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翌朝。長かった夜をなんとか乗り越えたエステルは、すやすやと眠るアルファルドを起こさないようにベッドから抜け出て、急いで身支度を整える。
カーテンを開け、部屋に陽の光を入れると、アルファルドも目を覚ました。
「……おはよう、エステル」
「お、おはようございます。よく眠れましたか?」
わたしは眠れませんでしたが、と思いながら尋ねると、アルファルドが小さく微笑んだ。
「ああ。ミラが君は花の匂いがすると言っていたのがよく分かった」
「なっ……!」
一晩経っても、アルファルドの様子はまだおかしいようだ。
今日はもう家に帰るつもりだと言うのに、こんな調子では不安しかない。
「わ、わたしは先に食堂に行ってますから、アルファルド様も着替えたら来てくださいね」
「分かった」
寝起きで無防備な姿のアルファルドから目を逸らし、エステルは逃げるように部屋を出ていった。
◇◇◇
朝食をたくさん食べたおかげで、エステルはいくらか落ち着きを取り戻した。
宿屋を出て、アルファルドと二人で商店街へと向かう。
「それじゃあ、今日は食料などを少し買いだめして帰りましょうか」
「そうだな。私は本も買いたいのだがいいだろうか」
「もちろんです。では、アルファルド様は本屋に行ってきてください。その間、わたしも野菜とかお肉とか見てきますので」
「分かった。だが、一人で大丈夫か?」
アルファルドが気遣わしげにエステルに尋ねる。 一緒についてきてくれそうな雰囲気だったが、エステルはやんわりと断った。
「大丈夫です。気ままに見て回りたいですし、ちょっと一人で考えごともしたいので……」
ミラのことを一人でちゃんと考えて消化したかった。
それに、アルファルドと二人でいると昨晩のことを思い出してしまうので、一旦距離を置きたかったのだ。
アルファルドも思うところがあったのか、食い下がるようなことはなく、エステルの提案を受け入れてくれた。
「分かった。では、またあとで待ち合わせよう」
「はい、二時間後には戻ってきますね。あ、アルファルド様は本を買う前に、ちゃんと中身を確認してください」
「……分かった」
◇◇◇
アルファルドと別行動になったあと、エステルはまず昨日ミラと一緒に歩いた場所を巡ることにした。
公園に行き、ブランコに座ってみたり、池の水面を素知らぬ顔で泳ぐ鴨を眺めたり、追いかけっこで走り回った場所を歩いてみたりした。
(ミラがいないなんて信じられない……)
ミラの可愛い姿や声、一緒に過ごした日々を思い返すと、寂しくてたまらなくなる。
でも、ミラは言っていた。
──この姿ではいられなくなっちゃうけど、僕が消えちゃうわけじゃないから。
──今までの思い出も忘れないし、あるべき正しい姿に戻るだけ。
(そうよ、ミラはミラだけど、元はアルファルド様なのよね……)
小さくて可愛いミラが大好きだった。
けれど、あの姿はアルファルドが15年という長い時間を理不尽に奪われてしまったことの象徴でもある。
そう考えると、ミラが少しでも楽しい思い出を抱えたままアルファルドの心に戻れたことは、やはり良かったのだと思えてきた。
(いつまでも悲しんでいたら、またミラを困らせちゃうわよね)
エステルが立ち止まって空を見上げる。
「よし、そろそろ買い出しに行きましょう」
商店街に移動して、あちこちお店を見て回る。
「わ、見たことないお野菜がある。ちょっと高いけど買ってみちゃおうかしら」
実際に買う前に、どこのお店が安いか確認しておこうと歩き回っていると、ふと足元を白い何かが横切ったのに気がついた。
(あっ、昨日の白猫ちゃん)
白猫はすました顔で、すぐそこの脇道へと入っていく。
(どこに行くのかしら)
エステルは、昨日ミラと一緒に白猫をなでたことが懐かしくなり、またあのふわふわの毛をなでさせてもらいたくなってしまった。
白猫の後を追ってエステルも脇道へと入る。
「猫ちゃん、今日もなでなでしてもいい?」
エステルが呼びかけると、白猫はくるりとエステルのほうを振り返った。
そして、何かに怯えるかのように姿勢を低くして身構えたあと、一目散にどこかへと行ってしまった。
「行っちゃった……」
昨日はあんなに人懐っこかったのに、今日は機嫌でも悪かったのだろうか。
残念だが、猫は気まぐれなものだし仕方ない。
戻って買い物を再開しよう。
そう思って大通りへと戻ろうとしたエステルだったが、踵を返そうとした瞬間、突然背後から体を抱きしめられ、全身がこわばった。
(な、何……!?)
まとわりつく腕を振りほどこうと暴れるが、きつく締めつけられていてびくともしない。
平和な町だと思っていたのに、まさか強盗だろうか。
「お、お金ならあげますから、離して……!」
顔の見えない男に必死で訴えると、男はエステルの鼻と口に湿った布をあてながら、柔らかな声で言い返した。
「そんなもの要らないよ。僕が欲しいのは君だけだから、エステル」
(この声は──)
聞き覚えのある声にゾワッと鳥肌が立つ。
早く逃げなくては。
そう思うのに、体に力が入らなくなる。
(アルファルド様……)
心の中で彼の名を呼んだのを最後に、エステルの意識は途切れたのだった。