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────いつの間にか、季節は冬。
俺は診療所2階のバルコニーで、菊と一緒に落ち行く雪を見ていた。菊は寝台の上で毛布にくるまり、白い息を吐きつつ、雪の降り注ぐ天を仰いでいる。
俺はふと、ぽつりと呟いた。
「今年はキムジャン、出来なかったんだぜ…………」
「キムジャン、とは…………何ですか?」
俺の呟きに、菊が首を傾げる。そんな彼に、俺は答えてやった。
「朝鮮では冬の初めに、保存食であるキムチを家族総出で作る行事があるんだぜ。それがキムジャンなんだぜ」
「…………へぇ」
「今は戦争の真っ只中だから、必要な材料が手に入らなくて…………だから一つもキムチが作れなかったんだぜ。残念極まりないんだぜ」
俺は溜め息をついて、再び空を仰いだ。天からは相変わらず、ひっきりなしに雪が降り落ちる。
「来年は…………キムジャン、出来ると良いですね」
「ああ…………自家製のキムチ、お前に食べさせてやりたいし。だってもう一度食べたいんだろ?前に言ってたんだぜ、お前」
「そういえば、そうでしたね。ただ、来年のキムジャンの季節まで、私の命が持つかどうか…………」
「縁起でもないこと言うんじゃないんだぜ、菊」
「…………すみません」
「……………」
肺と脊髄を冒され、殆ど歩けなくなってしまった菊を、俺はそっと抱き上げる。
────あのお月見の時よりも、すっかり軽くなってしまった体。
彼の命が、確かに死に近付きつつあるという事実に、改めて俺は悲しくなる。
「ヨンスさんは…………温かいですね」
「…………そうか?」
「あ…………ごめんなさい、男同士なのに…………変なこと言ってしまって」
「ううん、大丈夫なんだぜ。寧ろ嬉しいんだぜ」
「…………そうですか」
頬と鼻の先をほんのり紅くして、菊が笑う。
願わくば、少しでも多くの時間を、お前のために。
*
「菊…………明けましておめでとうなんだぜ」
昭和20年、1月1日。両親とささやかな新年のお祝いをした後に、俺は菊の病室へと向かった。
菊は氷のように青白い顔を、此方へと向けた。よく見ると、口の端に微かに「紅」が残っている。新年早々、喀血してしまったのだろう。
「明けまして、おめでとうございます…………ヨンスさん」
掠れた声でそう返し、微かに笑みを浮かべる菊。
俺は菊の手を握り、満面の笑みを返す。
「今年も…………宜しくなんだぜ」
「…………」
「どうしたんだぜ、菊?」
「実は…………貴方に、伝えなきゃいけないことが…………」
黒々とした菊の艶やかな目が、伏せられる。その瞳の奥は、微かに震えている。
「何なんだぜ?」
「…………叔母さんの意向で、此処から更に奥地のサナトリウムに、転院することになりました」
「…………え」
*
菊が、転院?
つまり…………此処から、いなくなる?
「て、転院って…………いつなんだぜ」
「三箇日の終わり…………1月4日です」
「…………」
「私…………反対したんです。転院したところで、回復は最早しないからって…………そして何よりも、貴方と別れるのが厭だから…………」
じわりと滲む、涙。
「でも、聞き入れて貰えませんでした。向こうのサナトリウムが、設備が充実しているし、話し相手の患者も多いから、と…………全ては私のためだから、と…………っ」
そこまで言って、菊は嗚咽した。
俺は菊の体をゆっくりと起こしてやり、そっと腕の中に包み込んだ。菊は俺の背中に手を回し、右肩に顔を埋めた。
そこが温かく濡れていくのを感じながら、傷んで曲がってしまった彼の背中を、何度も何度も擦ってやる。
「菊…………」
「っぐす、ヨンス、さん…………けほ、ごほっ」
咳き込む菊。俺の国防服が、忽ち赤黒く染まっていく。
「つげほ…………っご、ごめん、なさ…………」
「…………良いんだぜ、菊。泣きたい分だけ泣いて、吐きたい分だけ吐くんだぜ。我慢しても、辛いだけなんだぜ」
「ひっく…………ごほっ」
ひたすらに悲しくて、ひたすらに苦しくて。まるでホトトギスだ。
代われるものなら、代わってやりたい。
ブゥン、とまたも耳を掠める、B29のエンジン音。アメ公にとって、正月はただの平日らしい。