テラーノベル
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玄関の扉を閉めるなり、一花は急いで鍵をかけた。
背中を扉に預けたまま、乱れた呼吸を整える。暗闇の中、電柱の陰からこちらを見つめていた男の姿が、まだ頭から離れなかった。
「一花?」
声に顔を上げると、リビングから俊介が出てきた。眠る前だったのか、手にはスマホを持っている。
一花の青ざめた顔を見るなり、俊介の表情が変わった。
「どうした?」
「外に……変な人がいて」
「変な人?」
「黒いフード被った男の人。電柱の陰に立って、ずっと私のこと見てたの」
俊介はすぐに玄関の方へ視線を向けた。
「何かされた?」
「ううん。声かけられたわけでもない。ただ……目が合ったら、笑ったの」
「笑った?」
「うん」
口にした途端、さっきまで抑えていた怖さが蘇り、一花は自分の腕を抱いた。
俊介は靴を履こうとする。
「ちょっと見てくる」
「待って」
一花は慌てて俊介の腕を掴んだ。
「もういないかもしれないし、危ないよ」
「でも――」
「本当に何もされてないから」
俊介は納得できない様子で玄関を見つめていたが、やがて小さく息を吐いて靴から足を離した。
「じゃあ今日はもう外出ないで。しばらく夜のゴミ出しも俺がやるから」
「そこまでしなくても……」
「何かあってからじゃ遅いだろ」
真剣な顔で言われ、一花は小さく頷いた。
「……分かった」
「もしまた見かけたら、すぐ俺に言って」
「うん」
いつもと変わらず自分を心配してくれる俊介を見ていると、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。
それでも、あの男の笑った口元だけは、いつまでも頭の奥にこびりついていた。
翌朝になっても、家の周りで不審な人物を見かけることはなかった。
一花は昨夜のことを気にしながらも、悠真の前では普段通りに振る舞った。
朝食を済ませると、俊介は一足先に仕事へ向かい、一花も身支度を整える。
春子に見送られながら悠真を保育園へ送り届け、そのまま一花も務め先のドラッグストアへ向かった。
俊介は借金を少しでも早く返すため、それまで以上に仕事を入れるようになり、残業も増えていた。
もともと細身の俊介は、力仕事が得意な方ではない。
それでも人一倍動くことで補ってきたが、休む間もなく働き続ければ、さすがに身体はついてこなくなる。
その日も重い資材を運んでいる途中で足元がふらつき、抱えていたものを床へ落としてしまった。
大きな音に、周囲の視線が一斉に集まる。
「おい桜井! またお前か!」
すぐさま先輩の怒鳴り声が飛んできた。
「お前、何年目だよ。いつまで経っても力ねぇな」
「……すみません」
俊介が落とした資材を拾おうとすると、別の作業員が面白がるように口を挟んだ。
「ほんと顔だけはいいんだけどなあ、お前」
「その顔なら、現場よりホストの方が向いてんじゃねえか?」
「違いねえ!」
周囲からどっと笑いが起こる。
俊介は何も言い返さず、黙々と資材を拾い上げた。
「嫁の実家に転がり込んでまで借金返してんだろ? だったらもっと気合い入れろよ」
「……すみません」
もう一度頭を下げる。
昔から、顔だけはよく褒められた。けれど、この場所ではそんなものは何の役にも立たない。
むしろ男ばかりの現場では、からかいの種になるだけだった。
俊介が片づけを終えた頃、現場の入口付近がにわかにざわついた。
一台の車が停まり、スーツ姿の男性たちに続いて、一人の女性が降りてくる。
作業着姿の男たちが行き交う現場には似つかわしくない、ひときわ洗練された女性だった。
身体の線を上品に見せるスカートスーツを隙なく着こなし、艶やかな髪は丁寧に整えられている。
整った目鼻立ちは目を引くほど美しく、華奢な手首には小ぶりながら上質そうな腕時計が光っていた。
彼女が歩くたび、現場の男たちの視線が自然とその姿を追っていく。
「おい、あれ西園寺グループの……」
「娘だろ? 西園寺牡丹」
「すげえ美人」
「俺らとは住む世界が違うな」
同僚たちが声を潜める。
西園寺牡丹。
この現場の開発にも関わる西園寺グループ、その一族の娘だった。
牡丹は責任者と言葉を交わしながら現場を確認していたが、帰り際、不意に作業員たちの方へ視線を向けた。
俊介を見つけると、そのまま迷うことなく歩いてくる。
「桜井さん」
「……西園寺さん」
背後で同僚たちが息を呑んだ気配がした。
「先日はありがとうございました」
「え?」
「急な確認に付き合っていただいたでしょう? あの時、最後まで案内してくださって」
「ああ……あれくらいなら」
「おかげで助かりました」
牡丹は柔らかく微笑む。
そのまま立ち去るのかと思った時、牡丹の視線が俊介の頬で止まった。
「動かないで」
「え?」
牡丹は白いハンカチを取り出すと、俊介の頬へそっと手を伸ばした。
「汚れ、ついてましたよ」
ハンカチを離した牡丹が微笑んだ。
「取れました」
「あ……すみません」
「では、お仕事頑張ってください」
牡丹はそれだけ言うと、何事もなかったように去っていった。
数秒の沈黙のあと、背後から一斉に声が上がる。
「おい桜井! 何だ今の!」
「お前、西園寺のお嬢様と知り合いなのかよ?」
「仕事でちょっと話しただけだって」
「ちょっと話しただけの男に、あんなことするかぁ普通?」
先ほどまで自分をからかっていた男たちが、今度は羨ましそうに俊介を囲んでいる。
俊介は面倒そうに追い払いながらも、悪い気はしなかった。
西園寺牡丹に声をかけられただけで、周囲の自分を見る目が変わる。
ついさっきまで笑われていた自分が、ほんの少しだけ特別な人間になったような、そんな気がした。
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きなこもち
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#サレ妻
都築七美
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コメント
1件
夜道の不気味さから始まって、俊介の職場での扱い、そして西園寺牡丹の登場——この落差が効いてますね。一花を心配する俊介の優しさは好印象ですが、現場で叩かれている描写があるからこそ、あの「特別な人間になった」感覚にすごく違和感が走りました。今のところ「いい人」にしか見えない牡丹の真意が、どう転ぶのか。既に緊張感が漂っていて続きが気になります。