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第一章 四話
「……何者なのですか、あの少女は」
ジルフェールの問いに、答える者はいなかった。
ただ、レグニスだけが、静かに森の奥を見ていた。
銀白の髪を揺らし、木々の影に溶けるように消えていった少女。
ミラ。
そう名乗った少女の姿は、もう見えない。
それでもレグニスは、しばらく森の奥から視線を外さなかった。
「閣下」
ジルフェールが声を掛ける。
「追わなくてよろしいのですか」
「必要ない」
返答は短かった。
いつものレグニスらしい、低く落ち着いた声だった。
だが、ジルフェールには分かる。
主君は、あのミラという少女を気にしている。
理由は分からない。
だが、ただの興味ではない。
戦力としての関心でも、危険人物への警戒でもない。
もっと別の、深い場所に触れられたような反応だった。
「……承知いたしました」
ジルフェールはそれ以上問わなかった。
問うべきではない。
そう判断した。
レグニスは森の奥を見つめたまま、わずかに目を細める。
声も違う。
髪の色も違う。
顔など、見たはずもない。
それなのに。
なぜ、似ていると思ったのか。
胸の奥で、古い記憶がかすかに疼く。
森。
血の匂い。
仮面の少女。
その全てがぼんやりとした姿。
ハッキリさせようとする程、亀裂が走ったような頭痛が酷くなる。
思い出せない。
確証などない。
けれど、記憶と呼ぶには曖昧なそれが、胸の奥に残っている。
あの時交わした。
約束……それだけが唯一この出来事を確信させる記憶。
――必ず、果たす。
その言葉だけが、消えずに残っている。
「行くぞ」
レグニスは短く告げた。
「はい」
ジルフェールは頭を下げる。
馬車は再び、ゆっくりと進み始めた。
木々の影が薄れ、森の奥に広がっていた白い石壁が近づいてくる。
高い鉄柵の向こうには、整えられた庭園が見えた。
ウルスブルク公爵家。
王国でも有数の名門貴族。
その屋敷は、急な来訪にもかかわらず、威厳を失ってはいなかった。
だが、近づくにつれ、ジルフェールはわずかな違和感を覚える。
門番の動きが、少しだけ慌ただしい。
使用人たちの並びも整ってはいるが、どこか急ごしらえの気配がある。
礼を欠くほどではない。
だが、完璧とも言い難い。
おそらく、書状が届いてから大公本人が訪れるまでの時間が、あまりにも短かったのだろう。
ジルフェールは内心で小さく息を吐いた。
こちらにも非はある。
主君が時間を惜しんだ結果だ。
馬車が屋敷の前で止まる。
扉が開かれ、レグニスが降り立った。
それに続き、ジルフェールも外へ出る。
屋敷の正面には、すでにウルスブルク公爵夫妻が並んでいた。
厳格そうな体躯の男。
当主、ガルド・ウルスブルク。
その隣に立つのは、柔らかな雰囲気をまとった女性。
レーシア・ウルスブルク。
二人とも、急な来訪に対して礼を尽くす姿勢を崩していない。
「レグニス閣下」
ガルドが深く頭を下げる。
「遠路はるばる、よくお越しくださいました」
「突然の訪問になった。詫びる」
レグニスは静かに返した。
「こちらの都合で急がせた」
「いえ。閣下をお迎えできること、ウルスブルク家として光栄に存じます」
ガルドの声は落ち着いていた。
だが、隣のレーシアは、ほんの一瞬だけ屋敷の方へ視線を向けた。
誰かを待っている。
ジルフェールはそう察した。
そして、その答えはすぐに現れた。
屋敷の扉が開く。
そこから、一人の少女が姿を見せた。
金の髪。
白を基調とした上品なドレス。
歩く姿は静かで、乱れがない。
少女は両親の隣まで進むと、レグニスの前で美しく一礼した。
「初めまして、レグニス・フォン・オルセンブルグ様」
柔らかな声だった。
「アリシア・ウルスブルクと申します」
ジルフェールは、自然と背筋を正した。
これが、公爵家の次女。
アリシア・ウルスブルク。
噂には聞いていた。
社交の場に姿を見せることが少なく、その人となりを詳しく知る者は多くない令嬢。
ジルフェールが知っているのも、せいぜいその程度だった。
だが、目の前の少女は、その噂とは少し違って見えた。
礼儀作法に乱れはない。
声色も穏やかで、表情も柔らかい。
少なくとも、公爵令嬢としての振る舞いに不足はない。
ただ。
完璧すぎる。
ジルフェールは、そう感じた。
まるで、よく磨かれた人形のようだった。
レグニスはアリシアを見つめる。
「レグニス・フォン・オルセンブルグだ」
短い名乗り。
それでもアリシアは、静かに頭を下げた。
「本日は、森を抜けてお越しになられたと伺いました。道中は大変だったのではありませんか」
「問題ない」
「お怪我は?」
「ない」
「それは何よりです」
アリシアは穏やかに微笑む。
そして、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
「……膝も?」
「膝?」
レグニスがわずかに眉を動かす。
ジルフェールも、一瞬だけ反応した。
膝。
なぜ、膝なのか。
アリシアは何事もなかったかのように、ゆっくりと瞬きをした。
「長旅で、お疲れではないかと思いまして」
「……そうか」
戸惑った様子で呟く。
「はい」
アリシアは静かに微笑んだ。
ジルフェールは、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
だが、すぐに考えを改める。
ただの気遣いだろう。
森での出来事の直後だから、自分が過敏になっているだけだ。
何より、目の前の令嬢と、先ほどの銀白の冒険者はあまりにも違いすぎる。
髪も違う。
声も違う。
服装も違う。
立ち振る舞いも違う。
同一人物などと考える方がどうかしている。
「では、中へ」
ガルドが促す。
「詳しいお話は、応接室にて伺いましょう」
一行は屋敷の中へ案内された。
応接室には、急ごしらえとは思えぬほど整えられた茶器が並んでいた。
もっとも、ジルフェールの目には、使用人たちの努力の跡が見える。
花の位置がわずかに不自然。
椅子の配置がいつもより急いだもの。
茶葉は良いが、選ぶ時間はなかったらしい。
それでも、礼を失するほどではない。
ウルスブルク家の格を見せるには十分だった。
席に着くと、しばらく形式的な挨拶が続いた。
ガルドは厳格に、レーシアは穏やかに受け答えをする。
アリシアは両親の隣に座り、必要な時だけ静かに言葉を添えた。
ほとんど隙がない。
だが、ジルフェールはやはり違和感を覚えていた。
遅いのではない。
早すぎるのでもない。
ただ、時折、アリシアの反応には小さな間がある。
普通の令嬢なら感情で返す場面で、一度、何かを選んでいるような間。
それでも返ってくる言葉は正しい。
だからこそ、不思議だった。
「本題に入ろう」
レグニスが静かに告げた。
場の空気が、わずかに引き締まる。
「今回の婚約の件、こちらとしては前向きに進めたいと考えている」
アリシアは表情を変えなかった。
ガルドは深く頷く。
「ウルスブルク家としても、閣下との縁を賜れることは大きな意味を持ちます」
「無論、急かすつもりはない」
レグニスはアリシアを見る。
「だが、王都へ来てもらうことになる」
「王都、ですか」
アリシアが静かに繰り返した。
「詳しい日取りは、追って書状を出す。移動の馬車もこちらで用意しよう」
「承知いたしました」
アリシアは美しく一礼した。
礼儀作法に乱れはない。
声も、表情も、申し分ない。
だが、ジルフェールにはなぜか、その返答がほんの少し遅れたように感じられた。
まるで、王都へ行くことそのものより、別の何かを考えていたような間だった。
だが、顔には出さなかった。
「ご配慮、感謝いたします」
アリシアは静かに言った。
レーシアは、そんな娘を横目に見て、少しだけ微笑む。
その微笑みには、安堵と不安が同じだけ混じっていた。
会談は大きな波乱もなく進んだ。
形式上の確認。
今後の書状のやり取り。
王都での滞在準備。
学園の名こそまだ出なかったが、その先にあるものを、ジルフェールは理解していた。
アリシア・ウルスブルクは、近いうちに王都へ来る。
それは婚約のためだけではない。
王都の貴族社会に、彼女を立たせるためでもある。
そしておそらく、王立学園もその一つになる。
一通りの話が終わる頃には、屋敷の外に傾きかけた日差しが差し込んでいた。
レグニスは立ち上がる。
「今日はここまでにしよう」
「もうお帰りに?」
レーシアが問いかける。
「準備もある。長居はしない」
「左様でございますか」
ガルドが頭を下げる。
「では、正式なご返答は追って」
レグニスは短く頷いた。
アリシアも席を立ち、静かに一礼する。
「本日は、お越しいただきありがとうございました」
「こちらこそ、急な訪問に応じてもらった」
「いえ」
アリシアは微笑んだ。
「膝もご無事で何よりです」
一瞬、空気が止まった。
ジルフェールは目だけを動かしてアリシアを見る。
レグニスもまた、わずかに言葉を失った。
アリシアは、すぐに首を傾げる。
「……失礼いたしました。長旅のお疲れを心配したつもりでした」
「そうか」
レグニスは短く答えた。
「問題ない」
「それは、何よりです」
アリシアは何事もなかったかのように頭を下げた。
ジルフェールは思った。
この令嬢も、少し妙だ。
ただし、先ほどの少女とは別の意味で。
その後、レグニス一行はウルスブルク家を後にした。
屋敷の門が閉じる。
馬車の音が遠ざかる。
それを見届けると、アリシアはゆっくりと踵を返した。
表情は変わらない。
だが、その歩みは少しだけ早かった。
屋敷の奥。
人気のない廊下を曲がった先で、一人の侍女が待っていた。
栗色の髪をきっちりとまとめた、真面目そうな若い侍女。
リーネだった。
彼女はアリシアを見るなり、深く息を吸った。
「お嬢様」
「なに」
「先ほどは、どちらへ行っていらしたのですか」
「森」
「またですか」
「うん」
リーネは額を押さえた。
「危険な依頼ではないと、以前おっしゃっていましたよね」
「依頼ではない」
「では、何をなさっていたのですか」
「魔物を斬ってた」
「依頼より悪いです」
リーネの声が低くなる。
アリシアは少しだけ首を傾げた。
「でも、少しスーッとした」
「そのご説明で私が安心するとお思いですか」
「しないと思う」
「では、なぜおっしゃったのですか」
「聞かれたから」
リーネは黙った。
数秒ほど、沈黙が落ちる。
それから、彼女は気を取り直すように咳払いをした。
「それで、森からお戻りになった時、ずいぶん急いでいらっしゃいましたね」
「うん」
「何かありましたか」
「途中で、人を護衛した」
「人を?」
「偉い人」
「……偉い人?」
リーネの声が、わずかに硬くなる。
「たぶん、かなり偉い人」
リーネの眉がぴくりと動いた。
「……まさか、先ほどお越しになったオルセンブルグ大公閣下ではありませんよね」
「そう、大公だった」
「お嬢様」
リーネの声が、一段低くなった。
アリシアは瞬きをする。
「なに」
「最初から、順に、詳しく、ご説明ください」
「長くなる」
「長くしてください」
「逃げ道がない」
「逃げるおつもりだったのですか」
どこかで聞いたような言葉だった。
アリシアは少し考える。
そして、ぽつりと言った。
「膝が辛そうだった」
「膝?」
「片膝をついていたから」
「なぜですか」
「分からない」
「お嬢様」
アリシアは顔を背ける。
「本当に、最初からお願いします」
リーネは深く頭を抱えた。
アリシアはその様子を見て、ほんの少しだけ考える。
怒っている。
でも、いつものことだ。
だからアリシアは、淡々と説明を始めた。
森で魔物を斬っていたこと。
魔物が増えたこと。
たぶん自分にも原因があったこと。
惚れられたような気がすること。
偉い人が片膝をついていたこと。
その姿勢が辛そうだったこと。
護衛を頼まれたこと。
ウルスブルク家の近くまで案内したこと。
用事を思い出して、森に戻ったこと。
話が進むたびに、リーネの顔色は少しずつ変わっていった。
最後まで聞き終えた時、彼女は静かに言った。
「お嬢様」
「なに」
「その冒険者活動、低ランクの範囲に収まっていますか」
アリシアは少しだけ視線を逸らした。
「たぶん」
「その“たぶん”は信用してよい“たぶん”ですか」
「たぶん」
リーネは目を閉じた。
「今日はもう、部屋でお休みください」
「森は?」
「行かせません」
「少しだけ」
「行かせません」
アリシアは頷いた。
「分かった」
素直な返事だった。
リーネは一瞬だけ安心しかける。
だが、すぐに思い直した。
この方の「分かった」は、理解したという意味であって、必ずしも従うという意味ではない。
油断してはならない。
リーネはそう心に刻んだ。
そんなアリシアの横顔を見て、リーネはふと呟く。
「王都へ行くことになるそうですね」
「知ってたの」
「はい。先ほど伺いました」
アリシアは窓の外へ視線を向けた。
遠くに、魔の森が見える。
ここからでも鬱蒼で広大であることが窺える。
「森が遠くなる」
ふと、声が漏れる。
「まず気にされるのはそこですか」
リーネは呆れたようにため息をついた。
「少し困る」
「かなり困っている顔をなさっています」
「顔に出てた?」
「出ていません。ですが、分かります」
アリシアは、少しだけ瞬きをした。
そして、もう一度だけ窓の外を見た。
遠くに見える魔の森は、いつもと変わらない。
けれど、近いうちにそこへ行くことも難しくなるのだろう。
それはやはり、困る。
けれど、家族に迷惑がかからないなら。
それが必要なら。
アリシアは静かに目を伏せた。
その言葉だけが、胸の奥でかすかに残っている。
すべてを、はっきり思い出せるわけではない。
それでも。
守らなければならない気がした。
同じ頃。
ウルスブルク家を離れた馬車の中で、ジルフェールは静かに息を吐いていた。
今日一日で、理解すべき情報が多すぎる。
森で出会った謎の少女。
ミラ。
ウルスブルク家の令嬢。
アリシア。
そして、突然進み始めた婚約の話。
主君はいつも通りに見える。
だが、ジルフェールには分かる。
今日のレグニスは、どこか違う。
馬車の中で、レグニスは窓の外を見ていた。
森はすでに遠ざかっている。
「ジルフェール」
「はい」
「ミラという冒険者を調べろ」
ジルフェールは、少しだけ沈黙した。
予想していなかったわけではない。
むしろ、いつ命じられてもおかしくないと思っていた。
それでも、今この場で聞くと、どうにも胃が重くなる。
「……承知いたしました」
「可能な限り詳しくだ」
レグニスは鋭く言い放つ。
「閣下」
ジルフェールはわずかに身を乗り出した。
「なんだ」
レグニスの表情は変わらない。
「婚約の話を進めた直後でございます」
真っ直ぐとした眼光。
「分かっている」
「本当に、分かっておられますか」
レグニスは答えなかった。
窓の外を見る。
その横顔は、氷の大公と呼ばれるにふさわしく静かだった。
だが、ジルフェールには見えていた。
その静けさの奥で、何かが揺れていることを。
「表に出ている情報だけでは足りない」
レグニスは言った。
「ならば、表に出ていないものを探れる者を使え」
「情報屋、ですか」
「ああ」
ジルフェールは小さく頷く。
「心当たりがございます」
「任せる」
「ただし、相手は高くつきます」
「構わん」
「でしょうね」
思わず本音が漏れた。
レグニスはそれを咎めなかった。
ジルフェールは、もう一度だけ森の方へ視線を向ける。
銀白の少女。
名無しのように現れ、報酬も受け取らず、森へ消えた冒険者。
あの少女は、一体何者なのか。
そしてなぜ、主君はそこまで彼女を気にするのか。
答えはまだ見えない。
だが、調べれば何かが分かるはずだ。
少なくとも、この時のジルフェールは。
まさか、その調査が自分の胃をさらに痛めることになるとは、まだ知らなかった。
コメント
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第4話、じっくり読ませていただきました。森の銀白の少女ミラと公爵令嬢アリシア──同一人物である匂わせ方が本当に絶妙で、特に“膝”という共通ワードでレグニスが一瞬戸惑う場面は何度も読み返しました。リーネとの軽快な掛け合いもアリシアの実像を引き立てていて大好きです。情報屋を使う展開も含め、次の話が待ち遠しいです!