血筋良し、見栄え良し、都でも一二を争うモテ男、少将、守近《もりちか》の屋敷、北の対屋《ついや》──正妻、徳子《なりこ》の房《へや》から、なにやら、甘い声が流れて来ている。
「守近様、ねぇー、守近様ったらー、守近様っっー」
「うーん、徳子姫。私《わたくし》め、少し眠とうございましてなぁ。でも、寝所の夜具にて、このように、積極的にされるのも、悪くは、ござりませんねぇ」
あたたたたっ、と、守近は声を挙げた。
「もう、私《わたくし》の話を聞いておられますか?!」
徳子が、守近の耳を引っ張る。
「は、はい、何でございましょうか!徳子姫!」
あまりの痛さに、目が冴えた守近は、徳子の機嫌を損ねてはならないと、聞いておりますと、嘘吹いた。
守近が応じた事に安堵したのか、徳子は、引っ張っていた耳から手を離すと困り果てた顔をした。
「徳子姫?如何致しました?」
常に沈着冷静な徳子が、この様な面持ちを見せるとは、余程の事が起こっているに違いない。
くしくも、補佐役の、古参の女房、武蔵野は、身重の徳子の為にと、嵯峨野《さがの》の寮《べっそう》に泊まり込み、安産祈願の願掛けと、神社仏閣巡りに励んでいるため、徳子の相談役は屋敷に不在だった。
屋敷の裏方事、つまり、日々の暮らしのやりくりに始まり、挙げ句は、屋敷に詰める、下《した》の者達の衣食住まで采配するのが、北の方と呼ばれる正妻の勤め。
守近含め、公達が、優雅に過ごせるのは、各々の北の方の支えがあっての事なのだ。
相談できる相手がいない今、徳子も心細いのだろう。何より、身重──、無理をさせてはいけないと、守近は、そっと徳子を抱きしめ、
「どうしました?私で良ければ、相談に乗りますよ?」
と、囁いた。
守近の胸元に、しがみつきつつも、徳子は、きっと顔を引き締め、だから先ほどから言っているのに、と、駄々をこねる。
「ええ、あまりにも、徳子姫のお声が、可愛らしく、つい、聞き惚れていたのです」
もおっ!と、徳子は言って、今度は、守近の鼻を摘まんだ。
「あいててて!徳子姫ったら!」
「守近様、真面目に聞いてくださいまし!」
「あい!あい!わかりましたから。私の鼻を自由にしてください」
なんとか機嫌が戻った徳子は、守近に、迷っている事があるのだと、語り始めた。
「なるほど、それは、私も、うっかりしておりました」
「私《わたくし》も、つい、忘れておりました。余所様から、大切なお子を預かっておきながら、つい、では、済まされない話ではないでしょうか……」
うーんと、守近は、考え込む。
「……ならば、どうでしょう。詫びも兼ねて、盛大に祝ってやるというのは?そうですねぇ、今の時期だと……観月の宴!月を愛でながら、紗奈《さな》を祝って、やりましょうぞ!」
「まあ!それでは、早速……」
徳子《なりこ》の曇っていた面持ちは、まさに、月が雲間から現れたように、輝いた。
「いけません。徳子姫は、今は大切な時期ですよ。もう少し、皆を頼りなさい」
と、宴の準備に取りかかろうとする徳子を、守近は勇める。
「では、早速。誰ぞ!誰ぞ!家令《しつじ》を呼べ!」
守近の一声に、何事かと、屋敷は、どよめいた。
暫く後、目ボケ眼《まなこ》を擦りつつ、家令のじいやが、現れた。守近の父の代から、取り仕切り事を任されている男も、さすが、歳には勝てないのか、夜半の急な呼び出しという難関に負けている。
「……はあ、確かに、紗奈殿のお里から……届きました所……で、ございますよ。守近様」
眠気が邪魔をし、家令の返答は、さっぱりだった。守近と、徳子は、思わず、吹き出してしまう。
実は、女童子紗奈の里、近江国《おうみのくに》の受領が北の方より、娘の着袴の儀用に、衣装一色と滞りなく儀式を取り計らってもらえまいかと願う文が送られて来たのだ。
やはり、母親。実の娘の成長を喜ばしく思うのは当たり前の事。
行儀見習いと称してやって来ている紗奈と共に暮らす守近達が、うっかりしていた事を、離れて暮らす母はしっかりと覚えており、采配してきたのだった。
紗奈は、五つ。
袴を着衣して、幼児から、少女へ歩みだす儀式を行う歳になっている。
「……確かに、着袴の儀ですなぁ」
「だろ?衣装も、本来、こちらで用意するのが筋なのだが、せっかくの母君のお心遣いは、無下にできまい」
「……です……なあ」
「そこで、祝いの宴は、こちらで、盛大に行いたいのだよ」
「……です」
「即刻、準備に取りかかる。急がなければ、月は、陰ってしまうからね」
「月……です……」
「観月の宴だよ。どのくらいで、準備できる?」
「さても、さても……観月ならば、舟の用意が……です」
「それで?」
「…………」
「あれ、家令よ、お前が、舟をこいでどうする?!」
家令のじいやは、睡魔に負けてしまったようで、座ったまま身体を前後に揺らし、居眠りしていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!