テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
ナト
6
ruruha
846
ruruha
1,094
夜の帳(とばり)が降りる頃、路地裏の隅にひっそりと佇む洋食店がある。看板には『レ・スヴニール(記憶)』とだけ書かれていた。僕、歩(あゆむ)がその店に迷い込んだのは、病院からの帰り道だった。
「お父さんが倒れた。もう長くないかもしれない」
何年も絶縁状態だった母からの電話。病院のベッドで管に繋がれた父の姿は、僕の記憶にある頑固で怖かった面影をすっかり無くし、小さく縮んでいた。
今さらどんな顔をして会えばいいのか分からず、逃げるように病院を飛び出した。冷たい雨に打たれ、気づけば見知らぬ店の前に立っていた。
「いらっしゃいませ。温かいものでもいかがですか」
迎えてくれたのは、白髪の穏やかな店主だった。
メニューを開くと、そこには何も書かれていない。戸惑う僕に、店主は静かに微笑んだ。
「当店のメニューは一つだけ。お客様が人生で『一番おいしい』と感じた瞬間の料理をお出しします」
「そんなもの、覚えてないな……」
僕は自嘲気味に呟いた。仕事に追われる毎日で、最近はコンビニの弁当の味しか思い出せない。
「いえ、心は覚えているものです。——では、一品お作りしますね。ただし、一つだけルールがございます」
店主は真剣な目で僕を見つめた。
「その料理を食べると、その料理にまつわる『一番大切な人の記憶』が、あなたの頭から完全に消えてしまいます。それでも、よろしいですか?」
「記憶が消える?」
妙な冗談だと思った。雨宿りの代償としては変わっている。どうせお腹も空いていたし、忘れて困るような大層な思い出なんて僕にはない。
「いいですよ。作ってください」
しばらくして運ばれてきたのは、銀の皿に乗った、ひどく不格好なオムライスだった。
卵は焦げ目がついて固く、チキンライスはケチャップが不均一に混ざっている。お世辞にもプロの料理とは言えなかった。
しかし、その匂いを嗅いだ瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
スプーンを入れ、一口食べる。
「あ……」
口の中に広がったのは、少し酸っぱくて、だけど信じられないほど優しい味だった。
——思い出した。
小学二年生の冬。母が急な病気で入院し、僕と父は二人きりになった。
仕事一筋で台所に立ったことすらない父が、真っ赤に手を腫らしながら、泣きそうな顔で僕のために作ったオムライスだ。
「歩、うまいか? ごめんな、お父さん料理下手で」
不器用な父が、私の頭を大きな手で撫でてくれた。あの時の手の温かさ。
僕は仕事ばかりの父が嫌いだった。だけど違った。父は不器用なりに、必死で僕を愛そうとしてくれていたのだ。
ハラハラと、涙がオムライスの上に落ちた。
「おいしい……おいしいです……」
僕は夢中でスプーンを動かした。食べるたびに、心のトゲが溶けていく。同時に、頭の霧が晴れるように、父との思い出が鮮明に蘇ってくる。
……けれど、皿が空になった瞬間。
唐突に、強烈な喪失感が僕を襲った。
「あれ……?」
僕は自分の手をじっと見つめた。胸がひどく痛む。涙が止まらない。
なのに——なぜ自分が泣いているのかが、分からないのだ。
「お会計を」
僕は立ち上がった。なぜこの店に入ったのか、なぜ病院にいたのか、大切な何かが、すっぽりと抜け落ちている。
店主は料金を受け取ると、切なげな目で僕を見た。
「お客様。お父様は、最期まであなたのことを誇りに思っていらっしゃいましたよ」
「え……? 父? 私の父は、もう随分前に……」
言いかけて、言葉が詰まった。僕の記憶の中で、父の顔だけがモザイクがかかったように思い出せない。ただ、心の奥底に、あの不格好なオムライスの味と、温かい手の感覚だけが、消えない傷跡のように残っていた。
「ありがとうございました。お気をつけて」
店を出ると、雨は上がっていた。
僕は夜空を見上げ、なぜか急に、誰かに会いに行かなければいけないような強い衝動に駆られた。どこへ行けばいいのかは分からない。だけど、足は自然と、あの病院のある方向へと動き出していた。
コメント
1件
うわあ、第2話でここまでくるとは……。冒頭の「記憶が消える」ルールがちゃんとラストで効いてくる構造が気持ちいいですね。不格好なオムライスを食べて父の愛情に気づくシーンは胸にきました。最後、記憶は消えても足が病院へ向かう——この"身体が覚えている"感じ、続きがすごく気になります。