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仕掛けられたのは目に見える物ではなかった。もっと厄介で、もっと逃げ場のないもの
――匂い。
柔らかくて淡くて、意識しなければただの香りで済むはずのものが、
一度気づいてしまったら最後、身体の奥で静かに火を点けてくる。
(回避出来なかった……)
俺が持ってきた花束の香りが、
結果【偽装工作】に使われた。
微かに花の香りがしても、それは花束だって
気にしていなかった。
またしても先入観
(……俺のせい)
逆に、足元を掬われたのは俺の方だった。
顔立ちも、ふとした瞬間の目の動きも、佐久間
と驚くほど似ているその人が、
ゆっくりと目を細めて俺を見ていた。
「どうしてあなたには、睡眠を促す花の香が効かないのかしら。同じく耐性があるのかしら?」
静かな声なのに、核心だけを刺してくるような鋭さがあった。
俺は言葉を返せない。
返せば、動揺の全てが露わになる。
母親はその沈黙さえも楽しむように、
小さく息を吐いて微笑んだ。
「……嫌だわ。そんな人が身近に居るなんて。」
“身近に”。
言葉の端に含まれた意図が重くのしかかる。
鼓動だけがやけに速い。
効かないどころか、内部をかき回されているのは俺の方だ。
母親の指が、さっき撫でた場所にまだ触れている気がした。
その距離感の近さすら、意図されたものだとわかる。
「ねぇ、阿部くん」
柔らかい声なのに、逃げ道を塞ぐような圧があった。
「さっき_話したくなさそうにしていた@・・・・・・・・・_大事な内容について、話してくれないかしら?」
俺は一瞬呼吸を止めた。
(……見透かされてる)
母親はコーヒーカップを指先で軽く揺らす。
「もちろん、ただとは言わないわ」
ゆっくり、ほんの少し唇の片端を上げる。
「交換条件として、あなたの欲している答えを、ひとつ教えてあげる。」
脳の奥が反応した。
欲している答え
この短期間に調べはしたがそれはほんの一部であり、知り得た内容について信憑性に欠ける部分はある。
俺が、ずっと喉の奥に刺さっていた疑問のどれかをこの人は把握している。
やはり知っているのだ。
母親は俺の動揺を楽しむように、ゆっくり首を傾けた。
「どうする? 阿部くん。話してくれるなら、私もひとつだけ正直になりましょう。」
選択を迫っているというより、
どんな答えを選んでも彼女の掌の上に落ちる未来しかない
そんな空気だった。
選択肢は1つしかない
けど素直に「はい」と1つ返事をしてこの提案を承諾するべきなのに
その一言が出てこない
抵抗をする。
「返事お聞かせ願えないかしら?それとも沈黙は肯定と受け取ってもよろしくて?」
俺に残された選択肢は実際、ひとつしかない。
そう理解しているのに、喉が固まって、声が出なかった。
頭でわかっているのに、身体が拒む。
承諾の「はい」
たった二文字を言うだけでいい。
なのに
出ない
心臓の鼓動だけがやけに大きく響いて、喉の奥を塞いでいた。
そんな俺を眺めながら姫と瓜二つの顔が微笑んでいる。
「返事、お聞かせ願えないかしら?」
穏やかな声。
優しい音色。
だが内容は完全に【圧】だ。
「沈黙は肯定と受け取っても、よろしくて?」
空気が、ピン、と張りつめた。
否定したくても声がでない。
肯定したくても言葉が出ない。
(まずい……このままじゃ本当に了承扱いに)
深澤先生は未だ意識を落としており、
頼れる状況ではない。
岩本先生、姫は論外
喉が凍りついたように動かないまま、
俺はゆっくりと視線を落とし、
無言で頭を垂れた。
それは、言葉以上の意味を持つ仕草だった。