「|二谷《にたに》くんが提案していた勤怠システムと経費精算システムの導入について、社長が詳しく説明して欲しいそうだ」
女課長を認めたくない部長は、私を役職では呼ばない。それどころか、旧姓に戻って一年近く経つというのに、俊哉と結婚していた時の名字で呼ぶ。
「社長の知り合いにそういった会社を経営している人がいて、ちょうど来社しているから打ち合わせに同席して欲しいとのことだ。良かったな。しつこく言い続けていた甲斐があったじゃないか。なぁ、二谷くん。あ、いや、今は|松林《まつばやし》くんか。しょっちゅう名前を変えられるのも困ったもんだ」
全く困った素振りを見せず、部長は言った。
名字が変わることに抵抗があるのなら、役職で呼んでくれたら済む話だが、といつも思う。
私の提案がすくい上げられたことが不満なのだろう。
「ありがとうございます。では、すぐに――」
「――次に名前が変わる時は、主婦業に専念した方がいいと思うよ。俺も覚えられないしさ。みんなもそうだろうから」
わざとフロア中に聞こえるよう、声を張る。
だが、いつものことなので誰も気にしない。
私も、いつもなら気にしない。完全スルー。
けれど、今日は虫の居所が悪かった。
だから、口角を上げて微笑みを浮かべながら、言った。
「ご意見、ありがとうございます。次は部長にも覚えやすい名前になれるよう、精進いたします」
フロア中が静まり返る。
「いっそ、部長のご希望の名字の方を探しましょうか」
部長の口元がへの字に結ばれ、眉間の皺が深くなる。
「それまでは、二谷、と呼んでくださって結構ですので。では、社長室に行ってまいります」
言わなきゃいいのに、言ってしまった。
部長の顔が噴火前の火山の如く赤褐色へと変化していく。が、社長に呼ばれている以上、これ以上相手はしていられない。
私はそそくさと資料を抱えた。
「四十を過ぎたバツ二のきみに、次などあるわけがないだろう!」
年齢のことを言われて、カチンときた。
これも、いつもならスルーなのだが、今日は出来ない。
もう一言言ってやろうと息を吸い込んだ時、背後から笑い声が聞こえた。
「はははっ! 今時、まだそんなベタなセクハラを言う人がいるんですね」
フロア中の視線が、声の主に集まる。
「お恥ずかしい限りです」と、隣の社長がため息交じりに言った。
「社長!」
部長はハッとして、私を素通りして社長の元に駆け寄る。
「すみません。二谷くんに早く伺うように言ったのですが――」
「――どちらかと言うと、それを邪魔しているようでしたけど?」
社長の隣の青年が言った。
部長にしたら、自分の息子ほどの年の男。
どうして――。
私は彼を見つけたまま、息をするのも忘れた。
「総務部長、お客様が帰られたら部屋に来てください」と、社長が低い声で言った。
「今の発言について、じっくり聞かせてください」
「あ、いえ。今のは――」
「――こんなに素敵な女性なら、引く手数多でしょう」
コツ、と踵を鳴らしながら、よく磨かれた爪先の細いビジネスシューズが私に近づく。
フロアの女性たちの視線を集めながら、それに見向きもせずに。
「こんにちは。株式会社フルムーンの代表取締役、|宇野《うの》|太陽《たいよう》と申します」
笑顔で挨拶をし、彼は両手で名刺を差し出した。
私はあまりの驚きに、それを受け取ることも、自分の名刺を差し出すことも出来ない。
「フル……ムーン?」
|満月《フルムーン》……。
「満月には思い出があるんです」と、彼が笑う。
「きみが提案しているシステムの開発をお願いするつもりでいるんだ」と、社長が言った。
「もちろん、きみが責任者だ。通常業務との兼任となるが、総務部にはより良いシステムの開発に尽力してほしい。勤怠システムにしても経費精算システムにしても、総務の管轄だからね」
コメント
2件
私もきゃー!フルムーン🤭それにしても、セクハラ?いやパワハラかな?嫌な部長をたっぷり叱って思い知らせてくださいね、社長!若くても太陽さんは余裕がある態度で、部長には見習って欲しいですね!
きゃーフルムーンだって😆太陽なんて名前🎵真逆🤣