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#溺愛
桜咲かな
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#溺愛
桜咲かな
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第256話 名前のない男
【現実世界・湾岸旧研究施設/身体側固定室・午後】
《身体回収手順を解析します》
電源を切られた端末に、Cの黒い文字が残っていた。
特殊部隊員が遮光布をかぶせても、文字は布の表面へ浮かび上がる。
Cは画面を使っているのではない。
この部屋そのものを、情報を映す場所へ変えていた。
保存槽の中には何もない。
だが、日下部が補助層とのずれだけを表示すると、
横たわる成人男性の輪郭が断続的に現れる。
一度。
二度。
心拍に似た間隔で現れ、また消える。
「匠さんの身体が、現実と補助層の間に残っている可能性は高いです」
日下部は床に刻まれた術式と配線を調べながら言った。
「ただし、この処置を匠さん一人で行うのは不可能です」
木崎が保存槽から視線を外す。
「どういうことだ」
「意識を補助層へ送る本人は、この槽の中にいたはずです」
日下部は保存槽の左右を示した。
床には、装置を操作する者が立つための印が残っている。
一方は、身体の生命反応を固定する操作。
もう一方は、意識が補助層へ移ったあと、現実側の入口を閉じる操作。
「匠さんが自分で装置を起動し、横になったとしても、
最後の固定は外から行う必要があります」
城ヶ峰が尋ねる。
「協力者がいたということか」
「はい」
「記録に名前は」
「消されています」
日下部が床へ局所接続装置を置く。
白い光が古い線をなぞったが、操作者名に当たる部分だけは黒く欠けていた。
木崎はしばらくその空白を見つめた。
「一人しかいないだろ」
城ヶ峰が木崎を見る。
「誰だ」
「柏木先生だ」
その名前に、床の白線が一度だけ揺れた。
木崎は続ける。
「異世界では大臣アルディアとして、カシウスの計画を調べていた」
「匠と一緒に反記録まで作った男だ」
日下部も過去の記録を開く。
カシウス自身が、アルディアと雲賀匠が反記録を完成させたと語っている。
匠が身体を現実側へ残し、意識だけで補助層へ入る。
その危険な処置を任せられる相手。
現実と異世界の双方を知り、カシウスの陰謀に気づいていた人物。
「可能性は高いです」
日下部が言った。
城ヶ峰は空白の操作記録を見る。
「だが、柏木陽介はすでに死亡している」
「ああ」
木崎の声が低くなる。
「アルディアも向こうで殺された」
柏木先生の死。
大臣アルディアの暗殺。
それが、この事件の始まりだった。
もし柏木が匠の分離処置に協力したのなら、その後に口を封じられた可能性もある。
だが、今ここで確かめる方法はない。
残っているのは、空白になった操作者記録だけだった。
木崎は保存槽へ目を戻した。
「柏木先生がここを閉じたとしても、もう本人には聞けない」
「だったら、匠に聞くしかないな」
日下部が頷く。
「まず、補助層側の匠さんへ、この施設を発見したことを伝えます」
「そのうえで、身体を戻す条件を確認します」
端末の黒い文字が動いた。
《操作者情報・欠損》
《身体側固定点・継続観測》
Cも、協力者の名前までは読み取れていない。
城ヶ峰は言った。
「柏木の名前をこの場で何度も出す必要はない」
「今守るべきなのは、匠の身体だ」
日下部は局所接続装置を保存槽へ繋ぎ直す。
その直後、異世界側から通信要求が入った。
表示されたのはノノではない。
ハレルの主鍵を経由した、王都外縁からの細い通信だった。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都外縁/保護施設・夕方】
薄暗い廊下を、ハレルたちは慎重に進んでいた。
先頭にはヴェルニ。
片手を剣の柄に置き、左右の扉と窓を一つずつ確認している。
その後ろにリオ、ハレル、サキが続き、王国警備局員二名が最後尾を守っていた。
建物へ入る前、reは正面の入口を避けるような線を示していた。
職員へ確認したところ、正面廊下の一部には古い結界が残っていることが分かった。
病人が外へ迷い出ないようにするための簡単な結界だが、
主鍵や副鍵へどう反応するかは分からない。
そのため、一行はreが示した中庭側の通路から入っていた。
「今のところ、妙な気配はない」
ヴェルニが小声で言った。
リオは右手首の副鍵を袖で隠しながら答える。
「Cの観測は、魔力だけじゃ分からない」
「分かっている」
ヴェルニは歩みを止めずに言った。
「だからお前たちは男を見ろ。周囲は俺が見る」
廊下の奥から、名前を失った男の声が聞こえる。
「帰らなければならない」
「次の駅で降りる」
「鍵を……」
サキがスマホを見る。
reの白い光は男のいる部屋へ向かっている。
だが、一直線ではない。
廊下の壁や床に残る小さな黒い点を避けながら、細かく曲がっていた。
ヴェルニもその光を見る。
「避けているのは、あの染みか」
床に、小さな黒い跡がある。
古い薬をこぼしたようにも見える。
リオがしゃがまずに目だけを向けた。
「触らない方がいい」
ヴェルニは後ろの警備局員へ命じる。
「帰り道の印をつけろ。黒い跡には近づくな」
「了解」
男のいる部屋の前へ到着する。
ヴェルニは扉の横へ立ち、室内の気配を確認した。
「一人だ」
「入るぞ」
扉を開ける。
薄暗い部屋の中央に、名前を失った男が立っていた。
年齢は四十歳前後。
頬は痩せ、髪は長く伸びている。
右の眉の上には小さな傷。
左手の薬指には、指輪を長くつけていたような白い跡があった。
記録にある高瀬直人の身体的特徴と一致している。
男は壁際で両手を震わせながら、ハレルの胸元を見つめていた。
主鍵は服の下へ隠している。
それでも、そこに何かがあると感じているようだった。
「鍵……」
男が一歩動く。
ヴェルニがすぐに二人の間へ身体を入れた。
剣は抜かない。
だが、男が飛びかかれば止められる位置だった。
「待て」
ハレルが言った。
「まだ襲ってくると決まったわけじゃない」
「分かっている」
ヴェルニは男から目を離さない。
「だから斬っていない」
ハレルは一定の距離を保ったまま尋ねる。
「何の鍵ですか」
男は頭を押さえる。
「画面に……あった」
「どんな画面ですか」
「駅」
途切れた言葉。
「電車の、時間が出る……大きな画面」
異世界にはないものだ。
ハレルのイヤーカフから、ノノの声が聞こえる。
『現実側の駅にある案内表示かもしれない』
『高瀬直人さんが消えた駅にも、ホームの発車案内板がある』
男は苦しそうに続けた。
「文字が……消えた」
「全部、黒くなって」
「真ん中に、白いものがあった」
サキが静かに尋ねる。
「それが鍵に見えたんですか」
男は頷こうとして、途中で動きを止めた。
「見えたんじゃない」
「頭の中で……鍵だって分かった」
ハレルはリオと視線を交わす。
男が口にした「鍵」は、ハレルたちの主鍵や副鍵を探す命令ではない。
転移が起きた瞬間、駅の画面に現れた何か。
それを男の意識が、鍵として認識した記憶だった。
セラの声も通信に入る。
『現在の反応から、外部から与えられた命令は確認できません』
『“鍵”という言葉は、転移時の記憶と結びついています』
ヴェルニが男の表情を観察しながら尋ねる。
「では、なぜハレルの胸を見ている」
男の視線が再び主鍵の位置へ向く。
「同じ……」
「何が同じなんですか」
ハレルが聞く。
「光」
「画面の中にあったものと……似てる」
男はハレルへ手を伸ばしかけた。
ヴェルニがその手首を掴む。
強くねじるのではなく、前へ進めないように止めただけだった。
「触るな」
男は怯えたように腕を引く。
ハレルが言った。
「大丈夫です。誰もあなたを傷つけません」
ヴェルニは男の手を放したが、そのままハレルの横へ残った。
リオは右腕の副鍵を袖で隠したまま聞く。
「その鍵があれば、どうなると思った」
男の視線が揺れる。
「帰れる」
「誰かにそう言われたんですか」
「分からない」
「声がしたような……文字を読んだような……」
記憶が混ざっている。
音声だったのか。
画面上の文字だったのか。
あるいは、転移装置が直接意識へ意味を送り込んだのか。
男自身にも判断できない。
「帰らなければならない」
再び、同じ言葉が出る。
「次の駅で降りる」
「帰りは……少し、遅くなる」
ハレルの表情が変わった。
現実側の失踪記録に残されていた最後のメッセージ。
『次の駅で降りる。帰りは少し遅くなる』
ほぼ同じ言葉だった。
サキが一歩前へ出ようとする。
リオが腕で止めた。
「まだ近づくな」
「でも」
「記憶が急に戻れば、混乱するかもしれない」
ヴェルニも言う。
「サキ。話すなら、そこからにしろ」
サキは立ち止まった。
reはスマホの中から白い線を伸ばしている。
男へ直接触れるのではなく、床を回り、部屋の隅へ向かっていた。
そこには、保護された時の所持品を入れた木箱が置かれている。
ヴェルニが先に木箱へ近づいた。
「罠がないか確認する」
蓋の周囲へ小さな魔術光を走らせる。
黒い反応はない。
「開けるぞ」
中に入っていたのは、異世界では使われない物ばかりだった。
止まった腕時計。
家の鍵らしき金属片。
折れた眼鏡。
色の褪せた薄いカード。
ノノが現実側の画像と比較する。
『カードの識別番号を照合する』
数秒。
『一致した』
『高瀬直人名義で登録された交通系カードです』
男の視線が、カードへ向く。
だが、それだけでは本人とは断定できない。
持ち物だけが別人と一緒に転移した可能性もある。
ハレルはカードを手に取らず、その場へ置いたまま言った。
「高瀬直人さん」
男の肩が跳ねる。
胸の奥で、淡い光が一度だけ明滅した。
ノノがすぐに反応を読む。
『名前に反応あり』
『でも弱い。まだ自分の名前だと完全には認識してない』
ハレルはもう一度呼ぶ。
「高瀬直人さん」
男は唇を動かした。
「たかせ……」
声が震える。
「なお……と……」
頭を押さえていた手が、ゆっくり下がる。
一瞬だけ、男の目に別の景色が映った。
混雑した駅。
人の波。
電車の到着音。
左手でスマートフォンを持ち、誰かへ短いメッセージを送る。
――帰りは少し遅くなる。
次の瞬間、画面が黒く染まる。
白い穴。
その向こうで、誰かが手を伸ばしている。
男は大きく息を吸った。
「家に……」
サキが聞く。
「家に、誰かいるんですか」
男は苦しそうに目を閉じた。
「待ってる」
「誰が?」
答えは出ない。
だが、「帰らなければならない」という言葉が、初めて同じ形ではなくなった。
「帰りたい」
男は言った。
「家へ、帰りたい」
ノノの声が少し強くなる。
『本人選択の反応が出た』
『まだ弱いけど、決められた言葉じゃない』
『高瀬さん自身の現在の意思だと思う』
ヴェルニが男の周囲を見回す。
「名前と意思が戻れば、敵にも見つかりやすくなるんじゃないか」
『可能性はある』
ノノが答えた。
『今までは名前が弱かったから、位置もぼやけてた』
『本人としての反応が強くなるほど、Cも見つけやすくなる』
ヴェルニは後方の警備局員へ命じる。
「施設の出入口を閉じろ」
「誰も入れるな。異常があれば、すぐ知らせろ」
「了解」
ヴェルニは窓の外へ目を向けた。
日が沈みかけている。
中庭の影が長く伸び、その一部が風とは違う動きで揺れたように見えた。
だが、見直した時には何もなかった。
ハレルは胸元の主鍵へ手を当てた。
名前。
身体。
転移した時の記憶。
そして、現在の選択。
少しずつ本人の形が揃い始めている。
だが、ユナの時とは違う問題もあった。
高瀬の記憶には大きな欠落がある。
自分を待っている人物の顔も思い出せない。
異世界へ来てから何があったのかも分からない。
ハレルが尋ねる。
「ここへ来たあと、誰かに会いましたか」
男の顔が強張った。
「ここへ……?」
「この世界へ来たあとです」
男は記憶を探ろうとする。
だが、胸元の光が急に乱れた。
「暗い……」
「暗い場所?」
「石の床」
「誰かが……見てた」
ハレルたちの空気が変わる。
ヴェルニは剣をわずかに抜き、扉と窓の両方を警戒する。
「誰ですか」
ハレルが尋ねる。
「分からない」
男は震え始めた。
「目が……たくさん」
「人じゃない」
「見られてた」
セラが言う。
『それ以上は止めてください』
『記憶の奥に、強い観測痕があります』
カシウス側に捕らえられていたのか。
転移経路をCに観測されていただけなのか。
まだ判断できない。
ハレルは質問をやめた。
「今日は、もう思い出さなくていいです」
男が顔を上げる。
「帰れる?」
その問いに、ハレルは簡単に「帰れる」とは言わなかった。
ユナの帰還は成功した。
だが、高瀬にも同じ方法がそのまま使えるとは限らない。
「帰る方法を探します」
ハレルは答えた。
「でも、その前にあなたの身体と記憶を確認します」
「あなたが本当に帰りたい場所を、自分で選べるようにします」
男はすぐには理解できなかったようだった。
それでも、ゆっくり頷いた。
「高瀬……直人」
自分で名前を口にする。
先ほどより、胸の光が強くなった。
ヴェルニは男を見たまま、低く言った。
「本人なら守る」
「だが、ここを狙う者が来れば、戦いになる」
ハレルも窓の外へ目を向けた。
「来ますかね」
「お前たちが見つけたなら、向こうも気づく」
ヴェルニは剣を鞘へ戻さなかった。
「俺なら来る」
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸旧研究施設/身体側固定室・夕方】
日下部の端末へ、高瀬直人の名前反応と本人選択が届いた。
「最初の候補者が、自分の名前を口にしました」
木崎が保存槽のそばから振り返る。
「本人で確定か」
「まだです」
「身体的特徴と所持品は一致しています」
「名前にも反応した」
「現実へ帰りたいという意思もある」
「ですが、記憶に大きな欠落と観測痕があります」
城ヶ峰が言う。
「帰還は急ぐな」
「はい」
日下部は高瀬の記録を候補者一覧の最上段へ移した。
《高瀬直人》
《本人一致確認中》
《帰還意思あり》
その横には、別の対象が表示されている。
《雲賀匠》
《身体側固定点確認》
《本人帰還意思あり》
現実世界から異世界へ消えた男。
現実と補助層の間へ身体を残した男。
二人とも、帰りたいという意思を持っている。
だが、それだけでは戻せない。
帰るためには、失われた部分を一つずつ探さなければならなかった。
木崎は匠の淡い輪郭を見る。
「柏木先生は、あんたをここへ残すところまで手伝ったのかもしれない」
「でも、帰すところまではできなかった」
白い輪郭は何も答えない。
木崎は小さく息を吐いた。
「今度は俺たちがやる」
その時、Cの黒い文字が壁から消えた。
観測を諦めたわけではない。
必要な情報を得たため、一度姿を隠しただけだった。
◆ ◆ ◆
【どこでもない層/深層】
Cの画面に、高瀬直人の情報が表示される。
《名前反応・確認》
《身体一致率・上昇》
《本人選択・帰還》
オルガが言う。
「まだ不完全だ」
「記憶が欠けている」
カシウスは答えた。
「不完全だから使える」
「名前と身体の結びつきを、こちらで作り直せる」
ジャバが王都外縁の保護施設を見た。
「もう奪うか」
「まだだ」
「奴らに記憶の観測痕を外させろ」
カシウスは命じた。
「帰還できる状態まで整った時に回収する」
白峰律は別の画面を見ていた。
湾岸旧研究施設。
匠の身体側固定点。
空白になった協力者の記録。
「アルディアか」
白峰が小さく言った。
カシウスは反応しない。
死者の名前に、今さら興味はないようだった。
だが、白峰は知っている。
匠一人では、あの分離処置は行えない。
身体を残す者。
意識を送り出す者。
そして、帰り道を閉じずに守る者。
その役目を引き受けたのは、おそらくアルディアだった。
すでに殺された男が残した処置が、今も匠の肉体を守っている。
Cが告げる。
『高瀬直人の本人確認を継続します』
『主鍵および副鍵の使用時、位置を再測定します』
画面には、ハレルとリオの鍵だけではなく、その近くで剣を構えるヴェルニの姿も映っていた。
ジャバが笑う。
「護衛もいるじゃねえか」
カシウスは画面の中のハレルを見た。
「観測を続けろ」
ハレルたちはまだ、高瀬を帰還させるための線を開いていない。
鍵も使っていない。
カシウスは待つ。
彼らが失われた男を救える形へ戻す、その瞬間まで。
コメント
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おお、第256話か…読み終わったわ。もうね、今回の一番のグッときたとこは、高瀬さんの「帰りたい」って言葉が本人の意思になった瞬間だな。決められた言葉じゃなくて、ちゃんと自分の口から出たあの一言が、めっちゃ刺さったわ。あと、現実側の柏木先生の空白の記録も気になるし、カシウスの「不完全だから使える」って台詞がめっちゃ悪役感あってゾッとした。匠さんの身体も無事に戻せるといいな…次の話、楽しみにしてる🔥