開されたのだった。
そして二時限目が終わっても、楸さんは教室には戻ってこなかった。
次に僕が楸さんを見かけたのは昼休み。パンを買いに向かった購買部でのことだった。
僕が購買のおばちゃんに焼きそばパンとあんぱんの代金を支払って教室に戻ろうと振り返ったところで、校舎裏に向かって歩く楸さんの姿があったのだ。
そしてもしそれだけの事だったならば、僕も今頃は気にせず教室に戻っていたことだろう。
だけどそうしなかったのは、そんな楸さんを取り囲むように歩く、三人の女の子の姿があったからだ。
そんな光景を見たのは初めての事だった。
楸さんはいつも一人だ。
高校に入学して以来、誰かと一緒に仲良くしているところなんて見たことがない。
いつも澄ましたような顔をしているか、そうでなければとても不機嫌そうな顔をしている。
まるでどこかに笑顔を忘れてきたんじゃないかと思うくらい、その表情は乏しかった。
そんな楸さんに、まさか一気に三人も友達ができていただなんて。
てっきり楸さんは僕と一緒で、友達なんていなくても平気な人なんだと思っていたのに。
そんな思いと同時に、けれど彼女らの表情がどこも楽しげではなく、むしろ殺伐とした様子なのに気が付いて、僕は何となく嫌な予感がした。
中学生だったころ、何となく所属していた吹奏楽部で起きた女子部員同士の大喧嘩。
女の子同士の殴り合いの喧嘩なんてのを目にしたのは、後にも先にもその時だけだった。
彼女らの雰囲気はまさにそれと似たような空気をまとっているようで。
何となく居ても立っても居られなくなった僕は、気づくと彼女たちのあとをこっそりつけて歩いていた。
楸さんを先頭にして四人の女子が校舎裏に消えていったのを確認して、僕はその角に身をひそめてこっそりと様子を窺った。
校舎裏はフェンスを隔てて向こう側が森になっていて全体的に薄暗く、大型ごみを一時的に置いておくスペースがあるだけで普段、人が近づくようなところではない。
そんなところで険しい顔をした女が四人。
……これは、さっさと先生を呼びに行った方が良いんだろうか。
などと考えているうちに、楸さんが三人の女子に取り囲まれて、何やら詰問されている。
それほど大きな声ではないのであまり聞き取れないのだけれど、どうやらあの三人のうちの誰かの彼氏が楸さんを好きになって別れ話があーだこーだ。
……だからって、なんで楸さんが責められてるわけ?
楸さんは眉を寄せながら黙って彼女らの言葉を聞いていたが、やがてその言葉が激しい罵倒や誹りに代わり、一言も喋らない楸さんに激高した一人が大きく手を振り上げたところで。
「――えっ」
不意に楸さんが右手を空にかざした瞬間、突風が巻き起こったかと思うや否や、三人の身体が一瞬宙に浮かび、そのまま地面に落下したのである。
楸さんに見下ろされる形で呻き声を上げる三人の女の子。
今のは、いったい、何が起きたんだ――?
僕も大きく目を見張り、楸さんの姿を凝視したところで、
「――あっ」
楸さんと視線が交わり、小さく声が漏れた。
ぎろりと睨みつけられて、僕は思わず身を翻す。
そしてそのまま、一目散に教室へと逃げ帰ったのだった。