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恐る恐る首を回して見上げたそこには、太田が立っていた。
彼はにこやかな顔をして私を見下ろしている。
そこへトレイを持った斉藤が戻って来た。私の様子に異変を感じ取ったのか、斉藤は太田に向かって暗に別のテーブルを示す。
「太田も今日は食堂か?あっちに経理の連中がいたけど、行かなくていいのか?」
しかし太田は笑って斉藤の言葉を聞き流した。
「あっちはもう食べ終わる頃みたいだからな。ここに混ぜてくれよ」
太田はにこりと笑い、角を挟んで私の隣に座った。私の半券の番号に目を落とし、カウンターに目を向ける。
「その番号、今呼ばれたんじゃないか?」
太田の登場に気を取られて気づかなかった。改めて耳を傾ければ、確かに私の半券の番号が呼ばれている。これは太田から離れるチャンスだと思った。ランチを受け取ったら、そのまま別の席に移動してしまおうと考えた。膝の上に置いていたトートバッグを手に立ち上がろうとしたが、太田の手が素早く私のバッグを取り上げた。
「あ……っ!」
「荷物は見ていてやるから、行って来なよ」
バッグの中にはスマホが入っている。ロックはかけているし、斉藤もいるこの場で何かするとは思えない。しかしそれでも、もしもその中にある拓真とのやり取りを太田に見られたらと想像してぞっとした。
「おい、太田。人のバッグ、勝手に触るのはダメだろ」
「トレイを持ってくる時邪魔になるだろうと思ってさ。あ、笹本。また呼ばれてるよ」
「い、行ってきます」
私は強張る笑顔を貼り付けて急いでカウンターに向かった。注文したパスタのランチセットを受け取り、とにかく急いでテーブルに戻る。
「はい、バッグ。俺も呼ばれたから、取りに行ってくるわ」
太田は私にトートバッグを返し、立ち上がった。
斉藤は太田の背中にちらりと目をやってから、私を心配そうに見た。
「なぁ、笹本。やっぱり何かあったんだろ、太田と」
サラダをつついていた手が止まる。
「別に何も……」
「俺さ、口は堅いぜ。少なくとも俺の目には、笹本が太田を怖がっているように見えるんだけどな。違うか?まぁ、今は詳しくは聞かない。とにかく、何かあったら相談しろよ」
これまでも斉藤のことは頼れる先輩だと思っていたが、こんな風に気遣ってもらえるとは思っていなかった。
「ありがとうございます」
しみじみとした気持ちで礼を言ったところに、太田が戻ってきた。
「二人して何の話をしていたんだ?」
席に着くなり太田は私と斉藤の顔を交互に見ながら訊ねた。笑顔ではあるが、目は笑っていない。
斉藤がのんびりした口調で答えた。
「今度の就職ガイダンスの話をしてたんだよ。今年もそろそろ資料を作る時期が来るなぁ、ってね。あれって結構量があるから、大変なんだよ」
「もうそんな時期なのか。早いな」
「そういや、経理の方は仕事落ち着いたのか。中間決算だったんだろ?」
「あぁ、ぼちぼちって感じかな」
斉藤と太田の会話を聞き流しながら、私は黙々とフォークを動かす。早く食べて自分の席に戻りたかった。ようやく最後の一口分のパスタを口に運ぶ。飲み込み終えて、はっとした。ふくらはぎの辺りを何かが這うような感触があった。見なくても分かる。太田が靴先で私の脚を撫で上げていたのだ。急いで脚の位置をずらし、胸の奥がむかむかする思いでわずかに目を上げる。太田の粘着質じみた目が見えて、全身にぞくりとした悪寒が走った。私は水を一口飲み、バッグを腕にかけて立ち上がる。
「私、先に戻りますね」
どちらに言うでもなく言いながら、目は斉藤を見る。
「俺もこれ食べたら戻るから」
「まだ時間もあるし、どうぞごゆっくり」
斉藤にはもうしばらく太田をここに引き留めておいてほしいと思う。
太田には軽く頭だけを下げた。
そのままテーブルを離れようとした私に彼は言う。
「笹本、またな」
太田の声を聞いただけで、みぞおちの辺りが苦しくなった。私は無言のままそこから離れた。
食堂を出てロッカーに向かって急ぐ。廊下を曲がってすぐの所で、誰かと鉢合わせした。うつむいて歩いていたため、それが誰かに気づくのがほんの数秒ほど遅れる。
「拓真君……」
彼の名前を口にしてからはっとする。誰かに聞かれでもしたらまずいと思い、言い直す。
「北川さん、お疲れ様です。すいません、前をよく見ていなかったので」
「いえいえ、こちらこそ」
彼は私に合わせて他人行儀な言い方をした。しかしすぐに苦笑を浮かべ、私の手を取り、近くの休憩コーナーに足を向けた。
「誰かに見られたら……」
「同僚の顔をしてれば大丈夫でしょ」
「ただの同僚は手なんか繋がないわよ」
「それもそうか」
拓真は渋々と私の手を離す。
「何か飲む?」
「大丈夫。私はいらないわ」
「そう?じゃあ、俺もいいや」
拓真は取り出しかけていた小銭入れを再びジャケットのポケットに仕舞う。私を促し、近くにあるベンチに一緒に腰を下ろした。周りには聞こえない程度の小声で彼は私に訊ねる。
「俺がいなかった間、あの人から何か言われたり、されたりはしていない?」
太田と相席になってしまったことを言おうか迷った。嫌悪感や不快感を抱きはしたが、乱暴なことをされたりしたわけではないからと、結局言わないことにする。これくらいのことで拓真に心配をかけたくない。
「えぇ、大丈夫。お昼は斉藤さんと食堂で一緒にいたし、その他の時も一人になったりはしていないから」
「それならいいんだけど……」
拓真はほっとしたように表情を和らげる。
「本当はいつでも君が目に入る所にいたいんだけど、なかなかそうも行かなくてね」
「それは仕方ないよ。そう言えば、部長とどこかに行ってたの?ずっと一緒だったみたいね」
「まぁね。たいした用事でもなかったんだけど」
「部長に同行しての用事をそんな風に言うなんて……」
苦笑する私に拓真は悪戯っぽく笑う。
「今言ったことは部長には内緒だよ。それよりも午後も気をつけてくれよ」
「分かってるよ。だけど拓真君も言ってたじゃない。会社で何かしてくることはないだろう、って」
「そうは言っても心配なんだよ」
拓真の瞳が不安に揺れる。
「仕事、戻らないとな」
彼は名残惜しそうに私を見る。
私も彼とこうしていたいのは山々だったが、そういう訳にはいかない。昼休みはそろそろ終わりだ。周りに誰もいないことを確かめて、私は慌ただしく彼の頬にキスをした。
拓真の目が見開かれる。
「碧……?」
そんな行動を取ってしまったことが急に恥ずかしくなる。私は勢いよく立ち上がり、その場に拓真を残してロッカールームへと急いだ。