テラーノベル
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警察は、記録する。
名前。
年齢。
住所。
職業。
関係性。
時刻。
発言。
行動。
それなのに、警察の記録には私はいない。
水瀬朔也はいる。
三十八歳はいる。
図書館職員はいる。
三〇七号室周辺をうろついていた男はいる。
でも、私はいない。
その日の午前、職場に警察が来た。
図書館のカウンターには、返却本が積まれていた。
私は『海辺の町の記憶』を探していた。
篠田さんの本。
篠田さんの目が通った本。
篠田さんの中の港と、紙の中の港が重なったはずの本。
だが、ない。
貸出中だった。
誰だ。
誰が篠田さんの本を借りた。
その人は、篠田さんを知らずに読む。
篠田さんの指が触れたページを、篠田さん抜きでめくる。
それは横取りではないのか。
死ぬ前の人間から、まだ死んでいない痕跡を剥がす行為ではないのか。
「水瀬さん」
川上が私を呼んだ。
声が硬かった。
カウンターの奥に、制服の男が二人いた。
その横に、妹がいた。
澪。
澪は泣いていなかった。
泣いていない顔の方が悪い。
泣いている時、人はまだ内側から溢れている。
泣いていない顔は、外側を整えた顔だ。
誰かに見せるための顔だ。
「お兄ちゃん、少し話そう」
お兄ちゃん。
私は少し助かった。
澪の中で、私はまだ兄だった。
水瀬朔也でも、男性でも、不審者でもない。
まだ少し、私に近かった。
だが警察官は言った。
「彼に事情を伺いたいだけです」
彼。
そこで、床が遠くなった。
職場の蛍光灯が鳴っていた。
返却本の匂いがした。
古い紙。人の手の脂。埃。
世界はまだ細かい。
まだ見えている。
まだ私はいる。
なのに、彼。
「違います」
私は言った。
警察官は聞き返した。
「何がですか」
「私は、彼ではありません」
川上が目を伏せた。
澪が私の腕に触れようとした。
私は避けた。
触るな。
触られると、外側が確定する。
外側から形を決められる。
形を決められると、私は水瀬朔也になる。
水瀬朔也は書類に入る。
書類に入ったものは彼だ。
「篠田さんは」
私は聞いた。
警察官は一瞬黙った。
その沈黙が、黒かった。
「篠田さんは無事ですか」
「ご本人は不安を感じておられます」
ご本人。
よい言葉だった。
まだ本人と呼ばれている。
まだ篠田さんは本人だ。
私は息を吐いた。
「なら、私が行かないと」
澪が首を振った。
「行っちゃだめ」
「澪には分からない」
「分からなくていい。お兄ちゃん、怖いよ」
怖い。
その言葉は、刃物より深く入った。
私は怖がらせたかったのではない。
救いたかった。
消えないようにしたかった。
篠田さんが篠田さんであるうちに、篠田さんを篠田さんのまま残したかった。
なのに、みんな私を見る。
私を止める。
私を彼にする。
警察官が言った。
「今日はご自宅で休んでください。篠田さんには近づかないでください」
近づかない。
それは、見殺しにしろという意味だった。
私は返却本の山を見た。
誰が読んだか分からない本たち。
誰の手に触れたか消された本たち。
きれいに並べられた、小さな墓。
私はその中から一冊を取った。
題名は覚えていない。
その本の貸出記録も、いつか消える。
私はページの余白に、小さく書いた。
篠田重吉は、まだ消えていない。
川上が叫んだ。
警察官が私の手を掴んだ。
澪が泣いた。
私は安心した。
泣いているなら、澪はまだ澪だ。
だが警察官の手の中で、私はもう私ではなくなりかけていた。
コメント
1件
読み終えました。「泣いていない顔の方が悪い」「触られると外側が確定する」——この感覚の描き方があまりに鋭くて、何度も読み返しました。警察の書類にはいない「私」が、篠田さんを消さないために本の余白に書き残す一行。あれが、名もなき人たちへの墓碑銘のように思えて。澪の「怖いよ」という声も、川上の硬い声も、みんな主人公を救おうとしているのに、その手がかえって輪郭を固めてしまう皮肉が切なかったです。次、どうなるんでしょう。読まずにいられない。