テラーノベル
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第1話 名など必要ない
「お前は、いつまで名を持たないつもりだ」
水面へ顔を出した途端、そんな言葉が降ってきた。
天灯共同医療福祉院、人型化準備区域。
人の身体を得て、三週間ほどになる。
水庭の訓練池では、今日も一頭の狼が私を見ていた。
彼は白牙。香海圏の上席霊獣で、ここでは共同支援員として訓練に立ち会う。
だが、私は一度もその名を呼ばなかった。
「名など必要か?」
濡れた髪をかき上げながら答えると、狼は眉を寄せた。深い蒼の目に見られると、首筋から鎖骨までが妙に意識へ浮かんだ。
「呼びにくい」
「今も、お前と呼んだ」
「それは名ではない」
「私だと分かるなら、充分だ」
狼は小さく息を吐いた。
「残り二往復。その後は陸上歩行だ」
「狼に泳ぎを指図されるとは思わなかった」
「泳ぎ方は、お前の方が知っている。俺が見ているのは、その身体の使い方だ」
言い返す代わりに水へ潜った。
魚だった頃なら、尾を一振りすれば流れを掴めた。だが人の脚では、腕まで使わなければ身体が安定しない。水の中でさえ覚え直すことばかりだ。
二往復を終えて水際へ戻ると、狼が手を差し出した。
「自分で上がれる」
「知っている」
それでも手は引かれない。
私は少し迷ってから、その手を取った。
強い指が掌を包み、身体を水の外へ導く。引き上げられたというより、私が立つまでそこにあっただけだった。
狼が布を差し出した。受け取る指先が一瞬触れ、濡れた肌よりそこだけが熱く感じられた。
「髪を拭け」
「狼は細かいな」
「魚が雑なんだ」
黄河では、周囲にいつも魚たちがいた。
私が泳げば群れは道を空け、餌場を譲り、尾が触れるほどには近づかなかった。
嫌われていたのではない。
敬われていた。
だから誰も、私と並んでは泳がなかった。
この狼には、そうした遠慮がない。
彼が立ち会う日は、訓練が少し短く感じた。
「足元を見ろ」
「見ている」
「なら、なぜ同じ段差で二度つまずく」
「高さを見誤っただけだ」
「それを、つまずいたと言う」
次の段差で腕を支えられた。手はすぐ離れたはずなのに、その熱だけが妙に長く残った。
歩行路を、狼が半歩前で進む。
水から上がると、陸の空気は重かった。
濡れた衣が肌へ張りつき、乾いた熱が布の内側へ溜まっていく。
喉元の紐を解いた。
襟が開き、濡れた布が片方の肩から滑る。鎖骨から胸元へ風が触れても、少しも涼しくない。
「どうした」
狼が振り返り、顔色を確かめるように距離を詰めた。
「陸は暑すぎる」
「水へ戻るか」
「必要ない。残りを続ける」
そう答えたものの、足がひどく重い。
水へ戻りたい。
先ほどまで水にいた。訓練から逃げたいだけだと思った。
もう一度、衣へ手をかける。
帯を緩めると前身頃がほどけ、胸元から腹へ風が入り込む。身体を晒すべきではないと教わったが、今は布一枚さえ耐え難かった。
だが、熱は引かない。
水の音が遠くなった。
「おい」
狼の声が低くなる。
「今日はここまでだ。座れ」
「まだ歩ける」
一歩踏み出したはずだった。
地面が大きく傾いた。
膝から力が抜ける。
ほどけた衣がさらに開き、肩から滑り落ちた。
石床へ落ちる寸前、強い腕が腰へ回る。剥き出しになっていた背へ掌が触れ、そのまま胸元へ抱き寄せられた。
「俺を見ろ」
近い場所に、深い蒼の目がある。
濡れた肩が狼の胸へ触れている。普段なら離れろと言ったはずなのに、指一本動かせない。
返事をしようとしても、舌が動かなかった。
腰を支えたまま、狼の指が首筋へ触れる。深い蒼の視線が露わになった肩から胸元へ一度だけ落ちたが、そこにあったのは異変を見極める鋭さだけだった。
「水香が薄い」
狼はすぐに自分の上衣を脱いだ。
私の衣を着直させようとはせず、乱れた布ごと肩から腿までを包む。狼の香が剥き出しだった肌を覆った。
必要以上には触れない。それでも腰を支える腕と、胸元を隠す衣の温かさだけは妙に鮮明だった。
「医療区画へ連絡を。景陽に診せる。俺が背負うから、乗せるのを手伝ってくれ」
駆け寄った職員へ告げると、狼の輪郭が白い光に包まれ、白銀の大狼へ変わった。額の蒼い紋が淡く光る。
常駐職員が、上衣に包まれた私の身体を大狼の背へ預けた。
頬に柔らかな毛が触れる。
黄河では、誰もこれほど近くへ来なかった。
誰かの身体へ全身を預けるなど、考えたこともない。
白銀の毛越しに、狼の鼓動が伝わってくる。他者の命がこれほど近くで鳴ることを、私は知らなかった。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、その鼓動から離れたくないとさえ思った。なぜそう感じるのかは、まだ分からなかった。
大狼が立ち上がる。落とさないよう歩幅を確かめてから、診療区画へ向かって駆け出した。
力強い背の揺れに身を任せながら、私は意識を手放した。
最後まで耳に残ったのは、狼が迷わず口にした一つの名だった。
――景陽。
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コメント
1件
うわあ、この距離感、堪らなかったです……。名を拒む魚の転生者と、それを待つ狼の静かな対峙。水から上がった後の熱中症のシーン、肌が熱を持ってる描写と、それでも「まだ歩ける」と踏み出すあの強さが、魚だった頃の孤独を思わせて切なくなりました。何より、狼の背で知った「他者の鼓動」の一文に全部持っていかれました。生きてるって、こうやって誰かと触れ合うことなんだなって。続き、すごく気になります!