テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
木曜日の朝は、やけに日差しが強かった。
梅雨明けの知らせもないまま、蝉だけがフライング気味に鳴き始め、
アスファルトの照り返しは夏の訪れを誇示している。
壁掛けテレビでは、天気予報士が何度も「例年にない猛暑です」と強調していた。
「……あちぃな」
グラスを拭く手を止めて、五十嵐浩二がぽつりと呟く。
背の高い冷蔵庫の前で、ひときわ目立つ汗じみを見つけては、眉をひそめた。
「ほんとだね。ちょっと休憩しようか?」
カウンターの中では、店長であり同級生でもある佐藤萌香が、
水出しコーヒーの様子を見ながら、のんびりとした声で返す。
店内には今、客の姿はない。
柔らかなピアノジャズだけが、小さく流れている。
扇風機の首振り音が静けさに交じり、
やっと一息つけるかと、ふたりがほっとした──その時だった。
カラン。
乾いたドアベルの音が、午前の空気を断ち切った。
「すみません……一名なんですが、大丈夫ですか」
ひょろりとした長身の青年が、ガラス戸を押し開けた。
眼鏡の奥の視線は伏し目がちで、
濃紺の袴風の服が、周囲の陽射しの強さと対照的な涼やかさを醸していた。
「……いらっしゃい」
五十嵐がぼそっと言った。
(……絶対、長居するタイプだな)
直感だった。
片手には分厚い文庫本、もう一方の腕には、くたびれた布張りのカバン。
肩から落ちそうなそのカバンの口が、ほんの少し開いており、
中には原稿用紙らしき束と、付箋だらけの資料が覗いていた。
青年は目立たない奥のソファ席に腰を下ろすと、控えめに注文した。
「パンケーキと、冷たいカフェオレを……」
その瞬間、五十嵐の表情がぴくりと動いた。
「パ ン ケ ー キ……だと……?」
ぼそりと漏れた声には、若干の敵意すら感じられる。
休憩時間を引き延ばす代表格、“甘味&長居”のコンボ。
しかもこの暑さに、ホイップてんこ盛り案件の予感すら漂う。
「……あー……やっぱり、今日は厄日だわ」
五十嵐は静かにグラスを置き、奥のキッチンへと向かった。
一方の萌香は、むしろ楽しそうに微笑んでいた。
「パンケーキですね。かしこまりました〜」
五十嵐は、注文の冷たいカフェオレをトレイに載せて、青年のもとへ向かった。
グラスの水滴がじわりと滲み、カラン、と微かな氷の音が鳴る。
青年は、小説を読みふけったかと思えば、次の瞬間には資料と原稿用紙を広げ、真剣な面持ちでペンを走らせていた。視線はずっとページの上。店の空気にも、足音にもまるで反応がない。
「……随分、古風だな」
五十嵐が、呆れとも感心ともつかない声でつぶやく。
「小説家さんかもね」
カウンター越しに萌香が言った。
「見た目でわかんのかよ」
そう返しながらも、ちらりと青年を見やる。
眼鏡に袴風の服装。書き込みだらけの参考資料に、万年筆。
(……いや、確かに雰囲気出てるな)
五十嵐は、そっとグラスをテーブルに置いた。が、青年はまるで気づかない。
咳払いをしてみるも無反応。
「お待たせしました!!」
声を張った瞬間、青年がビクンと肩を跳ねさせた。
「ひいっ! す、すみません、すみません……気がつかずに……!」
慌てて頭を下げる様子は、まるで叱られた小学生のようだった。
「もう、お客さん怖がらせないでよ」
苦笑しながら、萌香が五十嵐の方を軽く睨む。
「悪かったよ……でも聞こえてなかったし」
すると青年が、おずおずと手元を整えながら小さく呟く。
「……あの、僕……“締切”ってワードに弱いんで。もし言ってもらえたら、たぶん反射的に振り向くかと……」
五十嵐が無表情で即答する。
「それはやめとけ」
五十嵐の即答が返る。
そんな単語、口に出したらそれこそ悲鳴を上げて倒れるかもしれない。
静かな喫茶店に、新しい常連がまたひとり、加わろうとしていた。
***
「お待たせしました〜! 特製パンケーキです」
萌香が笑顔でプレートをテーブルに置く。
その瞬間。
「うわぁ!! おいっしそう!!」
ぱあっと顔を輝かせ、手を合わせて目をキラキラさせる青年。
……そのギャップに、五十嵐は固まった。
「……急にキャラ変わった!?」
「す、すみません……甘いものにはちょっと……つい……」
青年がもじもじしながらフォークを握りしめる姿は、
さっきまで原稿と資料に没頭していた人物とまるで別人だった。
「僕、糖分とらないとイライラして……原稿やぶいちゃう癖があって……」
パンケーキにフォークを入れながら、青年がぽつりと告白する。
五十嵐は即座に立ち上がらんばかりの勢いで叫んだ。
「原稿大事にしろよ!!」
「だ、だって……書いても書いてもダメな時、もう全部終わりだって思っちゃって……」
「いやだからって破くなよ!! せめて丸めて投げろ!!」
「そんなのだと自分に負けた気がして……」
「めんどくせぇッ!!」
萌香は笑いをこらえながら、カウンターの奥でミルクを温めていた。
「でもちょっとわかるなぁ。私も失敗したレシピ、紙ごと捨てたくなるし」
「捨てたら次に同じミスすんだろが!!」
五十嵐のツッコミが今日一番の鋭さを見せた。
「小説、書かれてるんですか?」
萌香がカフェオレを注ぎながら、穏やかに問いかけた。
青年は、パンケーキにフォークを刺したまま固まった。
「えっ……? あっ……ああ、はい」
ぎこちない笑みを浮かべながら、言葉を継ぐ。
「……一応、“名のある小説家”…の息子です」
「本人じゃないんかい」
五十嵐が容赦なく突っ込んだ。
「で、でも! 僕も一応、書いてはいるんですよ! まだ……新人賞止まり、ですけど……」
耳まで赤くなった青年が、慌てて弁解するように言葉を重ねる。
萌香はふわりと笑って、ひとこと。
「なんだか、楽しそうに書かれてますよね」
その言葉に、青年の表情が少しだけ緩んだ。
青年も、つられるように小さく笑った。
「……僕、古上です。古上創也」
「五十嵐浩二だ」
「店長の、佐藤萌香です!」
三人の名前が交差した瞬間、店内の空気にひとつ、小さな温度が生まれた。
それはささやかだけれど、確かな“出会いの瞬間”だった。
「……え? 店長さんなんですか?」
古上が目を丸くする。
「……あっ! 違くて!」
萌香は慌てて手をぶんぶんと振る。
「普段は叔父さんにお店を任せてて。私は手伝い……っていうか、おじいちゃんの店だったので、なんとなく、そのまま……」
「“なんとなく”で店長名乗るなよ」
五十嵐が呆れたように突っ込む。
「だって、みんなそう呼ぶんだもん!」
そんな他愛のないやり取りに、古上の表情が少しずつ緩んでいく。
五十嵐はふっと笑って、グラスを拭きながらぽつりとこぼした。
「……まぁ、大学じゃちょいちょい会うかもな。佐藤は“単位取り終わったから余裕~”ってぶっこいてるけどな」
「ぶっこいてませんー!」
「……ちゃんとしてるんですね」
古上がぽつりとこぼしたその言葉には、どこか羨望の響きが混じっていた。
ほんの少し、過去に置き忘れたものを思い出すような、そんな声だった。
「なんだ。知り合いなら、寛いでても問題ないだろ?」
五十嵐が肩をすくめながら言う。
「それとこれとは別でしょ……」 萌香が眉をひそめる。きちんとした店の空気を保ちたいらしい。
すると古上が、パンケーキに添えられたホイップをちまちまとフォークで掬いながら、穏やかに言った。
「構いませんよ。僕も……このパンケーキを堪能したら、大人しくじっとしてますから」
「それ、完全に長居する人の言い方じゃん……」
五十嵐がぼそっと突っ込む。
古上はくすりと笑い、丁寧な仕草でカフェオレを口に運んだ。
その所作がどこか気障で、けれど不思議と嫌味ではなかった。
五十嵐も、自分のグラスを手に取る。
アイスコーヒーの中で、カランと氷が鳴った。
「……ほんと、厄日だな」
そう呟いて、ストローで静かにコーヒーをかき混ぜる。
けれどその言葉には、さっきより少しだけ力が抜けていた。
萌香が、その様子を見て「ふふっ」と柔らかく微笑む。
木曜日の昼下がり。
陽はますます高く、外の蝉がじりじりと季節を主張していた。
──奇妙な客が、ひとり。
そして、ちょっとだけ気になる“友達”が、できた日。