変わり映えのない愛しい日常、特にこれと言って大きな出来事もない平和な毎日に、ある日突然、恋の魔法がかけられた。
これは、平凡な俺と、儚い君の物語。
すっかり日が落ち、歩く人もまばらになった駅の改札を出る。
ICカードをかざすと無機質な電子音がピピっと鳴った。
仕事終わりの程よい疲労感を湛えながら、自宅近くのスーパーへ入る。
自動ドアを潜り、青果コーナーから順番に見てまわり、必要なものだけを腕に提げたカゴへ入れていく。
冷凍しておきたい肉や魚を一人分だけ、無くなりそうな調味料の詰め替えタイプの袋を一つ、備蓄にもってこいなツナ缶と即席のおかずの素を三種類。
「洗剤とティッシュはまだあったよな…?」と、自宅の収納スペースの状態を思い起こしながら、俺の足は生物から乾物のブース、そしておやつコーナーのあたりまで、順調に進んでいく。
調理器具コーナーの裏手にあるペット用食品の前で足を止めて、目を惹くような新商品は無いかと物色する。
一週間に一度は必ずこのスーパーに足を運ぶこともあってか、今日はそこまで目新しいものもなく、結局いつもどりのものを一袋カゴに入れた。
細身のパウチに入ったペースト状のそれは、この世の大多数の猫を虜にするご馳走である。
俺の家族である愛猫たちもまた、その赤いパッケージを見るとすかさず後を追ってくる程には夢中なのだ。
職業柄あげすぎてはいけないことは重々承知しているが、美味しそうに食べてくれるのが嬉しくて、ついパウチの封を切ってしまうことはしばしばだった。
スマホにメモしておいた買い物リストのアイテムが一通り揃ったことを確かめてから、レジに向かった。
等間隔に置かれた商品棚の間を通り、少し離れたところにある¥マークのプレートを目指す。
麦茶や日本茶が陳列された通路を横切りながら、背中に預けていたショルダーバッグを胸元まで持ってきては財布を取り出そうと、その中をまさぐっていると、不意にどこからか声が聞こえてきた。
その声音は小さくもすんと透き通っていて、俺の耳までしっかりと届いた。
その音の先を振り返って見るも、そこには様々な種類のお茶っ葉のラベルが規則正しく並んでいるだけだった。
確かに声は聞こえたが、姿が見えないのであれば、きっと空耳だったのだろうと早々に思考を切り替えて、もう一度財布を探した。
奥底まで沈んでいた小さめの二つ折り財布をやっと見つけたところで、もう一度歩みを進めようとすると、先ほどと同じ綺麗な声が、どこからかまた聞こえてきた。
「お兄さん、美味しいお茶はいかがですか?」
やはり空耳ではなかった。
俺は今、姿の見えない声を確かにこの耳に感じ取っている。
しかし、誰が話しかけてくれているのかが分からない。
俺は閉店間際の誰もいないスーパーの中で、キョロキョロとあたりを見回した。
「ここですよ〜」
俺を自分がいるところまで誘い出すようかのに、その声は俺に向かって何度も投げ掛けられる。
断続的な誘導により、段々とその声が、目の前の陳列棚から発せられていることが分かってきた。
商品に鼻が付きそうな程に顔を近づけて、その正体を探す。
側から見れば、真剣にお茶を選んでいるように見えるだろう。
しかし、どんなに真面目な人でも、これほど至近距離でパッケージと睨めっこをする人はいないと思われる。
きっと、今の俺の姿は大分滑稽に見えるだろうなと俯瞰しつつも、腰は曲げたまま眼球の奥に力を入れた。
端から順に、棚の奥の奥まで目を凝らして、声の主を探す。
麦茶と緑茶の並びを通過して、外国で作られたのであろう独特な文字の前を横切り、俺の鼻が紅茶の列まで到達した時、現実ではありえない「何か」を目の当たりにした。
俺はあまりの衝撃に後ろに飛び退き、思い切りよく尻餅をついた。
「ぅわぁああぁぁ!?ッてぇ!!」
健康的で鮮やかな色をした黄色い袋の後ろから、「何か」がひょこっと姿を現したのだ。
それは俺の人差し指くらいの大きさしかないが、紛れもなく人間の姿形をしていた。
夢でも見ているのだろうか。
何度も目を擦って幻と現実の区別をつけようとしたが、その小人はいつまで経っても俺の視界から消えることはなかったし、途切れることなく俺に話しかけ続けてきていた。
「お兄さん大丈夫ですか?」
「ぇ…ぁ……ぁ…んな…っ…」
「あれれ…おーい、ねぇ、聞いてますか?」
「なっ、き、っぇ、だれ!?」
面白いほどに情けない声が出た。
人生でこんなに驚いたのは、今日が初めてだったと一寸の曇りもなくそう言える。
どうにか絞り出した質問に、その小人は嬉々とした様子で答えてくれた。
「俺は紅茶の妖精です」
「妖精…?」
「この黄色いお家で生まれました」
「この紅茶から?」
「そうです!」
「そ、そうなんだ…」
「紅茶の妖精」は簡単な自己紹介を済ませ、とりあえずで納得したような俺の態度を見ると満足したのか、誇らしげな顔をして見せた。
そんなキラキラとした喜びに満ちた目で見つめてもらっている中で大変申し訳ないが、俺は未だに全くといっていい程、この状況を飲み込めていなかった。
困惑と驚きから早くなる心拍数を感じながら、依然落ち着かない頭をどうにか鎮めるために、俺はその妖精ともう少し会話を続けてみることにした。
「今までずっとここにいたの?」
「はい、ちょうど一週間前にここに来ました。ぎゅうぎゅうの段ボールの中はとても息苦しかったです」
「段ボール知ってるんだ。生まれたばっかりなのに」
「ここまで俺を運んでくれたトラックの中に住んでいるホコリさんが、色々なことを教えてくれました」
「…へぇ、ホコリって喋れんだね」
「お兄さんには聞こえないかもしれないですね。人には聞こえない声だって、俺には聞こえますから」
「すごいね」
「へへんっ!」
「それより、こんなとこで何してんの?」
「俺を拾ってくれる人を探しています」
「へぇ〜、見つかるといいね」
「もう見つけました!」
「お、よかったじゃん。その人は今どこにいんの?」
「今、俺の目の前にいます」
「んにゃ?」
「俺を拾って大切にしてくれる人はお兄さんしかいない!そう確信しています!」
「え、俺?」
「お兄さん、俺…お兄さんに拾われちゃダメですか…?」
「うっ…」
妖精の目はうるうると潤んでいた。
しかし、その瞳の奥には、了承するまで諦めないぞ、という強い意志が明らかに見て取れた。
遠慮するような言い回しの割には強情そうなその眼差しと、わざとらしい程の愛らしさに、俺は即座に根負けしてしまった。
「拾うって、、俺、どうしたらいいの…」
「この紅茶をお買い上げいただくだけです!」
「これ?」
それは今しがた、その妖精の姿を隠していた黄色いパッケージの紅茶だった。
金額としてはそこまで高いものではなかったので、買うのは全く構わなかったが、一つだけ問題があった。
「ねぇ、買うのはいんだけどさ、俺、紅茶苦手なんだよね…」
そう、俺ーー佐久間さんは、お茶系の飲み物が苦手なのである。
買っても飲むことはないだろうから、それはなんだか勿体無いというか、手に取ったくせに手を付けないのは、なんだか作ってくれた人に申し訳ないので、俺は自然とためらった。
ところが、そんな俺の心配事を聞いても、妖精はにんまりとしたドヤ顔を崩さなかった。
「ご安心ください!俺がついてます!」
「ついてるって言ったって、本当に苦手だから飲めないんだよ…」
「むー…お兄さんちょっと手を出してくれますか?」
「ん?」
妖精はその小さな手で手招きをして俺を引き寄せると、手を差し出すよう促した。
言われるがままに手を彼の方へ寄せると、妖精は陳列棚から飛び降り、腕の上を駆けたあと、俺の服を掴んで上へ上へとよじ登り始めた。
「んしょ、ょいしょ…っ」と聞こえてくる小さな吐息に少し心苦しくなって、身に纏っていた服を摘んで肩の上に乗せてあげた。
妖精は、「ありがとうございます!」と溌剌に礼を述べた後、俺の耳元まで近づいて優しく囁いた。
「俺が全部教えてあげる…おいしい紅茶の淹れ方、だから……ね…?」
透き通った声が俺の耳をくすぐる。
刹那、頭がグラついた。
やけに艶めかしいその音色に唆され、何かに操られているかのように、俺は徐にその黄色いパッケージを手に取り、歩き出していた。
ぼんやりとした意識の中で、会計を済ませたことだけは覚えている。
次に頭がはっきりとした時、俺はスーパーの出口のそばにある駐輪場の前に突っ立っていた。
今しがた買ったばかりの食糧が入ったエコバッグの中には、しっかりとあの紅茶が入っていた。
「あれ、、俺…いつの間に買い物終わらせたんだろ…あれ?妖精は…?」
「ここにいますよ?」
「ぅお!?」
呆然としているうちにはぐれてしまったかと思ったが、妖精はいつの間に入ったのか、俺が羽織っていた薄手のシャツについている胸ポケットの中から顔を出した。
「さぁ、もう夜も遅いですし、お家に帰りましょう」
「う、うん…」
当初予定していた帰宅時間を大幅に過ぎてしまったのは君のせいでもあるんだけどなぁ…と思っても、直接本人へは言えない俺であった。
築年数はそこそこでも、広くてゆったりとした間取りになっているアパートの階段を上がり、鍵を開けて中に入った。
靴箱の近くに備え付けられている電気のスイッチを押して部屋を明るくさせると、トテトテとした足取りで、二匹の愛猫が俺を出迎えにきてくれた。
「つな〜、しゃち〜、ただいまぁ〜」
そう声を掛けて、帰りたて一発目のスキンシップを図ろうとしたが、彼らは俺に近寄ることもせず、またプイッと踵を返してリビングの方へ戻って行った。
「だよね〜」
と言いながら靴を脱ぐのが、俺たちの日常である。
彼らのその行動は、俺の職業に起因する。
普段俺は、猫カフェで働いているのだが、彼らは他の猫の匂いをとても嫌がるのだ。
彼らを家族として迎え入れてから一ヶ月が経つまでは、本当に大変だった。
玄関に入るなり、その抜群の嗅覚で、すぐに自分たち以外の匂いを嗅ぎ付けたのだろう。
靴も脱げないまま立ち往生する俺と、リビングへと続いている廊下のど真ん中で通せんぼをしながらフーフーと息を荒げる愛猫たちとの攻防戦が、日々繰り広げられていた。
今ではすっかり慣れてくれたのか、はたまた諦めたのか、俺が帰ってくると玄関先まで出てきてはすぐにリビングへ引き返し、俺がお風呂に入るまでは一切近づかないという形で妥協してくれたらしかった。
いつも通りソファーの上にショルダーバッグを置いて、脱衣所へ向かう。
洗濯カゴの中へ靴下を放り投げて、ふと思い出す。
「ねぇ、今からお風呂入るんだけど、君はどうする?」
ポケットの中で静かにしていた妖精に声を掛けたが、返事は無かった。
指で布の端を広げて覗き込むと、妖精はその中で小さい体を更に小さく丸めて眠っていた。
起こすのも悪いかと思い、ぽっかりとした穴が空いている洗濯機の蓋を閉めて、その上にゆっくりとした動作で脱いだシャツを、そーっと置いた。
暖かい気候なので、風邪を引くことは無いだろう。
全身をくまなく洗い、ふぅと一息ついてからシャワーのお湯を止めた。
顔に付いた水滴を両手で拭い、前髪を掻き上げていると、脱衣所の方から小さな悲鳴が聞こえてきた。
即座に風呂場のスライドドアを開け放ち、何事かと様子を確かめると、洗濯機の上に乗ったツナが、ビクッと体を硬直させてから、こちらを凝視していた。
ツナのそばには俺が先ほど脱いだシャツがあったが、そのわずかに膨らんだ部分がカタカタと震えているのが見えて、俺は納得した。
「ごめんごめん!この子達には見えないかと思ってた!」
弁解の旨を述べると、俺の声がしたことに安心してくれたのか、妖精は少しずつその姿とぐちゃぐちゃの泣き顔を見せてくれた。
「食べられちゃうかと思いましたぁ〜…ッ!」
「ホントにごめんね、もう大丈夫だから」
「彼、俺を見て「うまそう」って言ったんですっ!」
「え、マジ?この子達の思ってることわかるの!?」
「ホコリさんもですが、この世の全てには気持ちがあります。彼もまた、気持ちを持っています…っひっく…」
「そ、そっか…、ごめんね、ごめんね、もう大丈夫だよ」
余程怖かったのだろう。
まぁ、自分の体より何倍も大きい生き物に、起き抜けに「うまそう」と言われれば無理もないだろう。
しゃくりあげる息を落ち着かせてあげたくて、何度も謝りながらその背中を指で撫でた。
妖精を宥めながら、ツナと後からここへやってきたシャチに声を掛けた。
「この子は食べちゃダメだからな〜、妖精だぞ〜」
「ぅみゃー」
「にゃー」
「伝わったかな」
「ひぐっ…、「わかった」って言ってます」
「ホント!?よかったぁ…」
「ありがとうございます。俺はもう大丈夫なので、その…早く服着てください…っ」
「え。…あっ!ごめん!」
俺はもう一度妖精を洗濯機の上に置いてから、急いでバスタオルで体を拭き、部屋着にしている着古したTシャツに袖を通した。
俺が着替えている間、じっと見られていることに怯えつつも、妖精は意を決してツナの頬を撫でていた。
案外悪い気はしなかったのか、ツナはそれを甘受してはゴロゴロと喉を鳴らしていた。
「さて、夜ご飯も済ませたことですし、食後の紅茶なんていかがでしょう?」
簡単な晩ごはんを食べて皿洗いまで終わらせると、妖精は俺にそう言った。
苦手意識はそうそう拭い切れるものではなく、俺は苦い顔をしながら妖精と目を合わせた。
「紅茶って、渋いんだもん…」
「まぁまぁ、騙されたと思って」
「うーん…わかったよ…」
「じゃあ、まずはお湯を沸かします。しっかりと沸騰させてください」
「…このくらい?」
「はいっ!そのくらいです。次は、カップにお湯を注いで一分待ってください」
「へ?なんで?」
「カップを温めるんです。こうすると、風味と香りが引き立ちますし、最後まで温かい紅茶を楽しむことができますよ」
「ふーん」
「…一分経ちましたね。ではそのお湯は捨てて、もう一度新しいものを注いでください」
「はーい」
「次はお待ちかねのティーバッグです。ちゃんと三角形の形を整えてから、入れることが大切です」
「こう?」
「はい、お上手です」
「最後に蓋をして、一分待ったら出来上がりです」
妖精の教え通りに紅茶を淹れてみると、蓋が閉まっているのに、もう既に葉っぱの香りがこちらまで漂ってきていた。
少しだけ飲んでみるのが楽しみになってきたところで、一分が経過した。
蓋を外すと、先程よりも濃くて深い香りで部屋中が満たされたように感じた。
「紅茶は渋くてお嫌いと言ってましたね」
「うん」
「では、まずはそのまま飲んでみてください」
「え“っ」
「さぁどうぞ!」
「う“ー…」
「渋いから苦手だ」と伝えているのに、そのまま飲んでみろ、なんて言う妖精の意図が分からず、俺は大きく身構えた。
砂糖もミルクも入っていない状態でなんて、苦くて、口の中がイガイガしそうで、想像しただけで飲めなさそうだったが、言われるがまま、恐る恐る口を付けてみた。
赤茶色くテラテラと光った飲み物は、やはり独特のえぐみと渋さがあって、彼に申し訳なく思いつつも、俺は正直に顔を歪めた。
妖精は俺の顔を覗き込みながら、楽しそうに微笑んだ。
「ふふっ、苦いですか?」
「ぅ“ん…にがぃ…」
「では、今度はお砂糖をスプーン一杯だけ入れて飲んでみてください」
「うん…」
先程感じた苦味が、小さなスプーン一杯の砂糖でどうにかなるとは思えなかったが、親切心に水を刺すのも悪い気がしたので、意義は唱えず、素直にそれに従った。
湿気で固まってしまっていた小さめの塊を含んださらさらの甘粒をマグカップの中に落とし入れ 、それを掬ったスプーンでそのままくるくると五周ほどかき混ぜた。
もう一度カップを傾けて、僅かばかりの紅茶を啜った瞬間、俺は目を見開いた。
「…っ!」
「んふふっ、どうですか?」
「…おいしい…」
「よかったぁ」
まるで魔法にかけられたみたいだった。
一番最初にストレートで飲んだからか、砂糖を入れた後に感じたその甘さが、舌に心地よく馴染んだ。
砂糖だけでなく、茶葉の香りもどことなく甘く感じられて、あんなに渋みと苦さを嫌っていたのが嘘のように、今俺は、するするとその深いガーネット色の紅茶を自ずから口に運んでいた。
妖精は俺の反応を見て、嬉しそうに微笑んだ。
「お茶をおいしいって思ったの、初めてかも」
「ふふ、何事もやり方次第、考え方と捉え方次第、ですよ」
「そうかもね。ありがと」
「いえいえ、拾っていただいたお礼です」
「そういえばだけど、君、名前は?」
「うーん、紅茶の妖精として生まれたので、それ以外に呼び名はなさそうです」
「そっかぁ、「妖精くん」ってのも味気ないしな…」
彼にはどうやら名前が無いようだった。
何か呼び名があれば、もっと親しくなれるかもしれないと思い、俺は勝手ながら妖精に名前をつけることにした。
「紅茶…お茶…妖精…砂糖…」とブツブツ呟きながら考えてみるも、良いフレーズは浮かばない。
どこかにキーワードは転がっていないかとあたりを見回すと、先程小さなテーブルの上に置いた、あの黄色いパッケージが目に留まった。
アルファベットの「L」に挟まれたその文字を見て、俺は即座にピンときた。
「…あべ」
「?」
「君の名前、あべちゃん、なんてどう?」
「あべちゃん…?」
「うん、なんかいいかも!ほら、ここに書いてあんの!」
「!俺の名前!ありがとうございます!」
「にゃははっ、これからよろしくね、あべちゃん」
「あべちゃん」と呼ぶたびに、その妖精は、テーブルの上でぴょんぴょんと飛び跳ねては、花が咲いたような笑顔を見せてくれた。
コメント
12件
妖精あべちゃん可愛いーー!💚💚💚
お店に行って紅茶の前で妖精さんを探してもいいですか?いませんかね〜😅私も連れて帰りたいです🤣
ほんわかほっこり〜💚 可愛いお話ありがとうございます😊