テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
夜明け。薄い光が差し込んでくる。
帝辛は、政務の間にいた。――執務、というほどのことは、何も進んでいない。
卓の上は整っている。整えた、という事実だけが残っている。
竹簡の束が、わずかに乱れていた。指先で直す。直したはずなのに、また目がそこへ戻る。
茶がある。湯気はもうない。手を伸ばさない。
胸の奥が、落ち着かない。王太子としての呼吸は、いつもなら、もっと深い。今日は浅い。浅いのに、気づいてしまう。
(清朗が発つ)
それだけで、室内の空気が重くなる。
「会わない」そう決めた。だが、その言葉はあまりにも頼りなかった。口にしたそばから、ほどけてしまいそうだった。
足音が近づく。扉の外で止まる気配。
叩く音。控えめで、慎重で。
「殿下、縫季です」
「入れ」
冷たい声が出た。冷たくしなければならないと、自分に言い聞かせた声だ。
扉が開く。縫季が入ってくる。
帝辛は立っていた。座れなかった。立っていれば、まだ形が保てる。
縫季は一歩踏み込んで、止まった。いつも、距離を測る。測って、踏み越える。
帝辛は縫季を見た。視線が刺さる。刺すのは怒りではない。怒りなら、簡単だ。
これは違う。腹の底の、嫌な恐怖だ。
「縫季」
「はい」
「一人で動くな、と言ったはずだ」
縫季は視線を下げる。
「……申し訳ありません」
「謝罪を聞きたいのではない」
帝辛は一歩近づいた。近づく理由を、自分に説明できない。ただ、近づかなければならない気がした。
「なぜ、守らなかった」
縫季の喉が鳴った。ほんの小さな音。
「殿下を、巻き込みたくありませんでした」
「巻き込む?」
「医官府の裏手です。黒闢の影が見えていました。殿下の名が残れば、知られます」
理屈は分かる。分かるのに、胸は落ち着かない。
「それは、私が決める」
言葉が先に出た。
「お前が、勝手に決めることではない」
縫季の肩が、ほんの僅かに硬くなる。それを見て、胸の奥が痛む。
痛むのに、止められない。
「次は必ず、連れて行け」
「一人で動くな」
「約束しろ」
命令の形にして、ようやく言えた。
縫季は唇を噛んだ。
「……約束します」
声が掠れている。掠れを聞いた瞬間、帝辛の胸が痛む。
帝辛は一歩下がった。距離を戻す。距離が戻ると、少しだけ息が――
廊下が、騒いだ。
「お待ちください」「清朗殿、お体が」
複数の声。押さえようとしている声だ。
帝辛の目が扉へ向く。
「放せ」
低い声。聞き覚えがある。
縫季の体が、わずかに固まった。
扉が、内側から叩かれる。一度。二度。叩くというより、ぶつかる音だ。
そして、開いた。
清朗が立っていた。
背後に、侍従が二人。止めようとした手が、まだ清朗の袖にかかっている。
清朗はその手を振り払った。振り払う動作が、わずかによろめいた。
顔色が悪い。額に汗が滲んでいる。左手で扉の框を掴んでいる。
帝辛が、侍従へ目を向けた。
侍従たちが頭を下げて、廊下へ引く。
扉が閉まる。
清朗は、まず帝辛を見た。
それだけだった。それだけで、清朗の顔が少しだけ緩んだ。
会いたかった。それだけで来た。その顔だった。
「清朗、体が――」
帝辛が一歩踏み出そうとする。
縫季が、先に動いた。
帝辛と清朗の間に、一歩入る。止める動作ではない。ただ、間に立った。
それだけだった。
清朗の目が、縫季を見た。
帝辛へ向かおうとした足が、止まる。
縫季は何も言わない。表情もない。ただ、そこに立っている。
帝辛は、その二人を見ていた。
清朗の顔から、緩みが消えていく。ゆっくりと。取り戻せない速さで。
清朗が、口を開いた。
「……あんなやつを使ってまで」
縫季に向けた声だった。
「俺を、遠ざけたかったのか」
縫季は動かない。
「子嘉だ」
帝辛の動きが止まった。
「宗正府少卿、子嘉」
清朗は縫季から目を離さない。
「……あの男だ」
声が低くなる。
「血で人を測る男だ」
「殿下が、一番嫌うやり方だ」
一瞬、言葉が詰まる。
それでも続けた。
「殿下の名では通せない」
「だから」
「あの男を使ったんだろ」
言葉が止まらない。
止めようとした形跡が、声の端にある。
それでも、出た。
出てしまった。
縫季は、清朗を見ていた。
何も言わない。
だが、一瞬だけ。
目を伏せた。
清朗の呼吸が乱れた。何かが崩れた顔だった。
帝辛はそれを見ていた。
「……お前は」
コメント
1件
第35話、めっちゃ重くて苦しくて、でもすごく良かった……!!😭💔 帝辛が「会わない」と決めたのに、清朗が無理して来ちゃうところ、もう切なすぎる。縫季が間に立った一瞬の沈黙と、清朗が「血で人を測る男だ」って言い放った時の空気、読んでるこっちの心臓がギュッてなったよ…。三人の間に流れる見えない距離感が、ただの会話なのに胸に刺さる。次が気になって仕方ない!!😣🔥
#BL
#ヒューマンドラマ
Hp2
409