テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
1件
読み終わったよ…いや、読み応えありすぎたわ。まず言葉が出てこなかった。 山崎がどんどん壊れてく過程が詳細に描かれてて、特に真選組が記憶を取り戻そうと奮闘するシーンは読んでて胸が痛んだ。あんパンもミントンも「万斉さんの音」に変換されちゃうとこ、ぞっとした。 土方たちの無力感と狂気への変貌も生々しかった。特に沖田の殺意が静かになってく描写が好き。 万斉の歪んだ愛情表現と支配、山崎が最後に「幸せです」って言い切っちゃったのがもう…救いようのない美しさだったよ。
【独占の旋律】
真選組の密偵として動く山崎退にとって、
鬼の副長である、土方十四郎からの可愛がり
(という名の荒っぽい指導)は日常茶飯事だった。
「おい山崎、報告書が遅えんだよ。……ほら、座れ。マヨネーズ足りてねーだろ、これでも食って頭冷やせ」
「ふ、副長!? 無理ですよ、これ……うぐっ、」
屯所の縁側で、土方が山崎の頭を乱暴に撫で回し、マヨネーズを無理やり口に運ぶ。
そんな光景を、塀の向こう側の闇から見つめる視線があった。
河上万斉は、ヘッドフォンを強く押し当て、心の中の旋律が激しく不協和音を奏でるのを感じていた。
(……お主のその声、その表情拙者以外の前で見せるのは、断じて許さぬ)
その数日後、山崎退は夜の巡回中に姿を消した。
【独占の残響】
薄暗い土蔵の中、山崎の四肢を拘束する三味線の糸が、彼のわずかな抵抗に反応してキチキチと不気味な音を立てる。
「……逃げようとするな。動けば動くほど、この糸はお主を拙者の音色に縛り付けるぞ?」
万斉の声は低く、そして恐ろしいほどに感情を帯びていた。
彼は身をよじる山崎の顔を覗き込み、その瞳の奥を射抜くように見つめる。
山崎が恐怖に震えながら
「副長……!」
と小さくその名を漏らした瞬間、万斉の瞳に昏い火が灯った。
「まだあやつの名を呼ぶか。……お主のその口、拙者以外の音を出せぬようにしてやろう」
万斉は山崎の耳元に顔を寄せ、囁く。
それは接吻というよりは、脅迫に近い行為だった。
山崎の肺が締め付けられ、視界が白濁していく。
万斉はさらに、冷たい指先で山崎の体を執拗に這わせ、土方が触れたであろう場所を一つ一つ、上書きするように強く、執拗に意識させる。
「……っ、やめ、ろ……河上、万斉……!」
「嫌か? だがお主の[[rb:鼓動 > リズム]]は、拙者の指に反応しているぞ」
万斉は懐から、細い三味線の撥を取り出した。
それを山崎の震える鎖骨のあたりに滑らせ、皮膜をなぞるように動かす。
鋭利な先端が肌を掠めるたび、山崎の背中が弓なりに跳ねた。
「ひぐっ……あ、ああぁ!」
「いい声だ……。お主のこの震え、この涙。これこそが拙者の求めていた究極の楽曲。真選組の制服など、もうお主には不要だ。拙者の色、拙者の香りで、お主のすべてを塗り潰してやる」
万斉は山崎の耳朶を強く噛み、熱い吐息を吹きかけながら、さらに深い「調律」を施していく。
山崎は、自由を奪われたまま、万斉の与える精神的な圧力と、逃れられない恐怖の波に次第に思考を奪われていった。
「お主はもう、拙者の指先なしでは震えることもできぬ体になる……。さあ、拙者だけを見ろ。拙者だけの音を聴け」
抵抗する力も徐々に削がれ、山崎はただ、万斉という底なしの沼に沈んでいくしかなかった。
江戸の夜は深く、山崎の奏でる悲鳴は、万斉の悦びに満ちた三味線の音色に完全にかき消されていった。
【終止符の安らぎ】
監禁されてから、どれほどの月日が流れただろうか。
窓のない土蔵の中では、時間の概念さえも万斉が奏でる三味線の音色に塗り潰されていた。
最初は叫び、暴れ、土方の助けを待っていた山崎だったが、今ではその瞳に光はない。
幾度となく繰り返される執拗な
「調律」——万斉の冷たい指先が肌をなぞり、
逆らえば糸が食い込み、従えば熱い愛の言葉が降ってくる。その終わりのない反復が、山崎の心を少しずつ削り取っていった。
「……山崎。今日の旋律は、ひどく素直だな」
万斉が山崎の背後から抱き込み、その細い首筋に顔を埋める。
かつては拒絶に震えていた山崎の体は、今では万斉の体温を感じると、条件反射のように力を抜き、彼に身を預けるようになっていた。
「……河上万斉……。俺はもう、疲れちゃったんだよ……」
山崎の声は、ひどく掠れていて、平坦だった。
土方の怒鳴り声も、マヨボロの煙草の匂いも、あんパンの味さえも、もう思い出せない。
今の彼にとっての世界は、この狭い土蔵と、万斉という男の存在だけ。
「いい子だ。お主の中にあった余計な雑音は、すべて拙者が消してやった。お主はもう、拙者なしでは息をすることさえ忘れる……」
万斉は満足げに目を細め、山崎の手をとり、その指先を一本ずつ愛おしそうに噛んだ。
山崎は抵抗しない。それどころか、自分から万斉の胸に顔を寄せ、その着物を力なく掴んだ。
外の世界で「地味な監察」として神経を擦り減らすより、ここで万斉の所有物として、ただの「音」として扱われる方が楽だと思い始めていた。
それは、一種の救済に似た絶望だった。
「お主を誰にも渡さぬ。たとえ高杉晋助であろうと、真選組であろうと……お主は拙者だけのものだ」
万斉が山崎を押し倒し、その上に覆い被さる。山崎は天井を虚ろに見つめながら、静かに目を閉じた。
彼が最後に心の中で別れを告げたのは、かつて自分が生きた「光の世界」。
「……おうよ、河上万斉。俺を……あんたの好きなように、していいですよ」
山崎の口から溢れたその言葉は、万斉にとって最高に美しい「曲の完成」を意味していた。
二人の間に流れるのは、もはや悲鳴ではない。共依存という名の、ひどく静かで歪な夜想曲。
江戸のどこかで、山崎を捜す声が虚しく響いているかもしれない。
だが、ここにいるのはもはや「山崎退」という男ではなく、河上万斉に飼い慣らされた、名もなき旋律の一部でしかなかった。
【欠落した歯車】【真選組の混迷】
山崎退が消息を絶ってから、二週間が過ぎた。
当初は
「またあんパン生活で行き倒れてるんじゃねーか」
と冗談を飛ばしていた隊士たちも、今ではその名を口にすることさえ避けるようになっている。
■ 土方十四郎の焦燥
執務室の空気は、紫煙と苛立ちで濁りきっていた。土方の机の上には、山崎が最後に残した巡回ルートの写しが置かれたままだ。
「……チッ、あの野郎、どこで油売ってやがる」
土方は新しい煙草に火をつけたが、味はまるでしなかった。
山崎がいなくなってから、真選組の「情報網」は目に見えて滞っている。
それ以上に、土方を苛立たせていたのは、身内の危機を察知しながら、手がかり一つ掴めない己の無力さだった。
昼夜を問わず捜索を命じ、部下たちを怒鳴り散らす土方の隈は日に日に濃くなり、マヨネーズの消費量さえも、山崎がいれば止めていたであろう異常な域に達していた。
「山崎……。てめー、生きて戻ってきたら、ただじゃおかねーからな……」
その低い声は、誰かに聞かせるためではなく、自分を支えるための呪文のように響いた。
■ 沖田総悟の「遊び」の欠落
いつもなら山崎を的にミントンをしたり、嫌がらせをしたりして暇を潰していた沖田も、明らかに様子がおかしかった。
「土方さん、今日の見回りは俺一人で行きやすぜ。……あの地味なのがいねーと、いじめる甲斐がありやせん」
いつもの皮肉めいた口調。
だが、その手元にあるバズーカの照準は、どこか定まっていない。
沖田は、山崎という「格好の遊び相手」がいなくなったことで、自分の心にある暴力的な衝動をぶつける場所を失っていた。
屯所の道場で山崎に代わる誰かを叩きのめしても、あの
「副長、助けてくださいよぉ!」
という情けない叫びが聞こえない以上、何の充足も得られない。
沖田の瞳には、いつにも増して冷酷で、底知れない暗い「殺意」が宿っていた。
それは山崎を連れ去った「何か」に対する、静かな宣戦布告でもあった。
■ 近藤勲の沈黙
近藤は、騒がしかった屯所が、雪でも降っているかのように静まり返っているのを感じていた。
「トシ、総悟。……山崎は、きっとどこかで耐えている。俺たちの仲間だ、信じようじゃないか」
近藤の言葉に、土方は答えなかった。
真選組という家族の中から、最も「普通」で、最も「必要不可欠」だった男が消えた。
その穴は、組織全体を少しずつ蝕んでいる。
山崎が万斉の闇に沈み、すべてを諦めていたその時。
地上の光の中では、彼を連れ戻すために狂気と執念を募らせる「獣たち」が、刻一刻とその居場所を追い詰めていた。
【壊れた調べ、そして狂った奏者】
高杉晋助はその男の「旋律」が狂っていることに、とうに気づいていた。
江戸の片隅、放置された古い土蔵から漏れ聞こえるのは、万斉が奏でるはずのない、あまりにも執着に満ちた、湿り気を帯びた三味線の音。
高杉が音もなく扉を開けると、カビ臭い空気の中に、微かな血の匂いと、甘ったるい絶望が充満していた。
「……万斉。随分と、締まりのない曲を弾いてやがる」
闇の奥、万斉は山崎退を背後から抱き込み、その細い首筋に指を這わせていた。
山崎の瞳には光がなく、高杉という強烈な存在が目の前に現れても、ただ人形のように虚空を見つめているだけだ。
万斉は三味線を置き、サングラスを外すことなく高杉を仰ぎ見た。
「晋助……。拙者の邪魔を、しに来たか」
「邪魔? 買い被るな。俺ァ、お前の弾く曲が耳障りだっただけだ」
高杉は一歩、二人のいる中心へと踏み込む。
山崎の足首に巻き付いた三味線の糸が、高杉の着物の裾に触れた。
高杉はその「所有の証」を蔑むように見下ろし、山崎の顎を不躾に掬い上げた。
山崎は、かつて自分が必死に追っていた「過激派浪士の首領」を前にしても、身じろぎ一つしない。
ただ、万斉の腕の中に逃げ込むように、その背を丸めるだけだった。
「……こいつが、お前の見つけた『新しい弦』か。真選組の飼い犬を、ここまで無残に調律しやがって」
高杉の唇が、皮肉げに歪む。
彼は万斉がこの男にどれほど狂っているか、そして山崎がどれほど深く、万斉という泥沼に沈んでしまったかを一瞬で見抜いた。
「殺すか? 万斉。……それとも、そのまま飼い殺すか」
高杉の問いに、万斉は山崎をさらに強く抱き寄せ、その耳元を愛おしそうになぞった。
「誰にも、渡さぬ。……たとえ貴殿であっても、この男だけは」
高杉はフンと鼻で笑い、持っていた煙管を揺らした。
救い出すつもりなど毛頭ない。
だが、万斉という「剣」が、一人の男のために錆びつき、折れていく様を、彼はどこか愉快そうに眺めていた。
「好きにしろ。……だがな、万斉。外には、こいつの『飼い主』が、血眼になって獲物を探す獣の面で暴れ回ってるぜ」
高杉は背を向け、闇の中に消えていく。
後に残されたのは、再び訪れた密室の静寂と、万斉に縋り付くことしかできなくなった、抜け殻の山崎だけだった。
「……聴こえるか、山崎。……晋助も、お主を認めた。お主は、拙者だけの特別な音だ」
万斉の狂った囁きが、山崎の壊れた心に、甘い毒のように染み渡っていった。
【鈍色の行間】【暴かれた潜入記録】
山崎の行方不明から三週間。
捜索が難航する中、土方は山崎の自室の家宅捜索を命じた。
「……あいつの私物だ。あまり荒らすなよ」
そう言いながらも、土方自身の手は焦燥で震えていた。
■ 違和感の始まり
沖田が山崎のベッドの下から一冊の古いノートを引き出した。
「土方さん、これ……ただの監察レポートじゃねーですよ。日付が、非番の日まで埋まってやがる」
それは、公務として提出された報告書の「裏」にある、山崎個人の日記に近い記録だった。
最初の数ページは、いつものように「高杉晋助の動向」「鬼兵隊の軍資金の流れ」といった、真選組としての真っ当な調査内容だ。
だが、中盤からある特定の名前が頻出するようになる。
『河上万斉』
■ 狂い始める筆致
土方がそのページを奪い取るようにしてめくると、山崎の整った文字が、徐々に乱れ始めているのが分かった。
「○月×日。また河上に見つかった。奴は俺を斬らない。ただ、あのヘッドフォンを外して、俺の心音を聴くような真似をする。気味が悪い」
「△月□日。万斉の三味線の音が、耳から離れない。任務中も、あいつのリズムが頭の中で鳴り響いている。怖い。報告書には書けない」
「……こいつ、監察対象に『監察』されてやがったのか」
土方の顔が険しくなる。山崎は追っていたはずの敵に、精神的に追い詰められていた。
■ 最後の日記
ノートの最後の数ページは、もはや報告書の体をなしていなかった。
文字は震え、重なり、時には涙の跡のような滲みがある。
「土方さん、すみません。俺、もう逃げられないかもしれない。あの人の三味線の糸が、俺の首に巻き付いているみたいだ。……でも、あの音を聴いている時だけ、自分が『山崎退』っていう地味な人間じゃなくて、誰かに必要とされている『音』になれる気がして——」
そこで記述は途切れている。
最後の一行には、押し殺したような筆圧でこう記されていた。
『今夜、三味線の音が聞こえる場所へ行きます。さようなら』
■ 真実の共有
「……トシ、これは」
近藤が背後からノートを覗き込み、絶句した。
「……心中でも、拉致でもねェ。山崎の野郎、あいつの『音』に引きずり込まれやがったんだ」
土方は手の中のノートを握りつぶさんばかりに力を込めた。
山崎は、真選組という光の中にいながら、万斉が奏でる「闇の旋律」に魅せられ、自らその指先に身を投じたのだ。
「……総悟、全隊士を集めろ。相手は鬼兵隊の河上万斉だ」
土方の瞳に、かつてないほどの冷徹な殺意が宿る。
「うちの地味な監察を、ろくに調律もできねー狂った奏者にこれ以上弄ばせてたまるか。……力ずくで連れ戻すぞ」
山崎が日記に遺した「三味線の音が聞こえる場所」
土方たちは、その微かな残響を頼りに、ついに万斉の潜伏先へと牙を剥き始めた。
【独奏者の嘲笑】
土蔵の重い扉の隙間から、遠くで響く真選組のパトカーのサイレンが微かに聞こえる。
万斉はその音を、出来損ないの不協和音として切り捨てた。
「聴こえるか、山崎。あやつらはお主を捜し、江戸中を泥に塗れて駆け回っているぞ」
万斉は、自分の膝の上で力なく横たわる山崎の髪を、慈しむように指で梳いた。
山崎は反応しない。ただ、万斉の三味線のリズムに合わせるように、浅く、規則正しい呼吸を繰り返すだけだ。
万斉の口元に、冷ややかな弧が描かれる。
「……滑稽だな。国家の犬どもが、自分たちの最も優秀な『目』を失い、盲目になって彷徨っている。お主という光を奪ったのは拙者だが、あやつらにはその影を踏むことさえ叶わぬ」
万斉はヘッドフォンに手を当て、真選組の焦燥を想像する。
土方十四郎の、怒りに震える心音。
沖田総悟の、苛立ちに満ちた殺意の旋律。
それらすべてが、今の万斉にとっては最高の
「前奏曲」だった。
「お主はもう、あやつらの知る『山崎退』ではない。拙者の指先でしか震えぬ、拙者専用の楽器……。あやつらがどれほど叫ぼうとも、お主の耳にはもう、拙者の音しか届かぬのだからな」
万斉は山崎の耳元に唇を寄せ、勝ち誇ったように囁いた。
「真選組に勝ち目は初めからない。お主を『地味な監察』として放置していたあやつらと、お主の魂の奥底にある旋律を暴き出した拙者……どちらがお主を深く理解しているか、答えは明白だろう?」
山崎の指が、無意識に万斉の着物を掴む。
それは助けを求める拒絶ではなく、今や唯一の拠り所となった主への依存の証だった。
その光景に、万斉の胸には暗い悦びが満ちていく。
かつては高杉晋助という太陽の陰に徹していた奏者が、初めて自分だけの「宝物」を奪い、隠し通しているという支配欲。
「捜すがいい。血眼になってな。……その間に、拙者はお主をさらに深く、誰にも修復できぬほどに書き換えてやろう」
万斉は再び三味線を手に取り、一弾きした。
ペン、と乾いた音が土蔵に響く。
それは、外の世界との繋がりを完全に断ち切る、非情な境界線の音だった。
真選組の必死の捜索も、今の万斉にとっては、自分の旋律をより美しく引き立てるための「伴奏」に過ぎなかった。
【潰えた救出、連れ去られた旋律】
「……見つけたぞ、万斉ッ!!」
土蔵の重い扉が、土方の足蹴りによって火花と共に弾け飛んだ。
差し込んだ月明かりの下、土方が見たのは、変わり果てた部下の姿だった。
三味線の糸に絡め取られ、虚ろな目で万斉の腕に抱かれる山崎退。
「山崎ッ! 今助けてやる、そこを動くんじゃねーぞ!」
土方が抜刀し、踏み込もうとした瞬間。
万斉の口元が、冷酷な弧を描いた。
「遅いな、芋侍。お主の奏でる音は、あまりにも騒がしすぎる」
万斉が三味線の弦を一弾きすると、仕込まれた仕掛けが作動し、土蔵の天井から煙幕が噴き出した。
同時に、万斉は山崎を軽々と抱え上げ、背後の隠し通路へと身を躍らせる。
「待てェッ!!」
沖田のバズーカが土蔵を吹き飛ばすが、そこにはもう、二人の姿はなかった。
数時間後。江戸の喧騒から遠く離れた、古びた宿場町の外れ。
万斉は、意識が混濁したままの山崎を寝所に横たえ、その頬を冷たい指でなぞった。
「……聴こえるか、山崎。あやつらの叫びが、遠ざかっていく。お主を救おうとするあの『光』は、もう届かぬ」
山崎は、真選組の助けが来たことさえ理解していないようだった。
ただ、急激な移動と万斉の殺気に当てられ、熱に浮かされたように
「……ばんさい、さん……」
と、その名を弱々しく呼ぶ。
万斉はその声を聞き、胸の奥から湧き上がる昏い悦びに身を震わせた。
「そうだ。その名を呼べ。あやつらが見つけたのは、ただの抜け殻の部屋だ。お主の魂は、今こうして拙者の掌中にある」
万斉は山崎を逃がさない。一度見つけた最高の楽器を、誰にも、たとえ死神にさえも渡すつもりはなかった。
江戸を捨て、組織を離れ、ただ二人だけの「不協和音」を奏で続ける逃避行。
「どこまでも行こう。お主が『山崎退』という名を忘れ、ただ拙者のためだけに鳴り響く、一片の弦になるまで」
万斉は山崎の唇を深く塞ぎ、逃げ場のない愛を注ぎ込む。
追っ手の足音はもう聞こえない。
ただ、夜の静寂の中に、二人の狂った鼓動だけが重なり合っていた。
【汚された誇り】【真選組の慟哭】
崩落した土蔵の入り口で、土方は抜いたままの刀を震わせていた。
視界の端で、山崎が万斉の腕に大人しく抱かれ、助けを求めるどころか、その胸に顔を埋めた光景が、網膜に焼き付いて離れない。
■ 土方十四郎の「崩壊」
「……山崎、なんでだ……。なんであんな野郎に、縋ってやがった……!」
土方の喉から漏れたのは、獣のような呻きだった。
力ずくで連れ去られたのなら、まだ救いがあった。
だが、あの瞬間の山崎の瞳には、真選組への未練も、自分たちへの助けを求める光も、一切宿っていなかった。
部下を守れなかった無力感。そして、何より信頼していた
「地味だが真っ直ぐな部下」
が、敵の腕の中で安らぎを見せていたという事実が、土方のプライドを粉々に砕いた。
「あいつは……俺たちの山崎じゃねェ。あの野郎が、あいつを別の何かに作り変えやがった……!」
土方は壁を拳で殴りつけた。皮膚が裂け、血が流れるが、胸の中の焼けるような怒りに比べれば、痛みなど感じなかった。
■ 沖田総悟の「静かなる狂気」
いつもなら軽口を叩く沖田も、この時ばかりは一言も発しなかった。
ただ、バズーカを握る指が白くなるほど力が入り、その瞳からは感情が完全に消えていた。
山崎は、沖田にとって
「いじめても必ず戻ってくる」
唯一の安全地帯だった。
その聖域を、万斉という無機質な奏者に踏み荒らされ、奪われた。
「……土方さん。次は、河上万斉の四肢をバラバラにしてもいいですかい」
その声は低く、冷たく、ただ純粋な殺意だけを研ぎ澄ませていた。
山崎を連れ戻すという目的は、今や
「万斉を跡形もなく消し去る」
という残虐な執念に変質していた。
■ 真選組という組織の「影」
現場に集まった平隊士たちの間にも、重苦しい沈黙が広がっていた。
真選組の情報を守り、自分たちの背後を支えていた監察・山崎退。
彼を奪われたことは、真選組の「目」を潰されただけでなく、組織の「絆」という誇りを汚されたことに他ならなかった。
「……トシ。もう一度、洗え」
近藤が、絞り出すような声で言った。
その顔は、かつてないほど険しい。
「山崎は、まだ生きてる。魂を奪われたなら、奪い返すまでだ。……真選組の名にかけて、[[rb:あの男 > 河上万斉]]を地獄の果てまで追い詰めるぞ」
土方は血の滲む拳を握り締め、夜空に向かって咆哮した。
「……河上万斉……!! てめーのその首、マヨネーズと一緒に叩き斬ってやる……!!」
真選組は、もはや公務としての捜索ではなく、
「奪われた家族の魂を取り戻す」
という、なりふり構わぬ修羅の集団へと変貌を遂げたのです。
【忘却の旋律、空白の再会】
「……さらばだ、山崎。拙者等の愛を受け止めてくれる者は居ぬのだ、いっそ、この世の雑音を捨て、拙者の腕の中で永遠の調べになれ」
人気のない崖の上、万斉が毒を含んだ盃を山崎の唇に寄せたその瞬間。
「そこまでだァァ!!」
土方の叫びと共に、無数の閃光弾が夜闇を白く塗り潰した。
「チッ……!」
万斉が三味線を手に取ろうとした瞬間、沖田の放った一撃が万斉の肩を掠める。
多勢に無勢、さらに山崎を抱えたままでは分が悪いと悟った万斉は、即座に判断を下した。
「……お主の『魂』は、既に拙者が書き換えた。追ってくるがいい、マヨネーズ侍」
万斉は山崎を土方の足元へ放り出すと、崖下へと身を踊らせ、夜の霧の中へと消えていった。
深追いしようとする隊士たちを制し、土方は転がった山崎を必死に抱き上げた。
「山崎! おい、山崎! しっかりしろ!」
土方の震える腕の中で、山崎はゆっくりと目を開けた。
だが、その瞳にはかつての親しみも、恐怖も、何も宿っていない。
ただ、深い霧のような虚無だけがあった。
「……あ、あの。……あなた達は、誰なんですか?」
その一言に、周囲の空気が凍りついた。
土方の表情が絶望に歪む。
沖田も、抜いた刀を下ろすことさえ忘れ、呆然と山崎を見つめた。
「何を言ってやがる。俺だ、土方だ! 真選組の副長だろーが! お前は俺たちの部下の、山崎退だ!」
必死に語りかける土方の言葉は、今の山崎には一滴の熱も持たない記号としてしか届かない。
山崎は怯えたように身を縮め、万斉が消えた闇の方を、恋しそうに、あるいは縋るように見つめた。
「山崎退……? それは、俺の名前なんですか……? 俺は、ただ……あの人の三味線の音だけを、覚えてるんだ……」
万斉による長期間の監禁と精神的な調律は、
山崎の脳内から真選組での日々——あんパンの味、
副長に怒鳴られた日々、
仲間と笑った記憶——をすべて削ぎ落としていた。
残されたのは、
「真選組の制服を着た、心のない人形」
だけ。
万斉は逃げた。しかし、彼は勝利していた。
山崎の体を取り戻したところで、彼の中にあった
「真選組の山崎退」
という魂は、万斉の手によってこの世から完全に抹殺されていたのだ。
「……ふざけんな。ふざけんなよ……!!」
土方の慟哭が、静まり返った崖に響き渡る。
目の前にいる男は、確かに山崎だ。だが、その心はもう、どこにもない。
真選組の勝利は、あまりにも残酷な「空虚」という名の敗北に塗り替えられた。
【静寂の侵入】【屯所に響く不協和音】
山崎が救出されてから数日。
真選組の屯所は、重苦しい空気に包まれていました。
記憶を失った山崎は、隊服を着ることも拒み、ただ自室の隅で膝を抱えて震えています。
彼が唯一反応するのは、風に揺れる木の葉の音や、遠くで鳴る弦楽器のような、微かな「音」だけでした。
深夜、静まり返った屯所の門前に、一人の男が立っていました。
三味線を背負い、
ヘッドフォンを着けたその男——河上万斉。
「……拙者の楽器を、こんな湿った場所に放置しておくのは忍びぬ。……迎えに来たぞ、山崎」
万斉が三味線の弦を一弾きすると、鋭い高周波が屯所中に響き渡る、
見張りの隊士たちが耳を押さえて倒れ込む中、万斉は悠然と、山崎の部屋へと歩を進めました。
■ 再会:呼び起こされる「調律」
山崎の部屋の戸が、静かに開きました。
「……だ、誰……?」
暗闇の中、怯える山崎の前に、月光を背負った万斉が立ち尽くしています。
万斉は何も言わず、ただ指先で三味線を優しく奏でました。
その瞬間、山崎の瞳が大きく見開かれました。
「……この、音……。……ばん、さい……?」
真選組の誰が語りかけても動かなかった山崎の心が、万斉の奏でる「不協和音」にだけ、狂おしいほどの熱を持って反応したのです。
山崎はふらふらと立ち上がり、吸い寄せられるように万斉の胸に飛び込みました。
「お利口だ。お主の魂は、まだ拙者のリズムを覚えておるな」
■ 土方の咆哮と、万斉の嘲笑
「……てめーッ!! どこまで舐めた真似しやがる!!」
異変に気づいた土方と沖田が、廊下を駆け込んできました。
抜刀した土方の剣先が、万斉の喉元に突きつけられます。
「山崎を離せ! その野郎から離れろ、山崎ッ!!」
しかし、土方の叫びは山崎には届きません。
山崎は万斉の着物を強く掴み、土方たちを
「知らない怖い人たち」
を見るような目で見据えました。
「……来ないで。この人の音を……消さないで……」
山崎の口から漏れたその拒絶に、土方は凍りつきました。
救いに来たはずの自分が、山崎にとっては
「愛する奏者との時間を邪魔する雑音」
に成り下がっていた。
「聴こえるか、マヨネーズ侍。お主らが取り戻したのは、ただの肉の塊に過ぎぬ。この男の『旋律』は、既に拙者と一つになった」
万斉は山崎を抱き寄せ、土方の目の前で彼を優しく、しかし支配的に抱きしめました。
「……さらばだ。この男は、拙者が永遠に弾き続けてやろう」
万斉が仕込んだ煙幕が炸裂し、再び屯所は白煙に包まれました。
煙が晴れたとき、そこには引きちぎられた真選組の隊服と、もぬけの殻となった部屋が残されているだけでした。
【終わりの旋律】【静まり返った屯所】
万斉と山崎が闇に消えた後の廊下には、煙幕の残骸と、土方が握りしめていた刀の鞘だけが転がっていた。
■ 土方十四郎の「死」
土方は、山崎がいた空っぽの部屋の前に立ち尽くしたまま、動くことができなかった。
「……来ないで。この人の音を……消さないで……」
耳の奥で、山崎の怯えた声がリフレインする。
副長として、命懸けで守ろうとした部下にとって、自分は救い主ではなく
「愛する人を脅かす怪物」
に成り下がっていた。
土方は、震える手でタバコを取り出そうとしたが、ライターの火が一度もつかない。
「……クソが……ッ!!」
彼は壁に頭を打ち付け、そのまま崩れ落ちた。
マヨネーズの匂いも、厳しい怒声も、今の屯所には不釣り合いなほど、彼の心は死に絶えていた。
■ 沖田総悟の「放棄」
「……やってられねーですよ」
沖田は、いつも磨いていたバズーカを放り出した。
その瞳からは、悪戯っぽい光も、獲物を狙うサディスティックな鋭さも消え失せている。
山崎をいじることで保っていた「日常」という均衡が、万斉の手によって完全に破壊された。
沖田にとって、山崎を忘れてしまった山崎は、もはや「山崎」ですらなかった。
「……土方さん。あいつ、もう俺たちのこと、欠片も覚えてやせんでしたね」
その言葉は、土方の心に最後の一刺しを加えた。
■ 近藤勲の「慟哭」
近藤は、静まり返った隊士たちを見渡し、ただ一人、声を殺して泣いた。
「山崎……。お前、あんなに真選組が好きだったじゃないか……。あんなに、俺たちの背中を支えてくれていたじゃないか……」
近藤には分かっていた。
山崎の記憶を消したのは万斉だが、山崎の心をあそこまで追い詰め、万斉の「音」に逃げ込ませてしまったのは、自分たちの慢心だったのかもしれないと。
■ 欠落した日常
翌朝の屯所に、この前までは当たり前だった
「ミントンの素振り音」
は響かなかった。
朝食の席に、地味な顔をしてあんパンを齧る男はいない。
報告書が遅れていると怒鳴られる監察もいない。
真選組という巨大な組織の歯車は、山崎退という
「小さな、しかし不可欠なネジ」
を失ったことで、ぎりぎりと異音を立てながら、ゆっくりと止まろうとしていた。
隊士たちは、もはや万斉を追う気力すら失いつつあった。
なぜなら、連れ戻したところで、そこにいるのは自分たちを拒絶する
「万斉の楽器」
でしかないことを知ってしまったから。
江戸の空は皮肉にも晴れ渡り、真選組の屯所だけが、
「忘れ去られた者たちの墓場」
のように、深い静寂に沈んでいった。
【帰還する奏者、囚われの調べ】
江戸の闇を切り裂き、鬼兵隊の軍艦へと帰還した河上万斉。
その腕には、真選組の誇りを奪われ、虚ろな目で万斉に縋り付く山崎退が抱かれていた。
「万斉先輩! 戻ったんスね、信じてたっス!!」
来島また子が真っ先に駆け寄り、万斉の無事を喜んだ。
続いて武市変平太も、眼鏡の奥の瞳を微かに和らげて歩み寄る。
高杉晋助は、甲板の奥で独り、煙管を燻らせながらその様子を静かに見守っていた。
■ 歪な「戦利品」の提示
万斉は皆の前で、足元に蹲る山崎の髪を愛おしそうに撫で、事も無げに告げた。
「……こやつは、拙者の『新しい弦』だ。真選組という雑音を削ぎ落とし、拙者のためだけに鳴るよう、調律を済ませてある」
万斉は詳しく語った。
いかにして山崎の精神を追い詰め、土方たちへの記憶をすべて消去し、自分なしでは生きられぬ「壊れた楽器」へと変貌させたかを。
普通であれば嫌悪感を抱くような背徳的な告白。
しかし、鬼兵隊の面々にそんな常識は通用しなかった。
「……なるほど。真選組の密偵を、物理的に消すのではなく、存在そのものを上書きして己の私物とする……。合理的、かつ非常に独創的なフェミニズムを感じますね」
武市は満足げに頷き、手帳に何かを書き留めた。
「また万斉先輩と一緒に戦えるなら、その地味な奴が横にいても文句ねーっス! そいつが先輩の楽器だって言うなら、大事に使い潰してやるっスよ!」
また子も、万斉の帰還という歓喜の前では、山崎の存在を
「便利な道具」
程度にしか認識していなかった。
■ 許可と支配
「好きにしろ、万斉」
奥から高杉の声が響いた。
「お前の奏でる曲が、その男を得てより狂い、より深くなるというのなら……俺ァ、それを止める理由はねェ」
主君である高杉からの「許可」。
それは同時に、山崎退がこの世から完全に消滅し、万斉の「私有物」として登録された瞬間だった。
■ 万斉の私物として
万斉は山崎の首に、三味線の糸で編んだ細いチョーカーを巻き付け、その端を自らの指に絡めた。
「聴こえるか、山崎。皆、お主を歓迎しているぞ。……これからは、拙者の影として、拙者の音色の一部として生きるがいい」
「……はい、万斉さん」
山崎は、かつての敵陣のど真ん中にいる恐怖さえ感じていなかった。
ただ、自分を支配する万斉の温度だけを求め、その足元に静かに額を寄せた。
鬼兵隊の船は、一人の男の魂を「部品」として飲み込み、再び混沌の海へと漕ぎ出した。
真選組が必死に守ろうとしたものは、今や高笑いと共に、壊れた旋律の一部となって消えていった。
【奏者の影、無垢なる残響】
鬼兵隊の船上、万斉の私室は常に低い三味線の音色に満たされていました。
山崎の日常は、万斉の起床と共に始まります。
彼は万斉の三味線の弦を磨き、ヘッドフォンのコードを整え、そして万斉が奏でるリズムに合わせて、その足元で静かに時を過ごすのです。
■ 調律される身体
万斉は、暇さえあれば山崎の身体を「点検」しました。
山崎の首に巻かれた、三味線の糸で編まれたチョーカー。
万斉はその糸を指で弾き、山崎が苦しげに、しかし恍惚とした表情で漏らす[[rb:吐息 > ノイズ]]を確認します。
「……良い響きだ、山崎。あやつらの記憶が消えた空白に、拙者の音色が隅々まで行き渡っておるな」
「……はい、万斉さん。あなたの音が聞こえないと……俺、自分が消えてしまいそうで……」
山崎にとって、万斉の音こそが自分の存在を証明する唯一の鼓動になっていました。
食事も、睡眠も、すべては万斉の演奏を邪魔しないタイミングで行われるよう、徹底的に調教されていきました。
■ 鬼兵隊の中での「愛玩物」
また子や武市たちが談笑する甲板に、万斉が山崎を連れて現れることもありました。
山崎は万斉の着物の裾を掴み、一歩後ろを影のように歩きます。
また子が
「相変わらず地味っスけど、なんか毒気が抜けて別の人形みたいっスね」
と笑っても、山崎はただ、万斉の影だけを見つめて無感情に微笑むだけでした。
時には、武市が
「真選組の機密を少しでも思い出せませんか?」
と実験的に問いかけることもありましたが、山崎は小首を傾げ、
「真選組……? 綺麗な名前ですね。三味線の曲名ですか?」
と、残酷なほど無垢に応えるのでした。
■ 夜のセッション
最も深い支配が行われるのは、月明かりが船室に差し込む夜でした。
万斉は山崎を膝に抱き、その背中をキャンバスにするかのように、三味線の撥の先でなぞります。
「お主は拙者の最高傑作だ。……誰にも聴かせぬ、拙者一人だけのための秘曲」
万斉の指が山崎の肌を弾くたび、山崎の身体は細かく震え、かつて真選組で培った肉体は、今や万斉の愛撫に屈するためだけに柔らかく変質していました。
山崎は、自分がかつて誰を愛し、誰と戦っていたのか、もう一切思い出すことはありません。
ただ、船底に響くエンジンの振動と、万斉が奏でる歪んだ旋律。
その二つの音に抱かれながら、山崎退は
「幸せな死体」
のように、鬼兵隊の闇の中で微睡み続けるのでした。
[newpage]
[chapter:壊れた楽器と、鳴り止まぬ残響]
江戸の沖合、黒い海を切り裂くように真選組の軍艦が鬼兵隊の船を包囲した。
「総員、突入ゥゥ!! 今度こそ、山崎を奪い返すぞ!」
土方の咆哮と共に、一番隊・二番隊が甲板へ躍り出る。
激しい白兵戦の中、土方は万斉の私室へと続く扉を蹴り破った。
そこには、三味線を手に不敵に笑う万斉と、その足元で三味線の糸に繋がれたまま、虚ろな目でうずくまる山崎の姿があった。
「……しつこいな、マヨネーズ侍。拙者の『最高傑作』を、まだ雑音の中へ連れ戻そうというのか」
万斉が三味線を一弾きすると、仕込まれた爆薬が作動し、船内に火の手が上がる。
混乱に乗じて万斉は撤退を選んだが、土方の放った手錠が、連れ去られようとした山崎の片手首を捕らえた。
「……離せ……っ、離せェ!!」
万斉は舌打ちし、繋がれた糸を自ら断ち切った。
「……返してやる。だが、そやつの中に拙者の音色がある限り、お主らに勝ち目はない」
万斉は爆炎の中に身を投じ、鬼兵隊の小舟で闇へと消えていった。
真選組は山崎を取り戻した。
しかし、残されたのは「奪還」という名の、さらなる地獄だった。
■ 屯所の隔離室にて
連れ戻された山崎は、真選組の隊服を
「汚らわしい」
と引き裂き、万斉から与えられた薄汚れた着物に縋り付いて泣き叫んだ。
「万斉さん……! 音が……音が聞こえない……! 俺を……俺を調律して……!」
土方が差し出したあんパンを投げつけ、近藤が優しく肩を抱けば、悲鳴を上げて逃げ惑う。
山崎の脳内には、万斉が刻み込んだ「不協和音」だけが正解として居座り、土方たちの声はすべて不快な雑音として彼を苦しめていた。
「……トシ。こりゃあ、もう……」
近藤が言葉を詰まらせる。
「分かってんだよ……。あいつは、体だけ戻ってきただけだ。魂は……あのヘッドフォンの野郎の指先に、残ったままだ」
土方は隔離室の格子越しに、自分の腕を噛み切らんばかりに震える山崎を見つめた。
山崎の首には、万斉が巻いた三味線の糸の跡が、消えない傷跡]として刻まれている。
真選組は山崎を救った。
しかし、彼らは知ってしまった。
救い出した部下は、自分たちの顔を見るたびに
「万斉さんのところへ帰して」
と、絶望の涙を流し続けるだけの
「壊れた楽器」
になってしまったことを。
鬼兵隊を取り逃がし、山崎の心も救えなかった。
真選組の屯所に流れるのは、もはや勝利の凱歌ではなく、終わりなき
「喪失の旋律」
だけだった。
【虚しき不協和音】【救出作戦の限界】
山崎を連れ戻してから数日が経過したが、彼の心は依然として万斉の「闇」の中に置き去りにされたままだった。
真選組は、あらゆる手段を用いて彼の記憶を呼び起こそうと試みる。
1. 想い出の「あんパン生活」の再現
土方は部屋を「あんパン」で埋め尽くし、山崎に24時間の張り込みを命じるシチュエーションを再現させた。
「ほら、山崎! ターゲットはまだか! 腹が減ったらそのパンを食え!」
山崎は山積みのあんパンを前に、怯えた目で呟く。
「……ターゲット? わかりません……。この丸い塊は、万斉さんの三味線の胴に似ていますが……音が鳴りません……」
彼はパンを食べるどころか、耳を押し当てて「旋律」を探し始めてしまった。
2. 禁断の「ミントン地獄」
沖田は山崎を無理やりコートへ引きずり出し、容赦なくシャトルを打ち込んだ。
「思い出せ山崎ィ! てめーの体は、この痛みを覚えてるはずだぜ!」
バシッという衝撃が山崎の体を打つ。
しかし、かつてなら
「痛いですよ隊長!」と叫ぶはずの山崎は、ただ地面に突っ伏したまま、恍惚とした表情で呟いた。
「……打撃音……。万斉さんの三味線より、少し……テンポが速い……」
痛みさえも、彼は万斉のリズムの派生として解釈するようになっていた。
3. 近藤の「局中法度」読み聞かせ
近藤は山崎の枕元で、真選組の魂である「局中法度」を延々と読み聞かせた。
「いいか山崎、武士道とは、真選組とは……!」
山崎はしばらくそれを聞いていたが、ふいに耳を塞いで激しく首を振った。
「やめて……! 雑音が……雑音がうるさい! 万斉さんの綺麗な『音』を、汚さないでください!」
泣き叫ぶ山崎を見て、近藤は言葉を失い、本を落とした。
4. 最後に試した「山崎の部屋」
土方は、山崎がかつて大切にしていた私物
——カバディのルールブックや、地味な色の着替えを見せた。
「これが、お前の生きた証だ。思い出せ、お前は……」
山崎はその品々を手に取り、無表情に一言放った。
「……これ、誰のゴミですか? 俺には、万斉さんの予備の三味線の弦があれば、それでいいんです」
■ 絶望の静寂
何をやっても、山崎の反応は万斉というフィルターを通したものにしかならなかった。
真選組が必死に繋ぎ止めようとしている
「山崎退」
という男は、すでにこの肉体の中にすら存在していないのではないか。
そんな絶望が、屯所の中にじわりと広がっていく。
「……トシ、もうやめろ」
近藤が、疲れ果てた声で土方の肩に手を置いた。
「あいつを……山崎を苦しめてるのは、俺たちの方なんじゃないか……?」
土方は、握りしめたタバコをへし折った。
自分たちが山崎を
「救えば救うほど」
山崎は万斉の不在に苦しみ、自分たちを拒絶する。
真選組の必死の奮闘は、皮肉にも
「山崎の心は、もう二度と戻らないかもしれない」
という冷酷な事実を浮き彫りにするだけの結果に終わった。
【壊れた調べの鎮魂歌】
深夜、真選組本部の正門が爆鳴と共に吹き飛んだ。
煙の中から現れたのは、殺意を剥き出しにした鬼兵隊の残党たち。
「万斉先輩を……我らの奏者を侮辱した幕府の犬ども! 山崎を返せ、さもなくばここを墓場にしてやるっス!」
来島また子の絶叫が響き、二丁拳銃が火を噴く。
武市変平太も冷徹に隊士たちを斬り伏せ、屯所は瞬く間に戦場と化した。
■ 鬼の咆哮
「……てめーら、どの面下げてここに来やがった!!」
土方十四郎が、マヨネーズの蓋を投げ捨てる間もなく抜刀し、正面からまた子の弾丸を弾き飛ばす。
その瞳には、山崎の記憶を戻せなかった己への苛立ちと、元凶である鬼兵隊への凄まじい怒りが宿っていた。
「山崎は……あいつはもう、てめーらの道具じゃねェ! 魂まで泥を塗りやがって……その落とし前、命で払ってもらうぞ!」
■ 沖田の狂気
「死んじまいなせェ、野郎ども」
沖田総悟は、いつになく無表情にバズーカを掃射し、鬼兵隊の進路を断つ。
彼の狙いは、山崎を「調律」という名で壊した万斉の影を、この世から一掃することだけだった。
■ 檻の中の「不協和音」
激しい剣戟の音が屯所に響き渡る中、隔離室にいた山崎は、ガタガタと震えながら耳を塞いでいた。
「……あ、あ、ああ……! この音……戦いの音……。違う、万斉さんの音じゃない……! 万斉さん、どこ……!? 助けて、耳が……頭が割れる……!!」
山崎にとって、真選組の怒号も鬼兵隊の銃声も、すべては万斉の三味線という「正解」を汚す雑音でしかなかった。
彼は自らの爪で腕を掻き毟り、血を流しながら、かつての仲間たちが自分を巡って殺し合う光景を、他人事のように、しかし恐怖に満ちた目で見つめていた。
■ 戦場の中の断絶
「山崎殿! 迎えに来ましたよ!」
武市が隔離室の鍵を斬り飛ばし、山崎に手を差し伸べる。
「山崎、逃げるぞ! 先輩のところへ戻るんス!!」
また子が叫ぶ。
その時、土方が割って入った。
「行かせるかァァ!! 山崎、そいつらの手を取るんじゃねェ! お前は真選組の……山崎退だろーが!!」
山崎は、差し伸べられた「鬼兵隊の手」と、自分を呼び止める「真選組の刀」の間で、白目を剥いて叫んだ。
「……誰だ……誰なんだよお前ら……! 俺を……俺を放っておいてくれ!! 万斉さんのいない世界なんて、全部……全部消えちゃえばいいんだ!!」
山崎の絶叫と共に、戦場はさらなる混沌へと突き進む。
救いたい者、奪いたい者、そしてすべてを忘れて壊れた者。
屯所の炎に照らされた彼らの姿は、もはや正義も悪もなく、ただ一人の男の「記憶」という名の奈落で踊る影法師のようだった。
【帰還と心酔】【狂った調律の完成】
「……万斉先輩! 連れ戻したっスよ、山崎を!」
また子の声と共に、艦内の奥深く、薄暗い私室の扉が開かれました。
そこには、肩の傷を癒しながらも、静かに三味線を構える河上万斉の姿があった。
山崎は、また子の腕を振り払うようにして万斉の足元へ転がり込んで、
その瞳には、真選組で見せていた怯えや虚無は微塵もなく、
あるのは、乾いた大地が雨を求めるような、狂おしいほどの渇望だけだった。
「……ばん、さい……さん。……音が……あなたの音が、聞こえなくて……死ぬかと、思った……」
万斉は無言で山崎の顎を掬い上げ、その頬を冷たい指先でなぞり、
真選組が必死に刻もうとした「記憶」の跡を、上書きするように強く、執拗に。
「お利口だ、山崎。……雑音の中に放り込まれ、ようやく理解したか。お主の魂が、拙者の指先なしでは形を保てぬということを」
「はい……。……俺を、壊してください。……あなたの音だけで、満たして……」
万斉は満足げに目を細めると、傍らに控えるまた子たちに一瞥をくれました。
「大義であった。……こやつは、以前にも増して良い『鳴り』を見せるだろう。これより、再調律に入る。誰も通すな」
扉が重く閉ざされ、密室には万斉と、彼に心酔しきった山崎だけが残されていた。
■ 終わりのない「可愛がり」
万斉の寵愛は、以前にも増して苛烈で、甘美なものとなり、
彼は山崎を一時も側から離さず、寝食さえも自分の管理下に置いた。
山崎の首に巻かれた三味線の糸は、今や彼を繋ぎ止める拘束具ではなく、万斉と自分を繋ぐ
「唯一の絆」
として、山崎自らが愛おしそうに指でなぞるものへと変わっていった。
万斉が三味線を弾けば、山崎はそのリズムに合わせて身体を震わせ、万斉が指を鳴らせば、犬のようにその足元に跪く。
「聴こえるか、山崎。お主の鼓動が、拙者の旋律と完全に同調しておるぞ」
万斉は山崎を膝に抱き上げ、耳元で執拗に囁き続ける。
土方や近藤の名を二度と思い出せぬよう、その耳に自分の声と音だけを流し込み、
山崎が快楽と痛みの混ざり合った悲鳴を上げるたび、万斉はそれを「最高の楽曲」として愛で、山崎の全身を自分の色で塗り潰していった。
「……もう、どこへも行かせぬ。お主は一生、拙者の腕の中で鳴り続ける、ただ一つの楽器だ」
「……あ、あぁ……。……しあわせ、です……万斉さん……」
鬼兵隊の船底。
真選組という「過去」を完全に焼き捨てた山崎退は、自分を壊し続ける奏者の腕の中で、この世で最も残酷で幸福な終止符を打ち鳴らされ続けていたのです。
希死念慮。
3,921

2,049