テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#契約結婚
草原草原

564
72
#王道
涙乃
848
#ざまぁ
草原草原

634
秘書の仕事は、伝票よりずっと人の顔が多かった。
七時半、社長より先に四十三階に上がる。八時、柏木室長から一日の予定表を受け取る。八時十五分から十分刻みで、来客、会議、電話、移動、来客。
予定表の余白には、室長の几帳面な字で注意書きが並んでいた。
『社長は昼食を抜く。十二時四十分に必ず声をかけること』
『社長はコーヒーに砂糖を入れない。入れると無言で全部飲み、その後一日機嫌が悪い』
最後の一行だけ、なぜか赤ペンだった。
「瀬名さん」
室長は、予定表を渡すときも私の目を見ない。
「私は、あなたを信用したわけではありません。社長がそうおっしゃるから、仕事をお渡ししているだけです」
「わかっています」
一本の線。この人は、いつも本当のことしか言わない。それが少しだけ、ありがたかった。
*
社内の噂は、エレベーターより速かった。
まどかが受付の内線で教えてくれたところによると、今いちばん回っているのは、こうだ。
「社長が、地味な派遣を囲った」
「囲ったって」
「愛人ってこと。給湯室では、灯はもう社長室に住んでることになってる」
「住んでない」
「わかってるって。でもね、噂って、本人が否定すると倍になるの。黙ってな」
まどかは笑って内線を切った。
社長室に戻ると、私の机の上に、小さな白い札が置いてあった。
社員の名札だ。透明なケースに、厚手の紙が一枚。
『社長室 瀬名灯』
手書きだった。濃い青のインク。万年筆の、少しかすれた線。
「印刷所に頼むと、一週間かかる」
執務机の向こうで、社長が書類から顔を上げずに言った。
「それまで名札なしで歩かせると、来客が君を誰だかわからない」
「社長が、書いたんですか」
「柏木の字は、角ばりすぎて読みにくい」
扉の前で、柏木室長がわずかに咳払いをした。
名札を手に取る。
瀬名の二文字は、端正な楷書だった。けれど、灯の字だけが少し違う。左側の火偏、その上の二つの点のうち、外側の点が、筆の勢いのまま左下へ長く流れている。
炎が、風に一方向へなびいているみたいな字だった。
「……ありがとうございます」
「仕事に必要なものを渡しただけだ」
社長は、それきり書類に戻った。
私は名札を、カーディガンの胸に留めた。少し、重かった。
*
十時の来客の前に、社長が私を呼んだ。
「今日から、来客には全部同席しろ。ただし、口は挟むな」
「はい」
「客の前で、君が『今の、嘘です』と言ったら、商談が終わる」
「……言いません」
「言いたくなったら、どうする」
私は少し考えて、机の上のボールペンを手に取った。ノックすると、カチ、と乾いた音がする。
「これで、どうでしょう」
社長が、目だけをこちらに向けた。
「一回なら、本当。二回なら、嘘です」
カチ。カチ、カチ。
「読めないときは」
「読めないとき?」
「顔が半分しか見えないとき。電話や画面越し。それから、言葉が本当でも、言い方で誤魔化されているとき。そういうときは、こうします」
私は、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
社長は、私の指先と眼鏡を、黙って見ていた。
「ノック一回は、本当」
彼は、自分の机のペンを取って、一度だけ鳴らした。カチ。
「覚えた」
それから彼は、ペンを持ったまま私を見た。
「試す。今朝、君が淹れたコーヒーには、砂糖が入っていた」
一本の線。
私は反射的に、ペンを一回鳴らした。カチ。
鳴らしてから、気づいた。
今朝、私は社長のカップに、角砂糖を二つ落とした。経理部で三年、課長のコーヒーには毎朝二つ入れさせられていたから、手が勝手に動いたのだ。
柏木室長の予定表の、赤ペンの一行を思い出す。入れると無言で全部飲み、その後一日機嫌が悪い。
「……すみません」
「謝れとは言っていない。合図が正しいか、確かめただけだ」
社長は書類に目を戻した。空になったカップが、机の端に置いてあった。
その音が、なぜか耳に残った。
*
十時。来客は、資材の取引先、丸辰物産の常務だった。
六十前後の、よく日に焼けた男だった。名刺の角まで、きちんと揃えて差し出してくる。
社長の斜め後ろ、壁際の椅子に座った私を、常務は一度だけちらりと見た。それから、人のよさそうな笑顔を社長に向けた。
「いやあ、鷹宮社長。お若いのに、ご立派で。先代の会長には、うちの先代が随分お世話になりましてね」
「そうですか」
社長の返事は、いつもどおり短い。
常務は来期の資材の一括契約について、数字を並べていった。単価は昨年より三パーセント下げる。その代わり、契約期間を五年に延ばしたい。
「御社とは、これからも長いお付き合いを、と考えております」
言い終えて、常務はにっこりと笑った。
口角は、きれいに上がっていた。けれど、目尻の皺がひとつも動かない。頬から上だけが、写真のように止まっている。
――ぶれた。
私は膝の上のボールペンを、二回鳴らした。
カチ、カチ。
社長は振り返らなかった。ただ、指先で資料の端をそろえ直した。
「常務。五年の契約は、今日はお受けできません」
「……は?」
「単価の三パーセントは、魅力的です。ですが、長いお付き合いを考えておられる相手と、五年の縛りが必要だとは思えない」
常務の笑顔が、初めて、目尻まで固まった。
「社長、それは」
「本日は、ここまでで」
社長が立ち上がる。常務も、つられるように立った。名刺を揃えていた指が、わずかに震えていた。
扉が閉まったあと、社長は柏木室長に一言だけ言った。
「丸辰の、ほかの取引先との契約を洗え」
三日後。丸辰物産が、鷹宮の競合二社と同じ資材を、同じ時期に、二重に契約していたことがわかった。五年の縛りで鷹宮の発注を固めたうえで、品薄の時期に競合へ高値で回す算段だったらしい。
報告を読み終えた社長は、私の机の前で一度だけ立ち止まった。
何も言わずに、ペンを一回鳴らして、執務机に戻っていった。
カチ。
意味を考えて、私は耳が熱くなった。
褒められた、のだと思う。たぶん。
言葉にしない人の一回のノックは、どんな言葉よりわかりにくくて、どんな言葉より正確だった。
*
その日の夕方、柏木室長が一枚の紙を私の机に置いた。
「今月末の社長賞の、候補一覧です。表彰式の進行表を作っていただきます」
社内の改善提案の中から、社長が年に一度選んで表彰する賞だ。派遣には応募資格がない。だから、私には関係のない行事のはずだった。
一覧の三行目で、目が止まった。
『固定資産の減価償却計算の様式統一による、子会社経理業務の削減(年間削減見込み一千八百万円) 経理部主任 早乙女ゆりな』
去年の秋、私が三か月かけて作った提案だった。
子会社ごとにばらばらだった減価償却の計算表を、一つの様式に揃える。夜、家で母が寝たあとに、台所のテーブルで打った。派遣は応募できないから、主任に「部の名前で出してもらえませんか」と頼んで、ファイルごと渡した。
ゆりなは、「えー、いいですよぉ」と笑って受け取った。
あれは、私が書いたものです。
そう言えばいい。
言えば、また始まる。派遣のくせに。社長に取り入って。今度は主任の手柄まで。
名札の、左に流れる火偏の点を、指でなぞった。
コメント
1件
あー、これ、めっちゃいいわ……!第5話で一気にギア上がった感じがする。 社長が書いた名札の「灯」の字、火偏が風になびいてるみたいに流れてるところとか、ああいうプロップの使い方すごく好き。ただの小道具じゃなくて、関係性が滲んでるんだよな。 それに「ノック一回は本当、二回は嘘」ってルールを二人だけの暗号にして、最後の社長の“カチ”で褒めてるのがもう…言葉にしない男のロマンすぎる。経理部の横取りエピも来たし、次でざまぁキマる予感しかしない。続き楽しみすぎてヤバい🔥