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第2話 白牙、と呼んだ
白い背の揺れが止まった。
「白牙、こちらへ。寝台の横に伏せてください」
静かな声が、狼の名を呼ぶ。
大狼が身を低くすると、待ち構えていた職員たちが私の身体を背から下ろした。離れる瞬間、白銀の毛を掴もうとした指は動かなかった。
代わりに、私を包む上衣から狼の匂いがした。乾いた木と、夜の冷気に似た匂い。その内側へ閉じ込められていると、まだ背に乗っているような錯覚が残った。
「聞こえますか」
額に冷たい手が触れる。
目を開けると、端整な男の顔があった。これが景陽なのだろう。彼は私の瞼を見て、首筋へ指を当て、手首を取った。どれも診察に必要な触れ方だった。
それでも、他者の指が肌の上を移るたび、身体が勝手に強張る。
「……水」
「すぐに補います。今は力を抜いてください」
襟元を整えようとした手を、景陽がそっと止めた。
「上衣はそのままで構いません。肌を隠したいのですね」
答える前に、景陽は職員へ目配せした。乱れた衣には触れず、狼の上衣ごと薄布を掛けられる。
恥じる理由などないはずなのに、少しだけ息がしやすくなった。
首筋と手首を冷たい布で包まれ、水分と水香を補う処置が始まる。身体の内側へ、細い流れが戻ってくるようだった。
寝台の傍らには、大狼が伏せていた。
蒼い目が一度も私から離れない。
その視線に守られていると思うと、胸の奥が妙に騒いだ。腕の中へ倒れた時の硬い胸板も、素肌を包んだ上衣の熱も、背中へ触れた柔らかな毛も、途切れかけた意識の底でひどく鮮明だった。
すべて、助けるために必要だった。
分かっているのに、なぜ何度も思い出すのだろう。
やがて景陽が私の手首を放した。
「もう危険はありません」
その言葉を聞いても、大狼の肩から力は抜けなかった。
景陽は寝台を離れ、大狼の横へ膝をついた。
「白牙」
今度は先ほどよりも柔らかな声だった。
景陽の手が、白銀の背へ触れる。診察する手つきでも、制止するためでもない。大きな肩甲骨の間へ掌を置き、毛並みに沿ってゆっくり一度だけ撫でた。
「もう大丈夫です。……彼ではなく、あなたに言っています」
張り詰めていた大狼が、ようやく長く息を吐く。
そして、ほんのわずかに背を景陽の掌へ預けた。
その手は、触れる場所を探していなかった。
初めから、そこが自分の場所だと知っている手だった。
なぜか、見てはいけないものを見た気がした。
景陽は私の呼吸と水香をもう一度確かめると、周囲の職員へ目を向けた。
「補水の管理はこちらで引き継ぎます。皆さんは記録と器具の片づけをお願いします」
職員たちが退出する間、景陽は大狼と扉の間に立っていた。
最後の一人が戸を閉める。
「もう戻って構いませんよ、白牙」
大狼の輪郭が、白い光に包まれた。
獣の姿が縮まり、人の身体へ戻っていく。だが白牙の上衣は、今も私の肩から腿までを覆っている。人型へ戻った彼の上半身には、何も残らなかった。
景陽は初めから分かっていたのだろう。光が消えるより先に自分の上衣を脱ぎ、他の誰の目にも触れさせることなく、白牙の肩を包んだ。
「あなたは、こういうことを少しも気にしませんからね」
「別に見られて困るものでもない」
「私が困ります」
景陽は淡々と答え、白牙の胸元で襟を重ねた。
白牙は一瞬だけ景陽を見たが、逆らわなかった。むしろ衣を掛けやすいよう、わずかに身を屈めている。
「お前が寒いだろう、景陽」
「あなたの上衣を返していただくわけにもいかないでしょう」
景陽の視線が、私を包む衣へ向けられた。
私には、白牙の衣を。
白牙には、景陽の衣を。
同じように身体を包まれているはずなのに、その二つはまるで違って見えた。
目を閉じても、白牙の襟元を整えた景陽の指だけが残った。
*
次に目覚めた時、窓の外は薄暗くなっていた。
白牙は人の姿で壁際に立ち、景陽の上衣を肩に掛けたまま腕を組んで、こちらを見ていた。寝台の脇では、景陽が記録板へ文字を走らせていた。
「気分はいかがですか」
「先ほどよりは、楽だ」
景陽は頷いた。
「水に浸かることと、人の身体の内側を潤すことは別です。あなたの身体は、まだ渇きを渇きとして捉えられない。水へ戻りたいという感覚で、危険を知らせたのでしょう」
「私は、訓練から逃げようとしたわけではない」
「ええ。意志の弱さではありません。魚であった身体が、人の形で助けを求める方法を知らなかっただけです」
責める響きはなかった。
「当面の訓練時間と補水について、担当者へ医療上の所見を伝えます。陸で暮らせないという意味ではありません。身体の言葉を、一緒に覚えていけばいい」
景陽が水の入った杯を差し出した。
受け取ろうと身を起こした途端、腕から力が抜ける。
白牙が壁際を離れたのは、一瞬だった。
寝台へ倒れかけた肩を抱き留め、片腕を背へ回す。大きな掌が肩甲骨の間を支え、もう一方の手が杯を私の口元へ運んだ。
「自分で飲める」
「倒れたばかりの魚の言葉は、信用しない」
いつもの言い方だった。
だが今は、剥き出しの背へ上衣越しの熱が広がるたび、息の仕方まで分からなくなる。杯へ口をつける私を支える腕は揺るがず、飲み終えると、ずれていた襟まで無造作に直された。指先が鎖骨をかすめる。
介助にすぎない。
そう言い聞かせるほど、その指の感触だけが残った。
身体の言葉。
先ほどから胸の奥にあるものにも、何か名があるのだろうか。
私は壁際の男を見た。
「……白牙」
初めて、その二音を口にする。
白牙はすぐにこちらを向いた。
「起きたか」
たったそれだけで、胸が強く鳴った。
「今、私を見た」
白牙が怪訝そうに眉を寄せる。
「お前が俺の名を呼んだからだろう」
名を呼べば、この男はこちらを見る。
そのことが、ひどく嬉しかった。
「私にも名ができたら、最初にあなたへ呼ばせる」
白牙が一度、目を瞬いた。
「俺に?」
「ああ」
「俺は修了確認にも立ち会う予定だ。名が決まれば、自然とそうなるだろう」
「……そういう意味ではない」
「何が違う」
どうやら、本当に分かっていない。
「分からないなら、そのままでいろ」
寝台の脇で、筆の走る音が止まった。
景陽が記録板から顔を上げていた。
視線が合う。
彼は何も尋ねなかった。ただ私を見て、それから白牙へ目を移し、ほんのわずかに目を細めた。
白牙には伝わらなかったものが、景陽には伝わっている。
名が決まったら知らせるのではない。
最初に呼ばせる相手として、私は白牙を選んだ。
なぜ景陽だけがその意味を理解するのか。
だからこそ、確かめずにはいられなかった。
「景陽は、あなたの何だ」
白牙は迷わなかった。
「俺の恋人だ」
胸の奥で、何かが小さく沈んだ。
水香は満ちたはずなのに、別の場所が乾いていく。
景陽があれほど自然に白牙の名を呼べる理由も、白牙があの掌へ背を預けた理由も、今なら分かった。
名など必要ないと思っていた。
けれど私は、初めて欲しいと思った。
白牙の声で呼ばれるための、私だけの名が。
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コメント
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うわあ……第12話、すごくよかったです。 主人公が初めて「白牙」って名前を口にした瞬間、なんだか胸がぎゅっとなりました。だって“名を呼べばこの男はこちらを見る”——その発見の嬉しさが、すごく純粋で切なくて。それでいて、景陽が白牙の背中を撫でるときの手の馴染み方とか、あの二人の空気感が自然すぎて……読んでるこっちが「見てはいけないものを見た」気持ちになりました。 最後の「初めて欲しいと思った。白牙の声で呼ばれるための、私だけの名」という一文、めちゃくちゃ刺さりました。名を必要としなかった魚が、初めて“自分だけの名前”を渇望する——その感情の動きが、静かだけど確かにあって。 Hp2さん、この静かな距離感と、距離を超えていく瞬間の描き方が本当に美しいです。続き、じっくり待ってます。