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「教職員の立場からすれば、生徒の安全を考えると……何かあったときに備えて、やはり……」
深澤先生は言葉を少し切り、視線を佐久間に向けた。
その目には、冷静さと同時に、ほんのわずかな躊躇が見える。
岩本先生は腕を組み、険しい表情でそれを見つめる。
「ですが、退学は反対です」と、先ほどと変わらず強く言い切る。
「俺も岩本先生と同じ思いです」
会長は静かに、しかし確固たる口調で言った。
その声は、岩本先生の言葉にしっかりと同調していた。
「必要なんです。この学園に」
姫だから──いや、
姫でなくても
俺には
このまま離れることを、考えたくはなかった。
不思議なもので、
今ではそれほど大切だと思っていなかったものを、
ふいに失ってしまうと──
あれは、大切だったのだと気づかされる。
そして後悔が胸の奥を締め付ける。
──まさに、今の気持ちがそれなのだ。
オレはただ、そっと目を閉じ、
この感情の意味をかみしめるしかなかった。
「……わかりました。私には、退学の決定権ありませんから今は目を瞑ってはおきますが、今後何事もなければです」
声は静かだが、どこか重みがあった。
だが、その口調には、慎重さと迷いが混ざっている。
深澤先生はその言葉に微かに頷き、
佐久間の母親も、静かに表情を和らげた。
オレはその場の空気を見つめながら、
今、この瞬間がどれほど大切なのかを、改めて胸に刻んだ。
「飲み物、冷めていませんか? 変えてきましょうか」
佐久間の母親が気遣うように声をかけ、重苦しい空気をふっと緩ませた。
「いえ、お気遣いなく」
深澤先生は落ち着いた声で答える。しかし、その視線はテーブルではなく、どこか考え込むように宙を泳いでいた。
(他にも聞きたい事がもう1つある……)
会長も岩本先生も、固く口を閉じたまま様子をうかがっている。
「そうですか」
短く返し、佐久間の母親は自分のカップをそっと持ち上げ、コーヒーを一口含んだ。
香りだけでは隠せない緊張が、その動作の端々に滲む。
そして、静かに口を開いた。
「先程の深澤先生のご発言につきまして、少し伺ってもよろしいかしら」
深澤先生の眉が、わずかに動く。
「『今後』とおっしゃいましたが……既に何か、おありだったのではないかと思いまして」
部屋の空気が、また固く張りつめた。
各々、その言葉に表情を歪めた。
緊張の糸を軽く引かれたように、全員の顔つきが微かに強張る。
「そうなんですのね」
佐久間の母親は、誰一人として答えようとしない沈黙を見渡した。
「無理にお話されなくてもよろしくてよ」
微笑んではいるが、目はまったく笑っていないように見えた。
その瞬間、体が意思とは無関係にふらりと傾く。
(やっぱりこのコーヒーに……何か)
疑念が頭をかすめた、そのすぐ後だった。
「コーヒーに何も入れてませんよ」
佐久間の母親の声が、部屋の空気を冷たく切り裂く。
反射的に左を見る。
俺以外は無事なのか。
その確認すら、うまくできないほど頭が霞んでいく。
そして、
思考が止まった。
頭の中で何かがブツンと切れたような感覚が走り、
視界が、すうっと黒く染まっていく。
音も途切れ、声も遠のき、
ただ真っ暗な闇だけが目の前に広がった。
「深澤先生っ!」
隣で崩れ落ちそうになった深澤先生の体を、俺は咄嗟に片腕で支えた。
その瞬間――
「あら、阿部くんは平気なのね」
佐久間の母親の、柔らかいのに底が見えない声が落ちてくる。
……っ!
コーヒーじゃない。
“コーヒーには何も入っていません”という意味は
つまり――コーヒー ではない 何か。
「お気づきになられて?」
彼女はゆっくりと俺を見る。
ぞくり、と背骨が冷たくなる。
「阿部くん、あなたの花束、いいカモフラージュになりましたよ。【アシスト】ありがとう」
その言葉と同時に、彼女はソファーから静かに立ち上がった。
そして、逃げ場のない距離で手を伸ばし、
斜め向かいの席に座る俺の頭をまるで慈しむように、そっと撫でた。
優しい手つきなのに、
指先の温度だけが妙に冷たく感じた。
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