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変身

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変身

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2026年03月17日

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四月。


新歓の飲み会は、だいたいどこの大学でも似たようなものだ。


まだ互いの名前も覚えていない新入生。

やたら距離の近い先輩。

よく分からないまま回ってくる乾杯。


男はその空気に、完全に飲まれていた。


「おーい新一年!飲んでるかー!」


「飲んでまーす!!」


実際には、飲んでいるどころではなかった。


浴びていた。


グラスが空く。

先輩が注ぐ。

乾杯する。


また空く。

また注がれる。


「お前いけるじゃん!」


「いや〜全然っすよ!」


この時点で、全然いけていなかった。


男は笑っていた。

やたら笑っていた。


自分でも何が面白いのか分からないのに、ずっと笑っていた。


「ははははは!」


その五分後には泣いていた。


「いや、俺ほんと……頑張りますから……」


「どうした急に」


涙が止まらない。


その三分後にはまた笑っていた。


「はははは!」


完全に、地獄だった。


泣き上戸と笑い上戸を同時に発動する人間がいるとは、周囲も知らなかったらしい。


席のあちこちから、微妙な視線が集まる。


「大丈夫かこいつ」


「一年だよね?」


「早くない?」


男はそんなことも知らず、

ビールなのかハイボールなのかよく分からない液体を飲み続けていた。



店の奥の席。


先輩はジュースを飲んでいた。


グラスの中には、ただのオレンジジュース。


お酒は飲まない。


だからこういう飲み会では、だいたい観察役になる。


新入生が騒ぐ。

先輩が煽る。

誰かが潰れる。


それを少し遠くから眺めている。


その夜、ひとりの新入生が妙に目に入った。


やたら笑う。

急に泣く。

また笑う。


情緒が忙しい。


「大丈夫なのあの子」


隣の友達が言う。


先輩はジュースを一口飲んで言った。


「たぶん、もうダメだと思う」


その十分後。


男は本当にダメになった。


机に突っ伏していた。


笑いながら。

ときどき泣きながら。


「俺……頑張るんで……」


「何をだよ」


周囲が苦笑する。


先輩は少しだけ笑った。


その夜、あの新入生を介抱して帰ることになるとは思っていなかった。



電車には乗れたらしい。

最寄り駅までは帰れたらしい。


けれど改札を出た頃には、もう歩くことすら危うかった。


「大丈夫?」


声をかけたのは、サークルの先輩だった。


ふらつく肩を支えながら、二人はゆっくり歩いた。


家の前に着いた頃には、男は完全に限界だった。


鍵を取り出す。

鍵穴に差す。


しかし震える手が言うことを聞かない。


何度やっても入らない。


「貸して」


先輩は小さく笑って鍵を受け取った。


男は肩を預けるしかなかった。


カチ、と音がする。


鍵が開いた。


それが二人の、最悪な出会いだった。



次の日。


男はサークルで先輩を見つけると、勢いよく頭を下げた。


ほとんど土下座だった。


「本当にすみませんでした」


先輩は少し驚いて、それから笑った。


「別にいいよ」


それだけだった。


それで終わるはずだった。



男には悩みがあった。


先輩から、目が離せない。


歩き方。

笑い方。

話し声。


ふとした仕草。


どれもが気になってしまう。


俗にいう、恋だった。


しかし先輩は学年も違うし、学科も違う。

サークルでもほとんど接点はない。


それでも男は、恋を捨てきれなかった。


最初はメールだった。


なんでもない会話。

好きな音楽。

カフェの話。


少しずつ、少しずつ。


やがて二人は昼ごはんを一緒に食べるようになり、

大学の外で会うようになり、

カフェへ行き、

イルミネーションを見た。


距離はゆっくり、けれど確実に縮んでいった。



ある日の昼下がり。


カフェでコーヒーを飲みながら、なんでもない話をしていた。


ふと本の話になった。


「最近読んだ本あります?」


先輩は少し考えて言う。


「カフカ」


男は少し驚いた。


「もしかして『変身』ですか」


先輩も驚いた顔をする。


「読んだの?」


偶然だった。


同じ本を読んでいた。



それから二人は、ときどき公園に行くようになった。


昼下がりのベンチ。


コーヒー。


それぞれの本。


会話はほとんどない。


でも沈黙は気まずくなかった。


男が言う。


「もしさ」


先輩が顔を上げる。


「家族とか大事な人がある日突然、虫になったらどうします?」


先輩は少し考える。


それから小さく笑う。


「愛せると思う」


男は頷いた。


「俺も」


沈黙が落ちる。


でもそれは、不思議と心地よかった。



帰り道。

二人は美術館に行った。


家族が食卓を囲む絵。


豪華な料理。


けれど全員が仮面をつけている。


床にはゴミ。

窓は割れていた。


誰も長く見ない絵だった。


男が言う。


「変ですね」


先輩は少し笑う。


「うん」


しばらく二人は黙っていた。


「でも」


先輩は言う。


「なんか暖かい」


男は頷いた。


「分かります」


その瞬間、二人は少しだけ互いを理解した気がした。



先輩と曖昧な付き合いが4ヶ月を迎えた頃。


その日は、少し遠くの街へ行った。


大学から電車で三十分ほどの、小さな街だった。

大きな観光地でもない。けれど駅前には古い商店街があって、少し歩くと川が流れている。


なぜそこを選んだのか、男にもよく分からなかった。


ただ、先輩と一緒にどこかへ行きたかった。


電車の窓から春の景色が流れていく。


男は何度か話しかけようとして、やめた。

先輩はそんな男の様子に気づいているのかいないのか、静かに外を見ている。


やがて電車が駅に滑り込んだ。



商店街の端に、小さなカフェがあった。


木の看板と、少し古いガラス窓。

中には柔らかい音楽が流れている。


二人はコーヒーを頼んだ。


取り留めのない話をした。


授業のこと。

サークルのこと。

好きな音楽のこと。


特別な話は何もない。


でも男は、ずっと楽しかった。


こんなに普通の会話が楽しいことがあるのかと思うくらいだった。



カフェを出たあと、川沿いの公園を歩いた。


ベンチに座る。


風がゆっくり吹いている。


子どもがボールを追いかけている。


男は思った。


時間が止まればいいのに、と。


先輩が言う。


「静かだね」


「そうですね」


それだけの会話だった。


それでも、十分だった。



普段なら、日が落ちる前に帰る。


それがいつの間にか二人の暗黙のルールになっていた。


けれどその日は、帰らなかった。


夕方になり、街に灯りがつき始める。


川の水が、オレンジ色に光る。


男は少しだけ胸が高鳴っていた。


この時間が終わらなければいいのにと思った。


そして同時に、この時間が終わる前に言わなければならないことがあるとも思っていた。



帰りの電車。


終電の一つ前。


車内は静かだった。


二人は並んで座っている。


ときどき視線が合う。


どちらも少しだけ笑う。


それだけだった。



最寄り駅で降りる。


夜の空気が少し冷たい。


男は先輩を家まで送った。


玄関の前まで来て、先輩が言う。


「今日はありがとう」


そのまま帰るはずだった。


男も、そうするつもりだった。


でも、足が動かなかった。


「少し、いいですか」


先輩は不思議そうな顔をする。


男は夜空を見上げた。


星がいくつか見える。


言葉がうまく出てこない。


それでも、どうにか絞り出す。


「ずっと、好きでした」


胸の奥が、少し痛かった。


「今日のデート、本当に楽しかったです」


言葉が止まらなくなる。


「これからも、一緒にいたいです」


「二人で、いろんな景色を見たいです」


少し沈黙が落ちる。


男は続けた。


「でも」


声が少し震える。


「正直、怖かったです」


先輩は黙って聞いている。


「今日のデートも……」


男は少し笑う。


「先輩が優しいから、断れなかっただけかもしれないって」


「そういうのにつけ込んでるんじゃないかって」


自分でも、何を言っているのか分からなくなっていた。


それでも最後まで言った。


「それでも好きです」


少し息を吸う。


「先輩の彼氏にしてください」


夜が静かだった。



先輩はすぐには答えなかった。


少し考えてから言う。


「今は、まだ分からない」


男の胸が少しだけ締めつけられる。


でも先輩は続けた。


「私、今までその、経験がなくて」


「どうしたらいいか分からないの」


「だから少し、気持ちを整理したい」


それから、少し笑った。


「でも」


「君といる時間は楽しいよ」


「無理してるわけじゃない」


男は泣きそうになった。


勇気を出したからなのか。


断られなかったことへの安堵なのか。


それとも、結果を焦って全部壊してしまったかもしれないという、嫌な想像のせいなのか。


よく分からなかった。


それでも言った。


「無理はしないでください」


先輩は頷いた。


「返事」


男は少し考えてから言う。


「二週間後の飲み会のあとに聞かせてもらえますか」


先輩は少し驚いて、それから笑った。


「うん、いいよ」


帰り道。


男は一人で歩いていた。


ポケットの中に、小さな袋が入っている。


先輩がくれたクッキーだった。


たぶん手作り。


一つ取り出して食べる。


甘すぎない。


ちょうどいい甘さだった。


「……うまいな」


なぜか涙が出てきた。


どうしたんだろう。


さっきまで握っていた手が、少し震えている。


ずっと握っていたわけじゃない。


二人の体温を確かめるために、少しだけ握っただけだ。


それでも。


温もりが、まだ消えない。



告白から二週間後。


サークルの飲み会の帰り道。


夜の空気は少し冷たい。


男は肩を少し落として歩いていた。頭の中で、先輩からの返事を何度も反芻している。


「……今日、返事、聞けるのかな」


少し前まで、冷静に考えようとしていた。

でも今は、理性なんてどこかに置き忘れてしまったように、ただ胸の高鳴りだけが大きく響いていた。


先輩がふと足を止める。

「……あのさ、ちょっと寄り道してもいい?」

声が少し震えている。

男は頷く。先輩の目は、いつもより潤んでいるように見えた。


カフェの軒先に入る。店内はほの暗く、静か。

先輩は席に座ると、少しだけ手を組み、俯いたまま黙っていた。


「先輩……」

男が声をかける。


先輩は小さく息を吐き、少し目を細める。

「……ごめん、ちょっと酔っちゃったかも」

手を少し震わせながら、グラスの水を口に運ぶ。


男は席を少し詰めて座る。

「大丈夫ですよ。無理しなくて」


先輩はその言葉に少し笑った。

そして、少し勇気を振り絞るように顔を上げ、男をまっすぐ見つめる。


「……私、ずっと、好きだったんだと思う」


言葉は震えていた。けれど、その瞳は真っ直ぐに男を射抜く。

「最初は、友達として、後輩としか見てなかったけど……でも、あなたといると、安心しちゃって、甘えてしまうと思っちゃうの」


男は少し息を呑む。鼓動が耳まで届きそうだ。

「……先輩……」

言葉にならない想いを抱えたまま、男はそっと手を伸ばす。


先輩はその手を握り返す。力強く、でも少しだけ頼るように。

「……本当に、私でいいの?」

小さな声だけど、確かな決意が乗っている。


その瞬間、時間が止まったように感じた。

カフェの静けさの中で、二人だけの世界が生まれた。

すべての不器用さも、迷いも、酒で緩んだ緊張も、ここで溶けてしまった。


「……先輩」

男は小さく息を整えて、もう一度確かめるように言う。

「僕、先輩が好きです」


先輩は微笑んだ。少し赤い頬。少し潤んだ瞳。

「…よろしく、お願いします」


男は強く頷き、先輩の手を握り返した。

夜はまだ終わらない。二人の距離は、もう誰にも遮れないところまで近づいていた。



その夜。


ローファイの音が、夜の部屋にゆっくり沈んでいる。


六畳のワンルーム。


シングルベッドの上で、二人は向かい合っていた。


男は手を伸ばそうとして、途中で止める。


壊れ物に触れるみたいに、指先が慎重になる。


結局腕の中にあったのは体温じゃなく、ただの空気だった。


先輩が小さく笑う。


「そんなに緊張してる?」


「してます」


「なんで」


男は少し考える。


「大事だから」


先輩は少し黙った。


それから言う。


「もし私が虫になったら?」


男は少し笑った。


「コーヒー淹れますよ」


先輩は少しだけ笑った。


「それなら大丈夫」


先輩の方から、そっと唇が重なる。


ローファイの曲が静かに流れている。


毛布の中の空気が、ほんの少し温かくなる。

夢の中みたいに、目を閉じるのを忘れていた。


きっと、間の抜けた顔をしている。

たぶん、先輩も。


「なんか寒い、ね」


わざとらしく先輩が言う。


「布団に潜ったらいいんじゃないですかね」


口に出した瞬間、自分で自分に呆れる。


あまりに奥手が過ぎる。


それでも世界は、驚くほど静かだった。


音も光も、どこか遠くへ行ってしまったみたいだ。


シングルベッドの上に、小さな世界がある。


そこにいるのは、たった二人だけ。


その世界を、先輩がふわりと持ち上げた。


毛布が少し浮いて、二人を包み込む。

暗くて柔らかい、小さな空間。


気づけば、鼻と鼻が触れそうな距離で見つめ合っていた。


「私、君だったら大丈夫だよ?」


一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。


いや、本当は最初からわかっていたのかもしれない。


そのあと、言葉が追いつく。


「自分って不甲斐ないですね。意気地なしで、不器用で。」


先輩は少し首を傾げて、笑った。


「そうかな、私は大胆な人だって思ってた、よ?」


「まさか」


「まさかだよ。だって君が私を連れ出したんでしょ?」


「それは、その、まぁ……はい。」


先輩は少し考えるように目を細めて、それから言った。


「私のさ、君の好きなところは優しいとこ。嫌いなところは優しいとこ。だよ?」


「矛盾してませんか、それ」


「君が言うかな、それ。」


先輩はまた笑って、少しだけ距離を詰める。


毛布の中の空気が、ほんの少し温かくなる。


ローファイの曲がまた静かに流れている。


明日の予定は、何かあっただろうか。


そんなことを考えながら、男は思う。


世界はゆっくりと変わっていってしまう。だが、それすらも愛おしくなっている。


この夜が、もう少し長く続けばいいのにと。

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