テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第257話 奪われた研究
【異世界・王都イルダ/王国警備局・臨時分析室・夕方】
臨時分析室には、三つの大きな水晶板が並んでいた。
中央には王都の地図。
右側には、王都外縁の保護施設にいる高瀬直人の反応。
左側には、現実世界の湾岸旧研究施設と、雲賀匠の身体側固定点が表示されている。
ノノは中央の椅子に座り、三つの画面を順番に確認していた。
「高瀬さんの名前反応、まだ保ってる?」
隣の分析官が答える。
「はい。ただし、記憶領域を深く調べると観測痕が強くなります」
「深いところには入らないで」
ノノはすぐに指示した。
「今は名前と現在の意思だけ固定して」
「過去を無理に開くと、Cが残した反応まで動くかもしれない」
「了解」
別の分析官が左側の画面を示す。
「現実側から通信です。身体側固定室の観測反応は弱まりました」
「消えた?」
「いいえ。Cが表示を止めただけだと思われます」
ノノは眉を寄せる。
「なら、監視は続けて」
「保存槽に変化があっても、勝手に開けないように日下部さんへ伝えて」
複数の分析官が、それぞれの水晶板へ向かう。
これまでは、ノノが一人で多くの解析を抱え込んでいた。
だが今は違う。
王国警備局。
王都軍。
王立研究院。
その中から、オルガやヴァルドの影響を受けていないと確認された分析官たちが、少しずつ集められている。
単純な数値の監視。
通信線の維持。
現実側から届く記録の保存。
それらを別の分析官へ任せることで、
ノノは複数の問題を同時に見ることができていた。
セラも、中央の水晶板の前に立っている。
彼女の意識の一部は、高瀬直人の状態を確認するため、
保護施設の通信線へ繋がっていた。
もう一部は、現実側の身体側固定点へ伸びている。
それでも、セラの輪郭は以前ほど揺れていなかった。
エリウスの名前が、王都の複数の機関へ記録されたためだった。
名前を消す力に抵抗する場所が増えたことで、
セラ一人が記憶を抱え続ける必要がなくなった。
アデルが分析室へ入る。
その後ろには、イデールとダミエがいた。
イデールは王国医療棟でユナの治療を担当していた。
ダミエは王国でも数少ない、古い結界層を読み解ける専門家。
「準備は」
アデルが尋ねる。
「できてるよ」
ノノは王都の地図を拡大した。
「最初に調べるのは、旧東部治療区画」
王都の東側。
現在は閉鎖されている古い医療施設が表示される。
「セラの記憶では、エリウスが治療と研究のために使っていた建物が、この辺りにあった」
イデールが地図を見る。
「現在の医療棟が作られる前の施設ね」
「戦争後に封鎖されたと聞いてたけど」
ダミエが尋ねる。
「建物は残っているのか」
「地上部分は倉庫として使われてる」
ノノは地図の下へ、別の層を重ねた。
#溺愛
桜咲かな
12
#溺愛
桜咲かな
42
「でも、その下に結界反応がある」
薄い線が地下へ広がる。
現在の王都地図には存在しない区画。
軍の古い資料にも、研究院の記録にも載っていない。
セラは、その場所を見つめた。
「エリウスの治療室です」
アデルがセラを見る。
「覚えているのか」
「完全には」
セラは答えた。
「私は建物の中ではなく、エリウスが作った層の中にいました」
「ですが、彼が外から戻る時の道は覚えています」
「同じ方向です」
アデルは頷いた。
「行くぞ」
ノノが立ち上がろうとする。
その瞬間、右側の水晶板が点滅した。
『ノノ』
ハレルの声だった。
『高瀬さんの反応が、少し乱れてる』
ノノはすぐに座り直す。
「何があった?」
『名前を口にしたあと、急に疲れたみたいだ』
『今はヴェルニが周囲を警戒してる』
画面には、寝台へ座らされた高瀬直人と、その近くに立つハレルたちが映る。
ヴェルニは扉の横に立ち、廊下と窓の両方へ注意を向けている。
ノノは数値を確認した。
「名前の反応が消えたわけじゃない」
「長く忘れていたものを急に思い出したから、身体が追いついてないだけだと思う」
「今日はこれ以上、記憶を探らないで」
『分かった』
「リオの副鍵も使わないで」
『まだ使ってない』
「そのままでいて」
ノノは隣の分析官へ指示する。
「高瀬さん側の通常監視をお願い」
「危険値を超えたら、私を呼んで」
「任せてください」
通信を切る。
今度は左側の水晶板から、日下部の声が入る。
『身体側固定層の輪郭が薄くなっています』
ノノが振り向く。
「匠さんの反応は?」
『保たれています。消えたのはCが作った表示だけです』
「なら、触らないで」
『了解しました』
ノノはもう一人の分析官へ、現実側の監視も任せた。
アデルが言う。
「無理に全てを見る必要はない」
「分かってる」
ノノは立ち上がった。
「だから、みんなに手伝ってもらってる」
以前なら、誰かに任せるより自分で見た方が早いと考えていただろう。
だが、失踪者は一人ではない。
匠の身体。
高瀬直人。
ハレルたちの帰還。
現実側へ転移したかもしれない異世界人。
エリウスの研究。
すべてを一人で抱えることはできない。
セラがノノの隣へ並ぶ。
「私も行けます」
「高瀬さんの方は?」
「表面の案内線だけ残します」
「異常があれば、すぐに戻れます」
アデルは四人を見回した。
「旧東部治療区画へ向かう」
◆ ◆ ◆
【異世界・王都東部/旧治療施設・夕方】
旧治療施設は、王都軍の倉庫として使われていた。
外壁には新しい補修跡がある。
だが、建物の土台は古い。
現在の王都が再整備されるより前に作られた石が、そのまま残っている。
倉庫の管理兵が扉を開けた。
中には医療用の布、薬草、古い武器や防具が積まれている。
「地下室があるという記録はありません」
管理兵が言った。
ダミエは答えず、床へ片膝をついた。
右手を石床へ当てる。
薄い青色の線が、指先から広がった。
床の形。
壁の位置。
内部を通る魔力。
現在使われている倉庫の結界が、一つずつ浮かび上がる。
「上から新しい結界を重ねている」
ダミエが言った。
「王都軍が使っている保管結界?」
イデールが尋ねる。
「それもある」
ダミエは床の一部を指した。
「だが、その下に二つ残っている」
一つは、ヴァルドが使っていた形式に近い境界固定術。
通路を閉じ、場所そのものを記録から外すための結界。
そして、そのさらに下。
もっと細く、柔らかい線。
「古い」
ダミエの表情が変わる。
「ヴァルドの術より前のものだ」
セラが床へ近づく。
古い線が、彼女の光に反応した。
《安全》
《停止》
《偽の声》
以前確認した、エリウスの案内標識。
「ここです」
セラが言った。
「この下に、エリウスが使っていた場所があります」
アデルは管理兵へ命じる。
「倉庫内の者を全員外へ出せ」
「この施設を一時封鎖する」
兵士たちが荷物の間から退出していく。
アデルはダミエを見る。
「開けられるか」
「新しい結界だけなら」
ダミエは立ち上がった。
「だが、下の案内層は壊さない方がいい」
「エリウスの術だからか」
「それだけではない」
ダミエは古い線を追う。
「この結界は、侵入者を拒んでいない」
「入る者が何をするつもりか、待っている」
イデールが言う。
「本人の選択を残す術式」
セラが頷く。
「エリウスは、治療を受ける者にも必ず尋ねました」
「生きたいのか」
「今の身体へ戻りたいのか」
「戻れない場合、どこまでなら受け入れられるのか」
「本人が答えるまで、術式は最後の部分を閉じません」
ダミエは床の線を見た。
「現在の王都軍の固定術は逆だ」
「術者が結果を決め、最後まで閉じる」
ノノが言う。
「ヴァルドが変えたんだと思う」
「空白を残すと、制御できないから」
「本人が何を選ぶか分からないから、先に答えを入れる形へ変えた」
アデルの声が低くなる。
「奪っただけではない」
「都合のいい形に作り替えた」
ダミエはヴァルドの結界へ両手を向ける。
「外側だけ外す」
「内側の線には触れないでくれ」
青い魔術紋が広がった。
〈解層・第三環〉
新しい結界が、一枚ずつ剥がれていく。
倉庫の床に細い亀裂が走った。
石が崩れたのではない。
床の一部が、自分は扉だったことを思い出したように沈んでいく。
地下へ続く階段が現れた。
◆ ◆ ◆
【旧治療施設/地下研究区画・夕方】
階段の下には、小さな廊下が続いていた。
壁には薬品棚。
割れた水晶容器。
治療器具。
長期間閉ざされていたはずだが、内部の物は完全には朽ちていない。
イデールが棚に残る道具を調べる。
「これ……」
細い銀の輪。
患者の頭部や胸へ取りつけ、意識反応を測定するための器具だった。
現在の王国医療棟でも似た装置が使われている。
「形は古いけど、構造は同じね」
イデールは奥に刻まれた記号を指す。
「王国医療棟では、オルガの補助分析式として登録されている」
ノノが器具へ近づく。
「でも、こっちの方が古い」
「ええ」
イデールは別の器具も確認する。
負傷者の意識が身体から離れないように支える輪。
偽の痛覚や記憶を分離する水晶。
本人が名前を答えられない時、
急いで別の名前を与えず、反応が戻るまで保護する小さな箱。
どれも、現在使われている医療技術の原型だった。
「エリウスは治療術師でもあったのか?」
アデルが尋ねる。
「通常の治療術師とは違わね」
イデールが答えた。
「身体だけを治すのではなく、身体と意識の結びつきを治療していた」
「だからセラを救えた」
廊下の最奥に、小さな研究室があった。
机。
椅子。
壁一面の記録棚。
だが、紙も研究記録もほとんど残っていない。
持ち去られた跡がある。
棚の一部だけ色が違い、そこに多くの資料が置かれていたことが分かる。
アデルは空の棚を見た。
「オルガたちが持ち出したのか」
セラが室内へ入る。
「はい」
声は静かだった。
「この部屋です」
「エリウスは、ここで記録を書いていました」
「私の状態も」
「戦争で負傷した人たちのことも」
「層の中で名前を失いかけた者のことも」
セラは机へ手を伸ばす。
だが触れる直前で止めた。
机の上には、何もない。
それでも、彼女にはエリウスがそこへ座っていた姿が見えているようだった。
ノノが室内を解析する。
「記録は持ち出されてる」
「でも、全部じゃない」
床の下に弱い反応がある。
ダミエが調べると、机の真下に小さな結界層が隠されていた。
「保管庫ではない」
ダミエが言った。
「避難層だ」
セラの輪郭がわずかに揺れる。
「エリウスが残したものです」
「何を入れる層だ」
アデルが聞く。
「記録ではありません」
セラは答えた。
「名前を失った意識を、一時的に守るための場所です」
ノノは、層の表面に残る反応を拡大した。
古い。
エリウスが生きていた頃の反応。
その上に、別の新しい痕跡が重なっている。
細い白い線。
誰にも選ばれていない道を通り、層の中心へ触れている。
ノノの顔が変わる。
「これ……」
セラも同じものを見ていた。
「reの線に似ています」
アデルが振り向く。
「reがここへ来たことがあるのか」
「分かりません」
ノノはすぐには断定しなかった。
「reの今の状態が来たわけじゃない」
「スマホの中に現れる前」
「もっと前の状態で、この層へ触れた可能性がある」
セラが避難層へ手を近づける。
層の中から、一瞬だけ白い光が返った。
言葉ではない。
名前でもない。
ただ、何かがここで守られていた痕跡。
「エリウスの層は、意識を作りません」
セラは言った。
「すでに存在しているものを、一時的に守るだけです」
ノノが白い痕跡を見る。
「なら、何かがここへ来た」
「名前も、身体も、役割も弱くなった状態で」
アデルは、何もない空間を見つめる。
「葛原レアが消えたあとか」
答えは出ない。
レアがパイソンとともに消えたあと。
その身体や役割から離れた何かが、この層へ触れたのか。
それとも、まったく別の意識だったのか。
まだ決めることはできない。
その時、ノノの通信石が強く光った。
保護施設を監視していた分析官からの連絡だった。
『ノノ分析官』
『高瀬直人の周辺で、外部反応を確認しました』
ノノがすぐに通信を開く。
「C?」
『判別できません』
『保護施設の外側に、大きな転移反応があります』
アデルの表情が変わる。
「ジャバか」
セラの一部が、高瀬側の案内線へ戻る。
『ヴェルニさんが、すでに警戒態勢へ入っています』
ノノは水晶板を開いた。
王都外縁。
保護施設。
その周囲へ、黒い反応がいくつも現れている。
まだ攻撃は始まっていない。
だが、何者かが高瀬直人の位置を囲み始めていた。
アデルは踵を返す。
「ダミエ、この区画を封鎖しろ」
「イデールは見つけた器具と記録を保全」
「ノノとセラは、ここからハレルたちを支援しろ」
「アデルは?」
イデールが尋ねる。
「保護施設へ向かう」
アデルは左手首の副鍵へ触れた。
「エリウスの研究を調べることも必要だ」
「だが、その研究が守ろうとした人間を、今ここで奪わせるわけにはいかない」
地下研究区画の奥で、エリウスの避難層が淡く光っている。
失われた研究者が残した術。
名前を奪われた者を、本人へ戻るまで守るための層。
その存在を確かめた直後。
王都外縁では、最初に見つけた失踪者を巡る戦いが始まろうとしていた。
コメント
1件
うわ…第257話、すごく重くて、でも温かい話だったね…。 ノノたちがエリウスの地下研究区画を見つけたシーン、特に机の上の避難層に残ってた白い痕跡。reの線に似てるって言われて、胸がぎゅってなったよ。エリウスが「名前を失った意識を一時的に守るための層」を残してたって、その優しさが沁みる…。 でも一番響いたのはアデルの「その研究が守ろうとした人間を奪わせるわけにはいかない」って言葉。エリウスの意思を継ぐってこういうことなんだなって思った。高瀬さんの周りにまた黒い反応…次が本当に気になるよ。