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「なるほど。女房殿も、災難だったのお。少将様のお屋敷も、大変じゃなぁ」
「いえ、いえ、髭モジャ様とて。お役目を解かれていたとは……」
橘《たちばな》に声をかけたのは、まさかの、わからんちんの髭モジャ男だった。
あれから、髭モジャ男は、市中を騒がせたと、検非違使《けびいし》職を首になっていた。
すでに、例の落書きによって、面が割れているため、手拭いで頬かむりなどして身元を隠くしていたのだが、あの日、現れた斉時《なりとき》に、見かねた髭モジャ男は、手拭いを渡した。
しかし、因縁ある少将の屋敷前であったため、つい、検非違使のふりをしてしまったのだ。
「まったく、面目ない話よ」
言って、髭モジャ男は、大笑いした。橘も、つられて笑った。
「うん、だいぶん落ち着かれたな。そうじゃ!腹は、減っておらぬか?蒸し芋があるぞ」
結局、行くあてのない橘は、髭モジャ男の住みかに身を寄せていた。とはいえ、落ちぶれた男の身。そこは、河原の土手に穴を掘り筵《むしろ》をかけただけの、住まいとも言えないものだった。
「まるで、物乞いの住みかであろう?だが、慣れると気楽なものでなぁ。ああ、ちと、芋は冷えておるが、味は確かじゃ」
農家の手伝いをして、貰ったのだという蒸し芋を、髭モジャ男は、橘へ差し出した。
橘は受けとるが、微動だにしない。
「やはり、女房殿の口には、あわぬか……。ん!ど、どうされた!?」
橘は、はらはらと涙を流していた。
「……このように、お気遣い頂いて。これは、あなた様の、明日の食となる物ではないのですか?それを、どうして、私《わたくし》が、頂けましょう」
「いや、構わぬ!それくらい!女房殿が、喜んでくれれば、ワシは、それで、腹一杯じゃ!」
「え?」
驚く橘を前に、髭モジャ男は、ボリボリと頭をかきながら、
「あーその、なんだ。つまり、ワシは、惚れたのじゃ。女房殿に、一目惚れしたのじゃぁぁぁーーーー!!」
と、いきなり叫んだ。
「あ、あ、あの」
「すまん、女房殿が、いかような目にあったのか、聞いておきながら、ワシは、ワシは、己の事しか考えておらぬ。しかも、蒸芋ごときで、気を引こうとして、姑息な男だ。ああ、存分に笑ってくれ。ワシは、それほどの価値しかない男なのじゃ」
「それでは、私《わたくし》も、それほどの価値しかないのですか!あなた様に、惚れられたと言うことは、そういう事になりますでしょう!!」
「あー!違うぞ!そなたは、違う!この世で、最高の女《おなご》じゃ!ワシには、もったいない女《おなご》じゃ!」
「ああ、もう!わからんちんだこと!どちらなのです!私《わたくし》が、欲しいのですか!それとも、欲しくないのですか!」
「欲しいに決まっとるわっっ!!!」
怒鳴り合うように、互いの気持ちを吐き出し、はっと、我に戻った二人……。
垂れる筵《むしろ》の隙間から差し込んでくる月明かりが、二人の姿を照らしている。
そのほのかな明かりでも分かるほど、互いの顔は、赤く染まっていた。
そして、翌朝。
「な、なんと、申した?!」
「守近様、落ち着かれませ。めでたい話では、ござりませんか?」
「い、いや、徳子《なりこ》姫。何故、その様に落ち着いておられるのです?」
「……さあ、何故でしょう?橘《たちばな》が戻ったからかしら?」
守近と徳子の前には、橘と、髭モジャ男が控えていた。
二人の事を報告する為、そして、髭モジャ男を、守近の屋敷で、下男として雇ってもらえないかと、懇願する為に──。
事のあらましを聞かされた守近は、驚きを隠せなかった。しかし、橘がいなくなり、探しても見つからないと聞いた、昨日の徳子の乱れ様を思えば、髭モジャ男の一人や二人、雇うなど容易い話だった。
「まあ、こちらにも何某の責はある訳だし……。しかし、仮にも、元は官吏。本当に下男で構わぬのか?」
はい、と、髭モジャ男と橘が揃って答えた。
「橘?」
徳子が、首を傾げる。
「お方様、申し訳ございません。今日をもって、この橘、お側仕えから、身を引きとうございます」
「橘や、それは……」
徳子の言葉を打ち消すように、
「守近様ーーー!!!」
紗奈《さな》が、叫びながら駆け込んできた。
「牛が、動いてくれませんっ!牛車《くるま》の用意が出来ないようです!お出かけに遅れますぅ」
「よし、任せろ!」
「え?髭モジャ?!なんで??」
「女童子《めどうじ》、案内いたせ」
事情を知らない紗奈は、うーん、と唸りながら、髭モジャ男と駆けていった。
その姿を見送りながら、橘は、徳子に言う。
「お方様。残念ながら、お役目はもう果たせぬのです。何故なら、今日から私は、お方様の女房ではなく、あの方の、女房になるのですから」