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#契約結婚
草原草原

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#王道
涙乃
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#ざまぁ
草原草原

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三日目の朝、八時五十分。私は三日ぶりに、二十八階の経理部に立っていた。
ただし、社長の後ろに。
エレベーターの中で、社長は一度だけ口を開いた。
「質問は、全部君がしろ。私は後ろで聞いている」
「社長が聞いたほうが、課長は答えると思います」
「私が聞けば、あの男は私の顔色を見て答える。君が聞けば、君を侮って答える」
階数表示が、三十、二十九と下がっていく。
「侮られている人間のほうが、よく見える。違うか」
違わなかった。三年間、私はずっとそうやって見てきたのだから。
扉が開く直前、社長は前を向いたまま言った。
「怖ければ、私の背中を見ていろ」
返事をする前に、扉が開いた。
経理部の朝礼は、毎朝九時に島の端の通路で行われる。課長が前に立ち、課員と派遣が半円に並ぶ。派遣はいつも、その半円の一番外側だ。
今日、半円の真ん中にいるのは、鷹宮怜だった。
ざわめきが波のように広がって、すぐに消えた。
誰も社長の顔を正面から見ない。見ないまま、全員が、その後ろに立つ私を見ていた。
グレーのカーディガン。黒縁の伊達眼鏡。三日前まで窓から一番遠い席にいた派遣が、氷の社長の背中に隠れるように立っている。
「おはようございます、社長。いやあ、朝礼にまでお越しいただけるとは」
野々村課長が、揉み手をしながら半円の前に出てきた。今日のネクタイは、黄色に細い紺の線。
「本日は、瀬名さんの処分のご報告で?」
「そのつもりだ」
社長は短く答えた。
「始めろ、瀬名」
私は、社長の背中から一歩横に出た。
三十人分の視線が、肌に刺さる。眼鏡のつるに指をかけて、外した。
「野々村課長。いくつか質問をさせてください。はい、か、いいえで答えていただければ結構です」
課長は鼻で笑い、課員のほうを振り返った。
「聞きました? 派遣さんが、課長に質問ですって。社長に取り入ると、こうも変わるもんですかねえ」
何人かが、気まずそうに笑った。
「瀬名さぁん。あなたね、社長の隣にいられるのは、その、なんだ、変わった特技のおかげでしょう? それとも、ほかに何か――」
「野々村」
社長の声は低かった。それだけで、課長の口が閉じた。
「質問に答えろ。それ以外は、しゃべるな」
私は一つ目を口にした。
「四月七日、課長は十八時三十分に、ご自分の社員証で退館しましたか」
「……はい。言ったでしょう、六時半には帰ってるって」
一本の線。本当だ。
「十九時半ごろ、仮カードで、もう一度入館しましたか」
「いいえ」
言い終えた直後、課長の目が、私ではなく半円の課員たちの顔を、左から右へなぞった。皆が信じたかどうか、確かめるように。
――ぶれた。
「今の、嘘です」
半円が、小さくどよめいた。
課長の顔から笑いが消える。
「な、何を根拠に」
私は、柏木室長から預かっていた紙を広げた。
「一階受付の、仮カード発行簿です。十九時三十一分、理由は『社員証を自宅に忘れたため』。受け取りのサインは、野々村達也。課長の字です」
「そ、そんなもの、誰かが私の名前を」
「課長は十八時三十分に、忘れたはずの社員証で退館しています。ゲートの記録が残っています」
課長は口を開けて、閉じた。
私は、彼の足元に目を落とした。
つま先の丸い、茶色い革靴。三年間、毎日見てきた靴だ。ネクタイは日替わりなのに、靴だけは一度も替わったことがない。
「その靴は、四月七日も、履いていましたか」
課長は答えなかった。
唇を、内側に巻き込んだ。言葉を、口の中に閉じ込めるみたいに。
柏木室長が、ノートパソコンを課員に向けた。十九時四十分の、経理部北東の天井の防犯カメラ。パーテーションの下の隙間、私の椅子の横に、つま先の丸い茶色い革靴。
半円の視線が、画面と課長の足元を、何度も往復した。
「あ、あんな靴、どこにでもある!」
「はい。どこにでもあると思います」
私はうなずいた。
「なので、もう一つあります」
柏木室長が、最後の書類を課員に配る。
「三千二百万円の送金先は、取引先の有限会社サンエイ企画。同じ日の二十一時、サンエイ企画の口座から、同じ額が個人の口座へ振り替えられています」
室長は、事務的な声で続けた。
「名義は、野々村達也課長の奥様の、旧姓です」
誰かが息をのむ音がした。
「それから、課長の机の、鍵のかかる引き出し」
社長が、低い声で続けた。
「派遣社員全員のパスワードを書かせた紙が入っていた。瀬名の紙だけ、折り目が新しかった。最近、誰かが開いて見たんだろう」
課長の膝が、目に見えて震えはじめた。
黄色いネクタイを、指で何度も引っ張る。
「ち、違う、私は……私は、経費システムには、一度も」
「委員会でも、そうおっしゃいました」
私は言った。
「あのときも、瞬きが止まって、三回続きました」
半円の一番外側にいた派遣の子が、小さく「うそ」とつぶやいた。
社長が振り返り、エレベーターホールのほうへ顎を引いた。待機していた警備員が二人、通路を歩いてくる。
課長の顔が、みるみる赤から白に変わった。
「社長、待ってください、これは何かの間違いで。私はね、この会社に二十年」
「刑事告訴の手続きは、今朝済ませた。続きは警察で話せ」
警備員が、課長の両腕を取った。
その瞬間、課長が私に向かって叫んだ。
「あの女の通報がなければ! あの女がこそこそ通報なんかしなけりゃ、こんなことには!」
唾が飛んだ。課員たちが一歩下がる。
「なあ、おかしいと思わないのか! 匿名の通報だぞ! なんで俺が、通報されたって知ってたか、誰も聞かないのかよ!」
声が、天井に反響して消えた。
誰も答えなかった。
社長も、柏木室長も、何も言わなかった。私は社長の横顔を見たけれど、輪郭を読むための言葉は、そこにはなかった。
課長は警備員に両腕を取られたまま、エレベーターホールへ引きずられていった。茶色い革靴の踵が、床をこする音だけが、最後まで残った。
*
沈黙のなかで、誰かがぽつりと言った。
「……派遣のくせに、課長をはめたんじゃないの」
小さな声だった。けれど、三十人がいる通路で、聞こえない人はいなかった。
社長が、課員たちのほうへ向き直った。
「よく聞け」
いつもの、温度のない声だった。
「瀬名灯は、今日から私の専属秘書だ。派遣でも、元派遣でもない」
半円が凍りつく。
「彼女を侮辱するのは、私を侮辱するのと同じだ」
誰も、何も言わなかった。
私も、何も言えなかった。
外した眼鏡を握った手が、今になって震えていた。三日前、委員会で笑われたときは、少しも震えなかったのに。
社長はもう課員を見ていなかった。
「瀬名。荷物をまとめろ。五分で上がる」
「……はい」
*
窓から一番遠い席の引き出しには、三年分の私物が入っていた。
マグカップと、ひざ掛けと、辛いせんべいの袋。それから、カーディガンの予備のボタン。
段ボールを一つもらって、全部入れても、半分も埋まらなかった。
廊下に出ると、早乙女ゆりながエレベーターの前に立っていた。
スマホを胸に抱えて、いつもの甘い笑顔で。
朝礼の間、彼女はずっと半円の端でうつむいていた。課長が連れていかれるときも、顔を上げなかった。
すれ違いざま、彼女は私にだけ聞こえる声で言った。
「調子に乗らないでね。派遣さん」
コメント
1件
第4話、一気に引き込まれました…! 派遣だからこそ見える風景と、三年間の観察力が冴え渡る展開が清々しかったです。特に「侮られている人間のほうがよく見える」という社長の言葉が、このお話のすべてを象徴している気がして胸が熱くなりました。そしてラストの「調子に乗らないでね」の棘…続きが気になりすぎます。