時刻を確認すると午前9時だった。
歩みはなかなか止まらない。
じんわりと汗をかき、服は肌に張り付いてしまっている。不快感は無意識に顔をしかめさせる。
残念なことに、8月は気持ちのいい朝を迎えてきてはくれなかった。
私自身は待っていたのだが、来る日も来る日も陽光は厳しさを増し、吹き付ける風は弱く生暖かいばかりだ。
夏の味方である制汗スプレーや、汗拭きシートなどのアイテムは役に立たない。
そんなものより、湧き出る汗をひたすら拭う方が効果的にすら感じる日々だ。
全国的に猛暑が続く予報で、まだまだこれからが夏の本領といったところか。
息が荒くなるのを堪えながら、駅のホームを歩き続ける。
「アキラ、あなたは暑さに弱いのね」
唐突に私は口を開いた。
「何言ってるんだよ。こんな暑さで平気な方がおかしいだろ」
「あら、そう。私、けっこう平気よ」
言葉ではそういうが、内心はかなり辛かった。
姉として、弟の前では見栄を張りたかったのだ。
アキラは驚いて私を見た。
「それはすごい。俺は暑がりだから少しもアカリの気持ちがわからないよ」
「双子なのに?」
「二卵性だろ」
「ふうん。弟失格」
「それは関係ないだろ」
それには何も答えず、颯爽と高いヒールを鳴らしてみせて目的地へ急ぐ。
人もまばらな4番乗り場で歩みを止め、いつものようにアキラと冗談を言い合いながら談笑した。
しかし、ホームは何かと騒々しいため、互いの声は断片的にしか聞こえなかった。
「……で、してね……」
「……へぇ……なんだ」
それでも、笑顔は絶えなかった。
アキラの顔を見ているだけで楽しかったからだ。
どこかあどけなさが残る美麗な困ったような笑顔は、誰が見ても美しかった。
かわいい弟に笑顔を返してやり、そうやってしばらくの間、感情のラリーを続けていると電車の到着を告げる声が鼓膜に響いた。
見ると、電車が時間通りに来ていた。
レールの上を巨大な鉄塊が速度を落とし、ゆっくりと目の前に停止する。
扉が開くのと同時に、多くの人が乗降口からわらわらと出ていき、次には、また多くの人が乗降口から入っていく。
もちろん、私たちも乗り込んだ。
束の間の往来は落ち着きを取り戻し、メロディが発車を告げる。
人は多かったが、満員とまではいかないため邪魔されることなく会話は聞き取れそうだった。
話を切り出したのは私だった。
「それで、時間は間に合うよね」
「うん。何とかね」
「楽しみだね。動物園」
そうだ。私たちは動物園へと行くのだ。
方角からも分かる通り、M動物園である。
確か名物は生まれたばかりのメスのパンダがいた。名前はタンタンだったか。
「結構大きいところなんだろ。久しぶりにライオンとか見てみたいし、ワクワクするな」
「アキラって、ほんと子供みたい」
「楽しみって言ったのはアカリだ。アカリだって子供に違いない」
私は弟がムキになる姿に笑ってしまった。
周りから少し視線を浴びて、慌てて何事もなかったように取り澄ました。
アキラは構わず続けた。
「それより、俺は大型動物が好きなんだよ。当たり前のように居るけど、本当に現実に存在するのかなってふとした時に思えるロマンがある」
「ふうん。なんかアキラっぽいね」
「馬鹿にしてないよな」
「してないよ。私なんか言ったっけ」
とぼけた表情をして、くすくす笑う。
そんな様子にアキラは抗議するが、慣れっこのようで諦めは早かった。
それからは大学内での話をした。
試験は何とかなりそうか。サークル活動の調子はどうか。この前、友達のハヤトがレポートを誤って消してしまい、むせび泣いていただとか。
車窓の向こう側の過ぎゆく街並みは、いつしか網膜の上面から溶け出していった。
そこで、私は微睡んでしまった。
まぶたの裏を鑑賞していると、人がうごめく気配が伝わってきた。
そこでようやく、自身が少しだけ眠ってしまっていたことに気付く。
私は慌てて電車を降り、アキラを見る。
アキラは隣で何か話していたが、上手く聞こえなかった。
まだ眠気が取れていなかったからだ。
段々と声は明瞭になる。
「……から10分くらいかな。ほら、見てみなよ。多分、みんな俺たちと目的地同じだぜ。あのカップルとかそうだろ」
「私たちも、他の人からはカップルに見えたりするのかな」
「な、何言ってるんだよ。アカリ」
アキラは動揺して顔が赤くなり、言葉が詰まった。
私は「冗談よ」と西方の熱風に言葉を乗せて、悠々とまた歩く。
暑がりが理由だけではないであろう発汗が目立つ従者は、とぼとぼと愛らしく着いてきた。
それにしても、やっぱり外は暑かった。
帽子を目深に被り、紫外線から肌を守る。
アキラも今日は帽子を被っていた。
このままでは、熱気に殺されてしまうのではないかと考えるほどだ。
ふらふらしていると、アキラが言った。
「俺もうダメだ。暑すぎて死にそう」
「ええ、もうギブアップ? まだ外に出てから5分も経ってないでしょ」
「さっきも言ったけど暑がりなんだよ」
「しょうがない弟ね」
「うるさい。そこのさ、ドクターバックスに入ろうぜ」
アキラは髭面の博士が笑っているロゴが看板になっている、人気コーヒーチェーン店を指差す。
「いいよ。私もちょっと喉渇いてたし」
「うん。じゃあ行こう。あぁ、暑い暑い」
私とアキラは「ドクターバックス」の扉を開けた。
時刻は10時20分だった。
店内へ入った途端に涼しい空気が身をまとう。
生き返った心地である。
二人して奥の席に座った。当然、窓からは遠い位置にしていた。
私はマンゴースバラシーノを頼み、見るとアキラは、ぶどうスバラシーノを注文していた。
どちらも夏の暑気にやられる前に、さっぱりとした飲料を求めていたのだ。
コーヒーは好きだが、流石に飲む気になれなかった。
太いストローを伝って、冷たいマンゴーの風味が口いっぱいに広がる。
舌の上で果実が踊り、鼻腔を優しく新鮮な芳香が突き抜ける。
喉を通る頃には、一口で幸せを噛み締めるほど美味しく感じられた。
「ああ、美味い」
アキラも大きな瞳に光が戻り、冷たいカップを額に触れさせる。
「ちょっと、みっともないしやめて」
「気にしてられないほど、外の気候が異常すぎるんだって」
「それ、なんかおじさんがおしぼりで顔を拭いてるみたいよ」
「はあ? それとは違うよ」
「変わらない」
「違うって。おじさんじゃないし。まだぴちぴちの大学生だ」
「自分でぴちぴちってところが、おじさんジョークね」
「おじさんじゃないって」
「なんか、シノミヤ教授に似てる」
「シノミヤって、あの髪が薄くて髭がもじゃもじゃ生えてる人のこと?」
「そう。ちょうど、このドクターバックスのロゴになってるキャラクターにも似てる」
「ア、アカリ……」
しゅんとして、ストローをくわえた姿が愛犬みたいだった。
からかいたくなる気持ちを抑えられない。それがとても伝わる。
そう。そうなのだ。
……いつも、アキラは私を笑顔にしてくれる。
アキラといると、幸福を全身に浴びている気分になる。
幸福の象徴ではない。私にとって、アキラは幸福の実体なのだ。
一緒にいるだけで、何もかもが満たされる。
ああ、アキラ。アキラ。アキラ。
そんなことを考えていた時だった。
アキラが話しかけてきた。
「なあ、俺が入ってるサークル知ってるよな」
「知ってるよ。何回も聞いたし。文芸サークルでしょ」
「そうそう」
「初めて聞いた時、ちょっと意外だった」
「何で?」
「だって、アキラって運動も得意でしょう。中学も高校も、いや小学生の頃からスポーツで一番ばっかりとってたじゃん」
自慢げにアキラは胸を張って、私の顔を見て答えた。
「まあね。でも、そういうスポーツ以外の活動も興味が湧いてきてやってみようと思ったんだ」
「それで、どうなの」
「うん。始めてみて正解だった」
「どこら辺が楽しい?」
「創作の楽しさが分かったことかな。自分が考えた物語を文字に起こす。それって単純なことだけど、言葉を知ってないとできないし、表現一つ取ってみても細かい気配りができないと難しい」
「よくやるわよね。私、レポートで文字数を埋めるのに精一杯だから無理ね」
「アカリだって読書はするだろう。レポートは、また別物だよ。それを言うなら俺もだし」
「双子らしい共通点かな」
「ほとんど誰でもあてはまるだろ」
また困ったような顔でアキラは笑った。
しかし、すぐに思い出したように話しだす。
「それでね。文芸サークルに面白い人がいるんだ」
「誰よ」
「副部長のコヨミって人」
「ふうん。聞いたことない。どんな人なの?」
「大人しいんだけど、文学のこととなるとすごい熱量で話してくれてね。俺の作品にも感想くれたりして、すごく嬉しかったんだ」
どくん。
大きく命の核が反応する。
私の脈拍は明らかに上がっていた。
どくっどくっどくっどくっ。
アキラが嬉しそうに、名前を呼んでいる。
「……その女の子、かわいい?」
「なんだよ」
「いいからさ。どうなの」
私は胸がはち切れそうだった。
アキラ、ああ、アキラ。そんなことって。
どうすればいいのか分からない。聞かない方が幸せになれるかもしれない。
しかし、耳が空気に張り付いて離れない。
目が一点に集中してしまう。
アキラは、ぼそっと言った。
「かわいいよ」
「へぇ……そうなんだ」
この反応。
表情、仕草、声音、声量、拍動、心音、発汗、興奮、羞恥、躊躇、目線。
アキラ。
アキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラアキラ
アキラ。
アキラは、恐らく本気だ。
本気で、好きなんだ。
私はすべてを悟った。
もはや言葉はいらず、分かってしまった。
「その子のこと好きなの?」
「まあ、ちょっとね」
「アキラが私以外を好きになるなんてね。私のこと、嫌いになったの」
「な、何言ってんだ。アカリは姉だろ。恋愛なんて、できないよ」
ああ、そんな。
私はとんだ思い違いをしていた。
私は、私は……。
「ふうん。あっそう」
一拍おいて、声がする。
「ねえ。その子、コヨミちゃんだっけ」
「そうだけど」
「コヨミちゃんのどこが好きなの」
「何でそんなこと教えなくちゃいけないんだよ」
「いいから」
「どうしてもか」
「気になるから教えてよ」
「ううん。そうだな。さっきの続きだけど、俺の作品に対して感想をくれるって話はしたよな」
「ええ、そうね」
「その感想が面白くてね」
「どんな風に?」
「作品を読んで、俺が究極のナルシストだっていうんだ」
「ナルシストか。確かにね」
「おい。やめてくれよ。多少は否めないかもしれないけどな。俺は自分に自信を持ちたいだけだから」
「ふうん」
「あとは、思い込みが強いなんてことも言った」
「思い込み、ねえ」
「そうだ。何だか性格診断みたいだけど、作品内の描写の癖を引用して指摘されると、的を射ている気がするんだ」
「そんなこと、本当に分かるの」
「俺は素人だから、作品と作者の分離ができてないってことなのかもな」
「ああ。そういう意味なら、確かにアキラは究極のナルシストかもね」
「あんまりいい気分しないな」
「それはコヨミちゃんに対して?」
私が余計なことを言っている。
いや、もう私ではないのかもしれない。なぜなら、私は必要なくなったから。
制御ができない。
「アカリ、さっきからどうしたんだよ。何だか様子がおかしいぞ」
「いえ、別に何でもないの」
私なのか分からなくなった私は、手元にあったジュースを飲んだ。
手が震えている。
アキラも目が泳ぎながら言った。
「も、もう一回言うけど、俺たちは双子の姉弟の関係であって……」
「分かったから!」
大声で叫ぶ。
周囲の客は一斉に音の主を見た。
発信者本人が一番驚いていて、反射的に出てきてしまったようなものだった。
「ごめん。今日はもう帰るね」
「待ってくれ。ア、アカリ!」
走りだす。
出入り口の扉が猛然と開かれた。
アキラも走って、それを追いかけた。
しかし、私自身が一番驚いていた。
人生最大の驚きだった。
ずっと頭から離れないあの声。
……かわいいよ
私は灼熱の8月の陽光によって、再び照り焼きにされた。
そして、私は大事なことを考える。これからの生き方についてだった。
私自身がこの世からいなくなるか。
アキラが好きな女、コヨミを殺すべきか。
狂気の選択は、歯止めが効かなかった。
これが、アカリとアキラ。
私とアキラの歪な関係の始まりだった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!