テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
その翌日から
俺と圭ちゃんはまた、元の“いつものふたり”に戻っていた。
日常は穏やかに、そして、どこかぎこちなさを含みながらも、確かに続いていた。
教室でお昼ご飯を一緒に食べる。
プラスチックの箸がカチャカチャと音を立てる中で、圭ちゃんはいつものように、俺の弁当の中身を覗き込んで「あー、それ美味そうだな、一口くれよ」なんて、屈託のない笑顔で箸を伸ばしてくる。俺は内心ドキドキしながらも
「圭ちゃんのポテトと交換ならいいよ」
「ほい、契約成立」
と、当たり前のように卵焼きを差し出す。
その指先が触れ合うたびに、心臓が跳ねる。
たったそれだけのことで、頬が熱くなるのを感じて、俺は気づかれないように俯いた。
他愛もない話で笑い合い、時折、彼が不意に俺の髪をくしゃりと撫でたり
弁当箱を並べるときに指先が触れたりするたびに、体中に電流が走るような感覚に陥る。
この一瞬一瞬が、今までとは違う意味を持つようになった。
前の日の出来事がまるで幻であったかのように、教室での日常が始まった。
朝、圭ちゃんの顔を見るだけで、昨夜の凍えるような不安はどこかへ吹き飛んだ。
いつもの、当たり前の光景。
教室でお昼ご飯を一緒に食べる。他愛ない話をして、時々圭ちゃんのどうでもいいボケに笑い転げたりする。
「購買行こうぜ」
圭ちゃんがそう言えば、俺は当然のように立ち上がり、彼の隣を歩いた。
その一歩一歩が、まるで世界で一番安全な場所に繋がっているかのように感じられた。
移動教室のときも、圭ちゃんはいつも俺を気遣ってくれた。
俺がうっかり忘れても、必ず圭ちゃんが予備のノートやプリントを差し出してくれた。
その度に、俺はどれだけ彼に支えられているのかを実感した。
圭ちゃんの、俺を心配する優しい声。
それが、何よりも俺の心を温かく包み込んでくれた。
放課後だって、圭ちゃんは当たり前のように俺を誘ってくれる。
「今日久しぶりにカラオケ行かね?」
彼の誘いに、俺はいつでも二つ返事で頷いた。
彼の隣にいることが、もはや呼吸をするのと同じくらい自然なことになっていた。
俺の日常は、圭ちゃんの存在で満たされ、彩られていた。
ああ、やっぱり俺の居場所はここなんだなって、心の底からそう思えた。
胸の奥があったかくて、嬉しくて、このままずっと、この時間が永遠に続けばいいのにと願った。
まるで、全てが淡い夢の中にいるようだった。
現実がこんなにも甘く、心地よいものだなんて信じられなかった。
でも、穏やかな時間は、唐突に終わりを告げる。
それは、放課後の、人影もまばらになった廊下でのことだった。
「……鈴木くん、ちょっといい?」
突然、背後から自分の名前が呼ばれた。
その声を聞いた瞬間、俺の心臓はドクンと大きく跳ねた。
振り返る前から、その声の主が誰なのか
俺は直感的に理解していた。
杉山さんだった。
静かなはずの、そしていつもなら開放感すら覚える放課後の廊下に
彼女の声がやけに響いて、その響きが、俺の心に嫌な予感を突きつけた。
全身の血が、一瞬にして冷たくなる。
一瞬、踵を返して逃げ出したい衝動に駆られた。
その場から消えてしまいたい。
けれど、足は地面に縫い付けられたかのように動かず
ふと視線を逸らしたくなった。
彼女の存在は、最近の俺の心を覆う
小さな、しかし確かな暗雲だった。
まるで、晴れ渡っていた空に
突如として黒い影が差し込んできたかのような不吉な予感。
「少しだけ、話したいことがあるの。放課後、運河公園に来てくれる?」
有無を言わせない空気だった。
その言い方は丁寧で、まるでお願い事でもしているかのようだったけれど
彼女の目は俺を真っ直ぐに射抜いていて、それが少しだけ、鋭く光っていた。
その視線に、俺は抗うことができなかった。
断るという選択肢は、俺の中に存在しなかった。
まるで、鎖で繋がれたように、俺は彼女の言葉に縛られていた。
俺は、小さく「うん」と、蚊の鳴くような声で答えるしかなかった。
胸の奥で、警鐘が鳴り響いていた。
これは、きっと、ろくなことにならない。
そう、本能が叫んでいた。
◆◇◆◇
放課後───…
重い足取りで、杉山さんに言われた通り
運河公園に俺は向かった。
学校を出てから公園までの道のりが、こんなにも遠く感じられたことはなかった。
アスファルトの照り返しも、セミの声も、すべてが鬱陶しく感じられる。
約束の時間よりも少し早く着いたつもりだったのに
既にそこに杉山さんが一人、静かに立っていた。
夕暮れが迫り、空が薄い群青色に変わり始める時間。
公園の空気はひんやりとしていて、噴水の水音が
まるで彼女の怒りを鎮めるかのように、淡々と響いている。
その水音が、俺の心臓の音と重なって、耳の奥で不気味に響き渡る。
「…杉山さん、お待たせ…話したいことってなんなの…?」
俺は震える声で尋ねた。
彼女の背中が、まるで一枚の壁のように
俺と世界の間に立ちはだかっているかのように感じられた。
彼女はゆっくりと振り返り、俺の顔をまっすぐに見つめた。
その表情は無機質で、感情を読み取ることができない。
しかし、その瞳の奥には、冷たい光が宿っているのが見て取れた。
「また、圭と一緒にいるでしょ。私があれだけ忠告したのに、全然聞かないんだと思ってね?」
彼女の声は、静かだったが、その中に確かな圧力が含まれていた。
まるで、俺の行動をすべて把握し
そしてすべてを許さないとでも言いたげな、冷酷な響き。
その言葉が、俺の胸に突き刺さる。
しかし俺は、一歩も引かないと、心に決めた。
昨日の夜、圭ちゃんと話した。
圭ちゃんは、俺のことを迷惑だなんて少しも思っていないと、そう言ってくれた。
あの言葉が、俺の背中を押してくれた。
あの温かい言葉が、俺の唯一の支えだった。
「…やっぱり俺、圭ちゃんが好きだから、杉山さんの言う通りにはできないんだ」
覚悟を決めて、そう告げた。
俺の声は、思ったよりも震えていなかった。
むしろ、これまでずっと心の奥底に押し込めてきた感情が
ようやく解放されたかのような清々しささえ感じられた。
「へぇ、そう」
杉山さんは、少しも表情を変えずに、まるで興味がないかのようにそう言った。
その無関心さが、かえって俺を追い詰めるようだった。
彼女の言葉が、氷の刃となって、俺の心を冷たく突き刺す。
「それで?そんなことで私が引き下がると思ってるの?」
その言葉に、俺は思わず息を呑む。
「…っ」
喉の奥がひりつく。
「私、言ったよね。圭に近づかないでって」
杉山さんはそう言って、俺の目を見た。
その目はやっぱり鋭くて、威圧感があった。
俺は思わず目を逸らしてしまった。
彼女の視線から逃げるように、公園の地面を見つめる。
足元の小石が、やけに鮮明に見えた。
「圭ちゃんと、ちゃんと…話したんだ。圭ちゃんは俺のこと迷惑に感じたことなんかないって」
俺は、自分を奮い立たせるように、必死で言葉を続けた。
これが、俺の唯一の武器だった。
圭ちゃんが、俺を受け入れてくれたという事実。
「はあ?余計なことしないでよ!あんたみたいな社会からズレたやつと一緒にいたら圭まで周りから変に見られるって言ったじゃん!?」
杉山さんは、それまでの冷静さをかなぐり捨てたかのように怒声を荒げた。
その声が、静かな公園に不気味に響き渡る。
その言葉が、俺の心臓に直接、ずきりと刺さった。
確かに杉山さんの言うことは、世間一般から見れば正しいのかもしれない。
俺は、”普通”の枠から外れた人間だ。
これまでずっと、そのことに苦しんできた。
圭ちゃんは、そんな俺と一緒にいることで
周りから奇異な目で見られるかもしれない。
理解していた。
頭では、理解しているつもりだった。
でも、だからって、圭ちゃんが俺を認めてくれる限り
諦めるなんてこと、俺にはできないから。
俺の心は、もう圭ちゃんから離れるなんて無理だった。
「ごめん……でも俺、やっぱり圭ちゃんが好きだから」
俺は、震える声で、それでもまっすぐに彼女に告げた。
その言葉は、俺自身の覚悟でもあった。
「そんなの認めないって言ってるでしょ!」
杉山さんは怒り狂ったように声を荒げた。
その声の大きさに驚いて、俺は思わず肩がびくりと震えた。
びくりと揺れる肩を見て、彼女は満足げに
そして不敵な笑みを浮かべながら言った。
その目には、歪んだ勝利の光が宿っている。
「もういい、あんたが圭から離れないつもりなら私にだって考えがあるんだから」
その言葉が、俺の背筋を凍らせた。
何を考えているのか、何をしようとしているのか
まるで掴めない彼女に恐る恐る尋ねた。
「な…なに、する気…?」
すると、彼女は俺の問いには答えず
その代わりゆっくりと噴水に近づき
そして躊躇することなく、目の前の噴水の中に
まるで舞台の演出のように、自ら飛び込んだのだ。
「え、ちょっ、何して…?!」
俺は思わず叫んだ。
あまりにも唐突で、常軌を逸した行動に、思考が停止する。
目の前で起こっていることが、まるで現実とは思えなかった。
杉山さんは、びしょ濡れになった身体で噴水からゆっくりと出てきた。
その顔は、水滴で濡れていても
一切の動揺を見せず、ただ、冷たく不気味に微笑んでいた。
その姿は、まるで水から現れた亡霊のようで
俺の背筋にぞくりと悪寒が走った。
「私ね、圭のことが本当に大切なの。だから、圭に近づこうとするやつには容赦しない」
そう言って、彼女はびしょ濡れの髪をかきあげ
水滴が顔から顎を伝い、服の染みとなって広がっていく。
夕暮れの光が、びしょ濡れの彼女を不気味に照らし出し
その姿は、まるで一枚の絵画のように、俺の網膜に焼き付いた。
背筋がぞくりとして、俺は思わず後ずさりしてしまった。
彼女の目が、獲物を狙う獣のように光っている。
その瞳の奥には、狂気にも似た執着が見え隠れしていた。
「……ここにね、圭も呼んでるの。あんたのこと、今から地獄に叩き落としてやるから」
そして、不敵に口元を吊り上げた
その瞬間だった。
彼女の言葉が、耳の奥で、不気味な予言のように響き渡る。
俺の心臓は、破裂しそうなほどに高鳴っていた。
「……花音来たぞ、っていうか、なんでりゅうがいんだよ?」
背後から聞こえた、聞き慣れた声に、俺は弾かれたように振り返った。
ちょうど圭ちゃんが噴水広場へ入ってきたところだった。
彼の顔には、花音という名を呼んだ時とは違う
困惑と、そして少しの苛立ちが浮かんでいるように見えた。
俺の姿を認めて、彼の目が少しだけ見開かれる。
「圭ちゃ」ん、と、俺がその名を呼びかけようとしたところで
俺の発言を遮るように、杉山さんはすぐさま顔を歪ませ
まるで芝居でもするように、ぴったり圭ちゃんの胸に抱きついた。
その動きは、あまりにも素早く
「圭、聞いてよ…鈴木くんに押されたのっ……!それで、私こんなビショ濡れなってぇ!」
あまりにも計算されていた。
わざとらしくすすり泣く声
震える手
びしょ濡れのまま圭ちゃんにしがみついているその姿は、見るもの全てに「被害者」の印象を与えようとしているのが丸わかりだった。
彼女の演技は、完璧だった。
「なっ……」
圭ちゃんはぎょっとした表情で俺を見た。
その目には、疑問符が浮かんでいる。
俺は必死で首をぶんぶん横に振った。
そんなの全くの冤罪だ。
そんなこと、俺がするはずがない。
俺は、身振り手振りで、無実を訴えた。
……でも、そんなことを今更言ったところで
もう遅かった。
杉山さんは完全に俺に全ての罪をなすりつけようとしていたのだ。
彼女の目は、俺を追い詰める、歪んだ勝利の光を宿していた。
「圭ちゃん、違う!俺じゃない!」
俺は叫んだ。
しかし、圭ちゃんは俺をキッと睨みつけた。
その目を見て、俺は思わず怯んでしまった。
圭ちゃんの、俺を見る目が、まるで信じられないとでも言いたげな
失望の色を帯びているように見えて、胸が締め付けられる。
最悪のシナリオが、俺の頭の中を駆け巡った。
しかし、次の瞬間。
圭ちゃんは、俺の予想を遥かに超える行動に出た。
「邪魔」
圭ちゃんは、縋りつく杉山さんの腕を
まるでゴミでも払うかのように、無理やり振りほどいた。
その一連の動作は、淀みがなく
そして躊躇が一切なかった。
そして、一切の躊躇もなく、俺の目の前にスタスタと歩み寄ってきたのだ。
その表情は、先ほどまでの困惑とは打って変わり
冷たく、そしてどこか、怒りを孕んでいるようにも見えた。
「は……?じゃ、じゃ、邪魔?この私が…?」
その冷たい言葉に、杉山さんは愕然とした顔で
まるで時間が止まったかのように固まる。
彼女の完璧なシナリオが、あっけなく
そして無慈悲に崩れ去ったことを理解したのだろう。
その顔には、驚きと、そして深い屈辱の色が浮かんでいた。
しかし、圭ちゃんはそんな彼女の言葉に耳も傾けず
焦った顔で、俺の肩を掴んだ。
その手は、いつもより少しだけ力が込められていた。
彼の指先が、俺の肩に食い込む。
「大丈夫か、りゅう。なにもされてねぇよな?」
彼の声は、心配と、そして明確な怒りを含んでいた。