テラーノベル
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健一が自室にこもってから、もう一時間が経つ。
リビングのソファで、私は丁寧にネイルを塗り替えながら
手元の「ナオミ用スマホ」が震えるのを待っていた。
案の定、画面に健一の名前が浮かび上がる。
メッセージではない、通話だ。
私は一度わざと無視し、二度目の着信でゆっくりと立ち上がった。
バスルームへ向かい、鍵をかける。
シャワーの音を少しだけ流して、生活音を消す。
「……もしもし?」
私は喉の奥を少しだけ絞り、普段の奈緒よりも一段階高く
そして吐息を混ぜたような、艶のある声を出した。
20代の頃、合コンやデートで無意識に使っていた、男を惑わす「ナオミの声」だ。
『……っ、ナオミさん!? 出てくれた……!』
健一の声は、泣き出しそうなほど切羽詰まっていた。
壁一枚隔てた隣の部屋にいる夫が、電話越しに私に縋っている。
この滑稽な状況に、笑いが込み上げそうになるのを必死に堪える。
「夜遅くに、どうされたんですか? 健一さん」
『すみません……。でも、どうしてもナオミさんの声が聞きたくて。俺、今すごく辛いんです。周りは敵ばかりで、信じられるのはあなたしかいないんだ』
(敵ばかり? 自業自得でしょうに)
私は鏡に映る自分を見つめ、冷ややかに微笑んだ。
「まあ……。何か、悲しいことでもあったんですか?」
『……妻とは、もう終わってるんです。でも、あいつは何も分かってなくて、ただ居座ってるだけで』
『それに、昨日話したあの女も……。俺、本当はもっと、ナオミさんみたいな心根の綺麗な女性と、一からやり直したいんです』
健一の言葉は、スラスラと「被害者」を演じていた。
私が今まで彼のために捧げた時間は
彼の中では「居座っているだけ」の一言で片付けられてしまうらしい。
「一から、やり直し…?でも、私、健一さんのことをまだよく知りませんし……」
『知ってほしいんです! 今度、会えませんか? 顔を見て、ちゃんと話したい。俺のこれまでの努力や、今の孤独を……聞いてほしいんです』
(いいわ。その「絶望」を、私の顔を見て味わわせてあげる)
「…分かりました。でも、私、少し恥ずかしがり屋なので。……来週の金曜日、あのアークホテルのラウンジなら。ただし、短時間だけですよ?」
『本当ですか!? ありがとうございます、ナオミさん! 最高のプレゼントを用意していきます!』
電話を切った後、私はシャワーの音を止め、ふっと長い息を吐いた。
健一は今頃、ナオミとの「初デート」に浮かれ
里奈に渡すはずだった手切金や、生活費に手をつけてでも見栄を張ろうとするだろう。
バスルームを出てリビングに戻ると、ちょうど健一が部屋から出てくるところだった。
彼の顔には、隠しきれない高揚感が張り付いている。
「おい、奈緒」
「……何?」
「来週の金曜、帰りが遅くなる。飯はいらないからな」
あんなに憔悴していたのが嘘のように、彼は鼻歌まで歌いながら冷蔵庫からビールを取り出した。
私を「終わった女」として、完全に空気扱いするその態度。
(ええ、存分に楽しんで。金曜日の夜が、あなたの「終わりの始まり」になるんだから)
私は彼に背を向け、暗闇の中でスマホを操作した。
宛先は、里奈。
『サレ妻の味方:里奈さん。金曜日の夜、健一さんが「ナオミ」とホテルで会うみたいですよ。……現行犯で押さえるなら、最高のチャンスですね?』
毒は、もう十分に回っている。
あとは、その時が来るのを待つだけ。
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#復讐