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 築五十年を超える木造アパート「日の出荘」は、東京都の外れにひっそりと取り残されている。再開発からも忘れられたような路地の奥で、昼でも薄暗い。
 その二階の突き当たりに、住人共用のトイレがあった。


 廊下はいつも湿っている。雨が降っていなくても、どこからか水の匂いがする。トイレの前だけ、床板がわずかに沈むのを、私は最初に気づいた。


 引っ越してきた初日、管理人は言った。


「夜中の二時には、できるだけ使わないでくださいね」


 理由は教えてくれなかった。ただ、古いから配管が不安定で、と曖昧に笑った。


 最初の夜、私はその忠告を忘れた。


 午前二時ちょうど。目が覚めたのは、ぽた、ぽた、という水滴の音のせいだった。天井からではない。廊下の奥から聞こえる。


 時計を見ると二時。


 喉の渇きと尿意に負けて、私は部屋を出た。


 廊下は異様に冷えていた。真夏だというのに、息が白い。蛍光灯は一本だけ点滅し、トイレの引き戸の前で明滅を繰り返している。


 ――ぽた、ぽた。


 音は中からだ。


 引き戸に手をかけると、内側からわずかに押し返す力があった。


 誰かいる。


「すみません……」


 声をかけても返事はない。ただ、水音が続く。


 戸を少し開けると、電灯はついていなかった。真っ暗なはずなのに、奥の和式便器のあたりだけが、ぼんやり白い。


 月明かりではない。窓は曇りガラスだ。


 白いのは、水だった。


 便器から溢れた水が床一面に広がり、足元まで迫っている。なのに廊下は乾いたままだ。


 水面に、顔が映っていた。


 私ではない。


 長い髪が濡れ、頬がふやけ、口元だけがにやりと歪んだ女の顔。


 瞬きをした瞬間、顔は私の動きに遅れて瞬いた。


 背後で、引き戸がぴしゃりと閉まった。


 真っ暗闇。


 次の瞬間、電灯が勝手に点いた。


 水は消えていた。床は乾ききっている。和式便器は古びているが、溢れた形跡はない。


 ただ、便器の縁に、濡れた手形が一つ。


 小さく、子どものような手。


 それから毎晩、二時になると水音がした。


 住人に聞いても、誰も知らないと言う。ただ、一階の角部屋に住む老婆だけが、低い声で教えてくれた。


「昔ね、あそこで一人、溺れたのよ」


「トイレで?」


「水は少しでも、人は溺れるの」


 かつてこのアパートには、若い母親と幼い娘が住んでいた。母親は夜な夜な共用トイレにこもり、長い時間出てこなかったという。


 ある夜、娘が探しに行った。


 鍵はかかっていなかった。


 中には、便器から溢れるほどの水。


 そして、母親の姿はどこにもなかった。


 娘は泣きながら母を呼び、水に足を踏み入れた。


 翌朝、トイレは乾いていた。


 娘だけが、いなくなっていた。


 老婆は最後に言った。


「二時は、あの子が母親を探す時間なのよ」


 その夜、私は決意した。確かめよう、と。


 二時前からトイレの前に立つ。


 時計の針が重なる。


 ――ぽた、ぽた。


 今度ははっきり聞こえた。水音と一緒に、小さな声。


「おかあさん」


 戸が、内側からゆっくりと開く。


 暗闇の中、床いっぱいに水が広がり、その中央に小さな影が立っている。


 肩までの濡れた髪。青白い足。


 影は振り向いた。


 顔がない。


 ただ、黒い穴のような空洞から、水が溢れている。


「おかあさん、どこ?」


 その声は、今度は私の背後から聞こえた。


 振り向くと、廊下の奥に、あの女の顔が立っている。水面に映っていた、ふやけた顔。


 女は、にやりと笑った。


「見つけた」


 足首を冷たいものが掴む。


 いつの間にか、廊下も水で満ちている。


 逃げようとするほど、足は沈む。


 小さな手が、いくつも、いくつも、私の足を引く。


 最後に見たのは、天井の染みだった。


 それはゆっくりと広がり、やがて大きな水たまりの形になった。


 翌朝、日の出荘の二階の共用トイレは、いつも通り乾いていた。


 ただ、床板が一枚、新しく沈んでいた。


 管理人は何も言わず、張り紙を一枚増やした。


 ――午前二時の使用禁止。


 それでも夜になると、ぽた、ぽた、と水の音は止まらない。


 次に「母親」と呼ばれるのは、誰だろう。


世にも不気味な物語

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