第1章『檻の中の声』
【あらすじ】
閉ざされた研究所。
「動物と心を通わせる少女」ノアは、世界から隔離され、ただの実験体として生きていた。
唯一心を許せるのは、檻の向こうの黒いオオカミ――ルウ。
だがある夜、侵入者が現れ、運命の歯車が動き出す。
「君を、この檻から連れ出しに来た」
その一言が、ノアの心に火を灯す。
――少女は、初めて“自分の意思”で、世界を選ぼうとした。
今、ひとつの檻が壊れ、空へと続く物語が始まる。
【静寂の檻】
深夜。静まり返った研究施設の空気は、まるで凍りついたように冷たかった。
白く光る無機質な壁、規則的に点滅する監視灯、誰もいない廊下に響くのは機械の低い唸り声だけ。人工知能によって完全に管理されたこの空間に、“生きている”気配はなかった。
——ただ一人を除いては。
ノアは、自室の小さなベッドの上に膝を抱えて座っていた。部屋と言っても、それは実質的には観察室だった。三方を分厚い強化ガラスで囲まれ、カメラが天井にいくつも設置されている。プライバシーなど存在しない。ただ、彼女が“何をどう感じ、どう反応するのか”を記録するための箱。
そんな生活には、もう慣れていた。生まれたときからここにいたのだから。
ノアは、ベッドの横に置かれた端末に指先をそっと触れる。すると、壁の一部が透けて向こう側の檻が見えた。
そこにいるのは、一匹の黒いオオカミ。
“ルウ。”
ノアの心が、そっと彼に呼びかける。言葉ではなく、もっと根源的な“なにか”で。
ルウは動かず、じっとノアの方を見つめていた。鋭い瞳の奥にあるのは、理性でも本能でもない。“意志”だった。
檻越しに、ノアとルウは会話をしていた。声はない。だが、確かに伝わっていた。
(今日も、実験……疲れた……)
ノアが心の中でつぶやくと、ルウは一度だけ瞬きをした。彼なりの「聞いている」という返事だ。
(あなたがいてくれて、よかった)
ルウは、黙って前足を一歩だけ檻の手前に出した。それは、ノアにとっての慰めだった。
誰もが、彼女を“対象”としか見なかった。研究員たちは無表情で数字を並べ、データを記録するだけ。笑いかける者も、怒る者もいなかった。
けれど、ルウだけは違った。
ノアは知っていた。彼の中には、確かに“心”があると。
——なぜなら、それを“感じる”ことができるから。
彼の痛み、怒り、悲しみ、そして、微かな優しさを。
ノアは、自分の存在が特別であることを、ずっと前から知っていた。
けれど、それを「誇り」と思ったことは一度もなかった。
自分の力は、人のために使われる道具でしかない。それが、ここでの“正しさ”だった。
でも、もし——この檻の外に、違う世界があるのだとしたら?
そんなことを考えてはいけない。それは“危険思想”として、記録されるから。
ノアは膝を抱えたまま、天井の明かりを見上げた。薄くまぶしい白い光が、まるで「外の世界」を嘲笑うように彼女の視界を覆っていた。
でもそのとき、ルウの視線がふと、別の方向へ向いた。
鋭く、警戒するような目。ノアもすぐに気づいた。
誰かが、近づいている。
深夜、見回りの時間は終わっているはず。だとすれば——?
研究施設に、異変が忍び寄っていた。
【声を聴く少女】
ノアはそっと立ち上がり、足音を立てないように部屋の端まで歩いた。
端末を操作すると、モニターに施設内のセキュリティカメラ映像が映し出される。彼女の部屋には、監視側のアクセス権限の一部が与えられていた。研究対象の自発的な行動を観察するという名目で。もっとも、それは彼女をさらに監視するための口実だったのだけれど。
ノアの目が、廊下の一角で異常な動きを捉えた。
人影が、ある。
黒いコートに身を包み、ゆっくりと慎重に歩を進める人物。
一瞬、カメラが捉えたその横顔に、ノアの胸がざわめいた。
(……知らない人。でも、どこかで……)
ノアがじっと画面を見つめていると、不意にルウが低く唸った。
いつもは無口な彼が、音を出すなんて滅多にない。
その唸りには、“警告”と“緊張”が入り混じっていた。
ノアは檻の方を見やると、ルウと視線がぶつかった。
(あの人、危ない?)
ルウは首をかしげたように見えたが、次の瞬間——
(わからない。でも、何かが変わる)
そんな“感情”がノアの胸に伝わってきた。
彼女は静かにうなずき、自分の中にある“能力”に意識を向けた。
それは、五感を超えた“第六感”のようなもの。
言葉を介さずに、感情や意志を読み取る力。
通称——共鳴の声。
ノアは深呼吸して目を閉じ、施設全体に意識を広げた。
機械の気配、監視カメラの視線、壁の向こうの空気の震え——
そして、動物たちの気配が、心に波のように押し寄せてくる。
(……怖がってる。小動物たちが……)
施設のあちこちにいる実験動物たちが、何かに怯えている。
その震えが、まるで自分のことのように胸を締め付ける。
そのときだった。
(……“ノア”……)
突然、心の中に“声”が届いた。
それは言葉ではなかった。音でもなかった。
けれど、確かにノアの名を呼んでいた。
(だれ……?)
彼女の心が揺れた瞬間、視界が揺らぎ、何かが見えた。
赤い空。枯れた森。焼け焦げた大地。
そして、そこに立つ——“神”のような存在。
ノアは思わず膝をついた。強烈な頭痛とともに、その幻影は消えた。
(いまの、なに……?)
ノアは額を押さえて震える。その様子を、ルウが黙って見ていた。
ルウの目には、何かを確信したような色が浮かんでいた。
(ノア……きみは、選ばれたんだ)
彼の心が、そう囁いているような気がした。
そのとき、警報が小さく鳴った。
“施設内に異常接近者。警戒レベル2に移行します。”
ノアは顔を上げた。額から汗がつたう。
いま、何かが変わり始めている。
それだけは、はっきりとわかった。
【闖入者】
警報が鳴るのと同時に、施設内のライトが赤く点滅を始めた。
ノアの部屋も例外ではなく、不穏な色がガラスに反射し、彼女の表情を血のように染めた。
「施設内に不審者が侵入。警備ドローンを展開します。全研究員は所定の避難ルートに従って行動してください」
合成音声が繰り返し響く中、ノアは震える手で端末を閉じ、壁の向こうにいるルウを見つめた。
彼は微動だにせず、扉の奥をじっと見据えている。
「……来る」
ノアがそうつぶやいた瞬間、ドアのロック音が響いた。
キィィィィ——。無機質な音とともに、重厚なドアがゆっくりと開いていく。
現れたのは、黒いコートに身を包んだ中年の男だった。
白髪まじりの髪に鋭い眼光。だが、その目はノアを見た瞬間、わずかに和らいだ。
「やっぱり……君だったか」
その声は、懐かしい響きを持っていた。ノアには覚えがなかったが、どこか深いところに響いてくる声。
「……あなた、誰?」
警戒しながら問うノアに、男は答えた。
「クロード。……君をここから連れ出しに来た、昔の“落ちこぼれ科学者”さ」
ノアの目がわずかに見開かれる。クロード。その名は、幼い頃に一度だけ耳にしたことがあった。
この施設で働いていたが、ある事故のあとに消えた“裏切り者”。
「……なんで、わたしを?」
「君には“声”が聴こえる。それが、どれほど貴重で……どれほど、危険な力か。君は知らない。だが……」
クロードは歩み寄り、ガラス越しにノアと向き合った。
「このままここにいたら、君は“兵器”にされる。いずれ、神を模した人間の道具として使い潰される」
ノアの胸が、凍ったように締めつけられた。
(私は、ただ話せるだけ……それだけなのに……)
クロードは懐から小型の装置を取り出す。ボタンを押すと、部屋中の警報が一瞬で消え、ガラス壁がスッと音もなく開いた。
「君を連れ出す。この世界の終わりを防ぐために。そして、君自身が……“選ばれた存在”である理由を知るために」
その言葉の重みに、ノアは立ち尽くした。
知らない人。けれど、どこか懐かしい声。
ルウがその場を動いた。ゆっくりと立ち上がり、檻の中からガラスの方へと歩く。
その瞬間、檻の鍵が自動的に開いた。
——機械が、意思を持ったように。
ノアが驚く間もなく、ルウが一歩、また一歩と、彼女の隣へと近づいてくる。
(……どうして?)
問いかけるノアに、ルウの心が応えた。
(ここに留まる理由は、もうない)
クロードはわずかに微笑む。
「よし。ノア、君が選ぶんだ。君自身の意思で、ここを出るかどうかを」
その言葉に、ノアは静かにうなずいた。
たとえ罠でも、間違いでもいい。
このまま“使われるだけの存在”でいるより、自分の足で未来を選びたい。
ノアは一歩、前へと踏み出した。
その瞬間、空調の音すら止まったような静寂が、部屋を包んだ。
少女は、檻の外の世界へと——一歩目を踏み出したのだった。
【決意の牙】
ノアが一歩踏み出した瞬間、施設の奥から再び警報が鳴り響いた。
「侵入者を確認。セキュリティレベルを最大に引き上げます。迎撃ドローン、起動」
冷たい機械音と共に、床から数体の戦闘用ドローンが姿を現した。
鋭利な脚部と銃口のような目。生体と見なした標的を無慈悲に排除する、純粋な“殺しの機械”。
クロードはノアの前に立ち、すかさず装置を投げつけた。
バシュンッ!と煙が広がり、ドローンたちの視界を遮る。
「ノア、走れ!」
その言葉に、ノアは動けなかった足をようやく動かす。
だが、彼女が走り出す前に、ルウが前に出た。
「ルウ……!」
次の瞬間、ルウの体が宙を舞った。
信じられない速さだった。
黒い影が、まるで風のようにドローンの間を駆け抜け、鋭い爪で一体を切り裂く。
電光石火。反応すら許さない速攻だった。
(——これが、あなたの“本気”)
ノアの心に、彼の意思が伝わってくる。
“君が前に進むなら、俺は牙を向ける。それが、俺の役目だ。”
クロードも背中から取り出した銃で、ドローンの足元を正確に撃ち抜く。
科学者とは思えない手際の良さ。
「こっちは慣れてるんでね。案外、昔は現場派だったんだよ」
そう言って笑うクロードの顔に、ノアはほんの少しだけ“安心”を感じた。
逃げ道は用意されていた。施設の構造を把握したクロードが、非常用メンテナンス通路を経由して脱出口を作っていたのだ。
「ルウ、ノアを守れ! 俺が後ろを見る!」
ルウは振り返りもせずに、ノアの隣を並走する。
(……怖くない?)
ノアが問うと、彼はすぐに返した。
(“怖い”と“守りたい”は、別の話だ)
その言葉に、ノアの胸が熱くなる。
ふたりは連携しながら、施設内の通路を駆け抜けた。
背後で爆発音と金属音が鳴り響く。
クロードが遅れながらも、正確に追いかけてくる。
「この先だ!」
通路の終端、隠された扉の奥には——地上へと続くリフト。
3人が飛び込んだ瞬間、扉が閉まり、リフトが上昇を始めた。
ノアは息を切らせながら、震える声で問う。
「これで……終わったの?」
クロードはかぶりを振る。
「いや、ここからが始まりだ。ノア」
「……わたしは……本当に、“選ばれた”の……?」
ルウは静かに答えた。
(それを決めるのは、お前自身だ)
リフトが上がる先に、夜空の広がる地上が見えてきた。
ノアは手すりを強く握りしめ、瞳を細める。
自分の意思で、初めて掴んだ自由。
でもそれは、無数の選択肢と、未来の重みを背負うということでもあった。
それでも、彼女の目は——前を見ていた。
【空を仰いで】
リフトの扉が開いたとき、ノアの目に飛び込んできたのは——
夜空だった。
何も遮るもののない、広くて、深くて、静かな空。
天井でもモニターでもない、本物の夜。星が瞬き、冷たい風が頬を撫でた。
「……これが、空……」
ノアは立ち尽くして、空を仰いだ。
自分が生まれて初めて目にした“世界”の広さに、言葉を失う。
目の奥が熱くなり、知らず涙が頬を伝っていた。
ルウが隣に立ち、鼻先を風に向ける。
(これが、自由だ)
彼の言葉が、ノアの胸に静かに染み渡った。
後方では、クロードがリフトの非常扉をロックしながら言う。
「ここは廃棄された発電基地の跡地だ。今はもう使われていないが、逃げるにはちょうどいい」
その手には一枚のカードキー。そして、彼の腕時計には何かの信号が点滅していた。
ノアが振り返ると、クロードは微笑む。
「迎えが来る。僕たちは、空を渡る。次の場所へ」
ノアはきょとんとしながら問い返す。
「空を……渡る?」
その瞬間、空に大きな影が差した。
低く唸るような重低音と共に、空中からゆっくりと降りてくる黒い影。
巨大な浮遊船——アーク。
その姿は、まるで空を泳ぐ鯨のようだった。金属の装甲が月光を受けて鈍く光り、下部から吊り下げられた昇降ユニットが地上へと降りてくる。
「……あれが……」
「そう。僕たちがこれから乗る、“箱舟”だ」
クロードの言葉に、ノアは目を丸くする。
(箱舟……)
どこかで聞いた気がした。いや、記憶の奥底に、それに似た“音”が響いていた。
その名を呼ばれたような気がしたのだ。
(“ノア”……箱舟……)
自分の名前と、船の名が重なる。
偶然か、あるいは運命か。
ノアの中で、何かが静かに回り始めていた。
昇降ユニットが地面に着地し、扉が開く。
クロードが手を差し出した。
「行こう、ノア。君の旅は、ここから始まるんだ」
ノアはルウと視線を交わす。
ルウは無言でうなずいた。
ノアはその手を、握った。
浮遊船がゆっくりと上昇する。
ノアは足元から離れていく地面を見下ろし、そして再び、空を見上げた。
初めて見る空は、こんなにも——広く、冷たく、そして、美しかった。
この世界には、まだ知らない“未来”がある。
そのすべてを見たいと、彼女は強く願った。
こうして、少女は——檻を出た。
そして、その小さな決意が、やがて“神話”と呼ばれる物語の始まりになることを、
彼女はまだ知らなかった。
第1章・完
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