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「では、今日の話し合いはこれまでにしましょう。気分は良くなりましたか?」
「はい、お陰様で」
大きな心配事が解消されそうだからか、のし掛かるような心労がなくなり、気持ちが明るくなっている。
ウィルに振られた事が原因で自分に自信を持てないのはそのままだけれど、副社長が相手なら、料理を作って恋人のふりをするぐらい、どうって事はないと思えた。
それぐらい、彼に大きな恩を感じているからだ。
「心配事が減って安心したでしょうから、今日は帰ったらちゃんと食べて、ゆっくり寝てください。……女性に見た目の事を言うのは失礼ですが、メイクで誤魔化していても、目の下のクマが気になります。採用されたらフロントで働くのですから、それまでに健康体に戻ってください」
「分かりました」
……バレてたか……。
出がけに一生懸命、コンシーラーやハイライターを塗って誤魔化したけれど、日常的に人を〝見る〟立場にある人はすぐ分かってしまうのだろう。
「……それでは、失礼いたします。助けていただいた事も、店の事も、何から何までありがとうございます」
私は立ちあがって頭を下げる。
「まだ終わっていませんからね。ご家族を説得したあと、私とあなたの契約恋人生活が始まります。……これは始まりです」
ソファに座ったままの副社長は意味深な笑みを浮かべて言い、私は少し頬を染めつつ「はい」と頷く。
「帰り、ハイヤーを呼びますか? 料金は持ちますよ?」
スイートルームの出入り口でそう言われたけれど、そこまでお世話になる訳にいかない。
「大丈夫です。帰りに何か美味しい物でも食べて、ゆっくり帰路に着きます」
「分かりました。気をつけて」
副社長は微笑むと、勇気づけるように私の肩をポンポンと叩いた。
「失礼いたします」
私はもう一度彼に頭を下げ、エレベーターホールに向かった。
**
帰宅した私は、母に今日あった出来事を打ち明けた。
勿論、恋人契約の詳細については触れなかったけれど、副社長が言っていたような伝え方をした。
母は案の定、戸惑っている。
「……いくら店のファンだとはいえ……、二億もの借金を肩代わりしてもらうなんて……」
「気持ちは分かるよ。私も困惑したもの。……でも、これ以外に道はないと思うの。私が〝エデンズ・ホテル東京〟へ面接に行き、副社長と出会ったのは、お父さんを亡くした私たちに、神様が与えてくれた幸運だと思ってる。地獄に仏って言うじゃない。……縋れる時に縋っておこうよ。こんなチャンス、もう二度と巡ってこないと思うよ? 副社長は何とかして店を守って、お父さんの味を継いでくれようとしてる。……私たちの生活だって助かるんだよ?」
私は必死に母に訴える。
「どれだけ頑張ったって、私たちはお父さんみたいに蕎麦を打てないし、二億ものお金を返せない。『他人に迷惑をかけたくない』とか『関係ない人を巻き込むべきじゃない』と思ってるのは分かる。……でも、向こうもビジネスとして買収すると言ってるの。経営に行き詰まって老舗ホテルが、素晴らしい立地そのままで買収されて生まれ変わり、従業員はそのまま雇用してもらう事例だって沢山あるんだよ。……個人として『申し訳ない』とか思う前に、私たちの生活と店の未来を考えて」
語気を強めて言うと、以前よりずっとやつれた母は少ししてから「……そうね」と頷いた。
「店がなくなる訳じゃないし、私たちもこの家を出なくて済む。……副社長を信じよう?」
母は小さく頷いたあと、緩慢に顔を上げて私を見た。
「……芳乃は家政婦として働く事を了承してるの? あなたはずっとホテリエとしての自分にプライドを持っていたでしょう? ……無条件で二億ものお金を出せないのは分かるけど、これじゃあまるで娘を売ったみたいだわ」
母は最後にそう言ったあと、涙を滲ませる。
「私の事は気にしないで。もう大人だよ? 自分の事ぐらい、自分で決めるよ。そもそも私たちを助けようとしてくれている副社長が、人の道を外れた事をするはずがない。ちゃんと契約書を作ってくれるみたいだし、ちゃんとそれを確認するから安心して。……それに家政婦として働く事で副社長が満足するなら、問題ないじゃない」
私はあえて明るく言う。
すると少ししてから、母はゆっくりと頷いた。