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第10話:おわらない手紙
今日も、私は祖父の家に来た。
けれど、もうページは増えていない。
本は開かれたまま、昨日と同じ場所に置かれていた。
西陽だけが変わらず、静かに文字の跡を照らしている。
そっとページをめくる。
新しい言葉は、どこにもなかった。
でも、気づく。
すべてのページの端に、わずかに共通していた“何か”があった。
「みていた」
「おぼえている」
「ありがとう」
はっきりと書かれていたわけじゃない。
でも、それらの言葉が、文字と文字の隙間から、確かに伝わってきた。
祖父は、私を見ていた。
黙って、そばにいてくれたことを、覚えていた。
そして、自分では言えなかった“ありがとう”を、ずっと胸にしまっていた。
*
私は祖父の姿を思い出す。
作業着の上に羽織ったジャケットは、肘のところがすこし擦れていた。
ポケットにはいつも飴玉がひとつ入っていて、私が泣くたびにそれを差し出してくれた。
笑わない人だった。
でも、私が笑っているとき、祖父の目元だけはやさしくゆるんでいた。
その目が、今もどこかでこちらを見ている気がした。
*
私はそっと、最後のページをひらく。
真っ白だった。
けれど、光の加減で、うっすらとにじむ一文字が見えた。
「い」
インクの染みが時間とともに紙へとしみ込んだような、かすかな跡。
意図して書かれたものなのか、それとも本が“最後ににじませた”ものなのかはわからない。
「い」——
それが「いえなかった」なのか、「いのち」なのか、「いま」なのか。
答えは書かれていない。
ただ、そこに確かに存在していた。
*
私は本をそっと閉じた。
革の表紙が手のひらに温かくなじむ。
部屋の外で、風が鳴った。
風鈴がひとつだけ、音を立てた。
祖父の家は、静かすぎるほどに静かだった。
でも、その静けさが、きっと祖父の「願い」だったのだ。
何も起きないこと。
誰にも責められないこと。
誰かが泣き出したりしない、穏やかな時間。
そのすべてが、祖父にとっての安らぎだったのだと思う。
*
私は最後にもう一度、本を抱えて立ち上がった。
西陽が窓の隅を照らしている。
背後で何かがふわりと揺れた気がして、振り返る。
でも、誰もいなかった。
ただそこに、おわらない手紙が静かに、たしかに、残されていた。